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夢のようなひととき、とはまさに昨夜のことである。
美しいドレスを身に纏い、レリウス・スタルスのエスコートで素敵な店で優雅な談笑……。これが普通の令嬢であれば彼からの誘いを誇り自慢し、そして嫉妬されていただろう。もっとも、聖騎士アランが自慢したところで誰も信じないだろうし、なにより去り際に「今夜のことはどうか二人だけの秘め事に」と手の甲にキスされたのだから、その恥ずかしさも相まって言いふらす気にはなれない。
そしてそんな昨夜のことをよりいっそう夢のようだと思わせるのが、今のこの状況。
この……子供会のハイキングの監視という状況……。
「同伴だなんて聞いてません」
「だろうな、言ってない」
死んだ魚のような瞳で訴えるアランに、ヴィグが落ち着き払って言いのける。
そうして互いにスゥ…と一度息を吸い込み
「今日の仕事は『国の未来を背負う子供達を悪しきものから守り抜く仕事』って言ったじゃないですか! まぁ、薄々感づいてだけど! どうせ今回もしょうもない仕事だろうなとは思ってだけど! まさかの連続ハイキング! これは聖騎士の仕事じゃない!」
「落ち着けアラン! わかった、そこまで言うなら聖騎士らしく魔物の相手をさせてやる! 呼び寄せてやる!」
「どんな魔物ですか?」
「ロングコート着たでかいのと、性別詐欺の可愛いの」
「その魔物は呼ばなくても詰め所に遊びに来ますよ! うぅ、これは聖騎士の仕事じゃない……」
わぁわぁと喚いたのち、アランがしゃがみこもうとし……
「アラン、疲れたの?」
と、事情を知らぬ子供に騎士服を引っ張られた。言わずもがな、子供会の子供である。
「そう……アランは疲れたの。人生に。人生に疲れ果てたので至急来世に切り替えたい」
「子供相手にガチの愚痴をもらすな」
「もうやだ! 団長がもってくる仕事はどれも雑用すぎる!」
「失礼だな、今回の仕事も『ハイキング中に魔物が出そうな気がしないでもない』っていうから受けたんだ。聖騎士の仕事だろ」
「だからその『魔物』って単語が出れば何でも引き受けるのやめてくださいよ!」
「あと『荷物持ちが足りない』とも言われた」
「明らかにそっちが本音!」
喚くアランにヴィグが溜息をつき、片手に持っていた――持たされていた、ともいう。なにせ荷物持ち――おやつ袋を差し出した。せめてもの慰めであり、それを理解してアランがおやつ袋からクッキーを取り出す。
結局のところ二人は聖騎士。魔物絡みであればどんな雑用であっても引き受けなくてはならない。
例えそれが「魔物が出そうな気がするから畑を耕すのを手伝ってほしい」だったり「魔物の気配がした気がするから庭の草刈りをしてほしい」だったり、果てには「ベテランの店員が休みで店が回らず、その隙をついて魔物に襲われそうだから臨時で働いてほしい」だのといった明らかに明後日なものでも、『魔物』と依頼主が口にすれば頷かざるを得ないのだ。
恨むべきはヴィグではなく聖騎士の称号と、「困ったらとりあえず聖騎士を呼んでおこう」という便利屋扱いしてくる人達。
そうあっさりと割り切り、クッキーを食べながらアランが歩き出す。今はとりあえず目の前の仕事を片付けよう、そうして子供会の職員達に聖騎士は便利屋ではないと説明すればいいのだ……たぶん通じないだろうけど。
そんなことを考えつつアランとヴィグが子供達に絡まれ歩き……ガサ、と揺れた草木と、そして一瞬にして全身を伝った寒気に身構えた。
「なっ……」
「なんだ……!」
何かがいる。何か、よくないものがいる。
それを二人が察したのは偶然か、それとも廃れたとはいえ聖騎士の末裔だからか。足下から絡みついて這い上がってくるような悪寒にアランが聖武器に手をかけ、すぐさま子供達を集めて職員達の元へと向かった。
幸い、一列になって歩いていた子供達はアランの表情から何かを察し、声をあげることもなく――声が出なかったのかもしれないが――大人しく職員へと駆け寄ってくれた。
「アラン、どうしたの……?」
「何かいます、落ち着いて対処を」
「何かって?」
なにがいるの?と首を傾げる職員に、アランが声を潜めるように仕草で指示を出す。「魔物が出るような気がしないでもない」と言って依頼を寄越してきたというのにこの不思議そうな表情なのだから、まったくもって呆れてしまう。
もっとも、今はそれを指摘する余裕も、ましてや「やっぱり雑用を押しつけられただけなんだ!」と嘆いている余裕もない。
なにせいまだガサガサと茂みが揺れ、しかも音が大きくなっているのだ。
それと同時に産毛が逆立つような緊張感が募り、子供達を庇うように背に隠せばよりいっそう全身の鼓動が速まる。心音が体中に響きわたる感覚、これ以上ないほどに本能が危険だと訴えている。
見ればヴィグも同様、真剣な面持ちでジっと目の前の茂みを睨みつけていた。
そうしてこの場にいる全員の視線を集め、ガサリと一際大きく茂みが揺れる。
そこからゆっくりと顔を出したのは……
熊。
二頭の、熊。
体躯は成人男性と同等か、片方はそれを越えるかもしれない。全身は真っ黒な体毛で覆われ、土を踏みしめる足はまるで大木のように太い。赤く輝く瞳は見慣れた色合いよりどこか色がきつく、ゆっくりと舐めまわすようにこちらを一瞥し、グル…と一度低い唸り声をあげた。
わずかに鼻をつく甘い香り……。だが今はその匂いを気にしている場合ではない。
なにせ熊、それも瞳の色から見るに魔物。
小さく息を飲む声が聞こえてきたのは子供達か、それとも職員か……。どちらにしろ今視線を後ろに向けるのは得策ではないと考え、アランがジっと二頭の熊を見据えた。
黒一色の体毛、太い手足の先に見える爪。赤い瞳はどこかピンクが混ざっているように見える。
今まで見たことのある魔物の瞳と言えばあの凹凸コンビのものか、もしくはリスや虫のような小さなもののみ。猛獣になると瞳の色も少し違うのだろうか、そんなこと文献には書いてなかったけど……と、心の中で考えを巡らす。
だけど、と最後に小さく呟いたのは、目の前の熊が魔物で良かったからだ。
これが本当の野生の獣であれば太刀打ちできなかっただろう。騎士といえどアランは少女。同年代の女性よりは鍛えているが、所詮は女の身。それもこうなってまだ数年しか経っていないのだから、大の男でも敵うはずがない獣相手にどうこうできるわけがない。
だが、アランは聖騎士である。
幸いなことに、魔物を倒す聖武器を持つ聖騎士である。
そして同時に聖騎士だからこそ、この場で逃げることが許されない。
貧乏くじにも程がある……と、そうアランが考えると同時に、ゆっくりと聖武器を引き抜いた。コートレス家の聖武器、この状況でアランの生存率を上げてくれる対の短剣。
鞘から引き抜く瞬間カチンと響いた刃の音が心臓を跳ね上がらせるが、赤い瞳がこちらを向くだけで飛びかかる切っ掛けにはならなかったようだ。思わずアランが安堵の息を吐くが、早鐘のような心臓が邪魔をして呼吸もろくにできない。
怖くて、逃げたい。どうして自分が…と恨み言に似た考えが浮かぶ。
それでもゆっくりと目の前の魔物に近付くのは聖騎士だからだ。といっても正義感や忠誠心もなく、誇りもない。あるのは聖騎士を押しつけられた意地だけ。
背後では職員が子供達を連れてゆっくりと後退していく音が聞こえてくる。願わくばどうかそのまま安全な場所へ……とアランが魔物の瞳を見据えたまま、背後の気配が遠ざかっていくのを意識で追った。
どれほど時間が経ったか。
体感時間などとっくに狂った身では丸二日と言われても納得しそうなほどの重苦しさを耐え抜いて、ようやく背後の足音が消えたことにアランが小さく安堵した。
この森は子供達のハイキングコースに選ばれるほどだ。怯えた子供達が一緒でもすぐに普通の道に出るし、城下までさほど遠くもない。しばらくすれば騎士達を連れてきてくれるだろう。
だが逆に言えば、生活区に近いからこそ目の前の脅威をやり過ごせないのだ。
本当に貧乏くじだ、そうアランが心の中で悲鳴をあげた瞬間、しびれを切らしたのか目の前の魔物が後ろ足で立ち上がるや、周囲の空気を切り裂くような咆哮をあげた。
「アラン! そっちは任せた!」
「無理ですが任されました!」
それぞれに襲いかかってくる魔物に対し、ヴィグはナックルをはめた拳を、アランは二刀の短剣を構えた。
次の瞬間、抉るような鈍い音が響く。
たとえ成人男性の、それも日々鍛えている男であっても、獣には太刀打ちできやしない。それでもアランが初手の一撃を短剣で受け止めることができたのは、ひとえに手にしていたのが聖武器だからである。
魔物相手にのみ聖騎士の能力を向上させる聖武器の加護。といっても、それも随分と適当なもので、鋭利な爪が身体を抉るようなことこそなかったものの、盛大に吹き飛んで背中から大木へとぶつかっていった。
「かはっ……」
肺の中の空気が一瞬にして吐き出され、チカチカと目の前が瞬く。
痛い。苦しい、怖い。
できればうずくまって呼吸を整えたいところなのだが、さすがに今はそんな場合ではないと自分を叱咤し、震える足で立ち上がる。
聖武器の加護のおかげで派手な外傷はないが、痛いものは痛い。口の中を切ったのか鉄の味と血生臭さが口内に広がる。
それでもと聖武器を握り直し、目の前の獣を見据えた。グルグルと低く唸っているのは一撃でしとめたはずが立ち上がったことへの威嚇だろうか。赤い瞳は真っ直ぐにアランを見つめているあたり、幸いなことに獲物として認識してくれたようだ。
よかった、と安堵するのは、この魔物が目の前の獲物を捨て去って他を追う可能性が少ないからだ。熊は獲物に対する執着心が強い、とりわけ熊と同じ外観の魔物はその傾向が強く、例え魔物同士であっても横から手を出されれば容赦をしない…と、いつだったか文献で読んだ覚えがある。
もっとも、国民を守る聖騎士としては喜ぶべきなのかもしれないが、アラン・コートレスとしては悲鳴をあげて泣きたいところだ。
それでも……とアランがチラと横目に視線をやれば、巨大な獣を相手に素手で戦うヴィグの姿が見えた。聖武器がナックルなのだから当然と言えば当然だが、身の丈以上ある熊と取っ組み合い、果てにはマウントをとられてダラダラと涎を垂らされる姿は哀れの一言。思わず「あれよりマシだ」と自分に言い聞かせてしまう。
だがそんなことを長く考える暇もなく、再び獣の咆哮が響きわたり、アランは舌打ちをすると同時に駆けだした。
現状、アランが熊を相手に逃げ回れるのは聖武器の加護のおかげである。
といっても万能なわけではなく限界があり、加護の限度を超えた傷を負えば当然だが死に至る。長く戦えばいずれは体力が尽きる。過去の戦いでも何人もの聖騎士が魔物を相手に命を落としているし、苦戦を強いられ撤退した記録も残されている。
聖武器があれば勝てる、最強! というわけではないのだ。
「せめて遠距離だったら……」
小さく舌打ちをしつつ、アランが木々を抜けて走る。加護のおかげで走る速度は通常の非ではなく、本来であれば手で掻き分けて進む茂みも聖武器の一振りで一掃できる。
これならば逃げ切ることもできるだろう。必要とあらば木に登り、枝を飛び移るようにして移動しても良いのだ。例え熊が身体能力に優れていたとしても、さすがにあの巨体で木々を飛び回るのは不可能。対して、今のアランにはそれが出来る。
もっとも、聖武器を持つ聖騎士にそんな逃げの選択肢が許されるわけがなく、アランが再び舌打ちをした。
その瞬間、草木を切り裂くように振るっていた短剣が宙をかいた。森の中を走り続けて、いつのまにかひらけた場所に出たのだ。
果たしてこれをチャンスと取るか、それとも遮蔽物がなくなったことを悔やむべき……。
だがそんなことを考える隙もなく背後で咆哮が上がり、アランの視界のすみで何か黒いものが風を切るように動き……ゴッ!と酷く鈍い音が脳内で響きわたった。
頭蓋がきしむような激痛、脳が直接揺すぶられるかのような衝撃。ふき飛ぶように転がり、仰向けになった瞬間に腹部に何かがのし掛かってきたのがわかった。チカチカと瞬く視界には黒い固まりが広がる。鼻先にかかる暖かい風は生臭く、それでいてどこか覚えのある甘ったるさを感じさせる。
揺らぐ視界でそれでも目を凝らせば、ボンヤリとする視界には涎を垂らし鋭利な牙を見せつける熊の顔……。赤い瞳に自分の間抜けな顔が映っているのが見える。黒い体毛、白い牙、赤い瞳、それに、体毛で覆われた熊のこめかみに突きつけられる銀色の銃……。
銀色の、銃?