2
翌日、自室で出かける準備をするアランの動きはひどく緩慢としていた。赤い髪を三つ編みにしばり枕元に置いてある対の聖武器を腰にさす、鞄の中身を確認し道中食べる予定のクッキーを一枚だけ口に放り込む。その都度小さくだが溜息をつくあたり気乗りしていないのは明白。
そこに響くコンコンという軽い音は言わずもがなノックの音で、この寮においてアランの部屋を訪ねる者など一人しかいない。
だからこそ誰かを確認するでもなく鍵を開ければ、キィとゆっくりと開いた扉の隙間から予想通りの金糸の髪が覗いた。
「アラン、おはよう」
そう穏やかに微笑むのはフィアーナ。飾り気のない濃紺のワンピースはシンプルながらに彼女の美しさを引き立て、色濃い布にかかる金の髪は眩く映える。
そんなフィアーナは普段ならばそのまま部屋に入るや椅子に座って話しだすのに、今日に限っては扉の前に立ったまま「ねぇアラン」と名を呼んできた。
その瞳が輝いているように見えるのは気のせいだろうか?
「フィアーナさん、どうしたの?」
「アラン、玄関で彼が待ってるわよ」
楽しげにニッコリと笑って話すフィアーナに、言われたアランが頭上に疑問符を浮かべて「彼?」と首を傾げた。
いったい誰のことか分からない、そもそも今日は誰とも会う約束などしていない。
だがそれを説明するより先にフィアーナが「ほら、待たせちゃだめよ」と急かしてくるので、アランはさっぱり分けが分からないと眉間に皺を寄せたまま鞄をひっつかんで玄関へと向かった。……と、その前に慌てて「ちょっと靴とってくる!」と窓辺へと向かったのは、今日も今日とて玄関ではなく窓から出て行こうと思っていたからである。
――余談だが、窓から出て行くと言えど外から施錠できるように仕掛けをしており、防犯対策はバッチリである。これをフィアーナに話したところ「寮内で何か事件があったら真っ先に疑われるわよ」と溜息混じりに言われたのは記憶に新しい――
ちなみにそんなアランに対してフィアーナは相変わらずだと肩を竦め、それどころか「騎士服で行くの? もっと可愛い服があるじゃない」と訴えてくる。これにはアランの頭上の疑問符が更に増したのは言うまでもない。
そうしてフィアーナに急かされるように廊下を進んでいたアランがはたと気付いて言葉を飲み込んだのは、玄関の人集りを見たからである。
いったい何があるというのか、女性ばかりが数十人、玄関前に集って群を作っているのだ。それでいて玄関を抜けて外に出て行くわけでもなく、それどころか黄色い声をあげる者やウットリと見惚れるように頬を染める者までいる。おおよそ、寮の玄関には不釣り合いな盛り上がりである。
そんな中、人集りの一人がアランとフィアーナに気付いて寄ってきた。
アランが思わず逃げるように視線を逸らすのは、こちらに歩み寄ってくる女性もまた美しく聡明で、いわゆるエリートと呼ばれる王宮勤めの女性だからである。いや、彼女一人だけではない。今この場で群を作っているのは皆王宮に勤めている才色兼備な女性達なのだ。
知性を感じさせる美しい顔つきに、艶のある手入れのされた髪。白く傷一つない肌、線の細いラインに纏う仕立ての良い服。センスよく、そして美しく着こなし、中身も外観も磨かれきった存在。
そんな女性の憧ればかりが集うその光景を、どうして聖騎士が眺められるというのか。募るコンプレックスでアランが逃げるように半歩後ずさるも、フィアーナの手が逃がすまいと背を押さえてきた。
「ねぇフィアーナ、今玄関にね」
「えぇ知ってるわ。だから呼んできたの」
「呼んできたって……」
チラと女性が視線をフィアーナからアランへと移す。
「彼女が何か?」とでも言いたげな瞳だが、向けられたアランだって何が何だがさっぱり分からないのだ。
だが唯一事情を知るフィアーナはやんわりと笑うだけで説明する気も無いようで、二人分の視線を受けても楽しげにしている。それどころか「さ、行くわよ」とアランの背を押して人混みへと向かってしまうのだ。
集団がこちらに気付き、道を譲る。といってもアランにではなくフィアーナにである。若くして王立図書館の責任者の座に着く彼女は、女性の憧れが集うこの寮においてもなお『憧れの的』なのだ。
そんなフィアーナと並んで視線を向けられればいよいよをもってアランは気が気ではなく、注がれる好奇の視線から逃れようと周囲を見回し……
「デルドアさん?」
と、玄関先で佇む人物に目を丸くさせた。
普段通り茶色のロングコートを纏い、吹き抜ける風に銀の髪を揺らす。これだけ女性の視線を受けてなお彼の赤い瞳は誰かにとらわれることなく、寮の玄関先に飾られている花を退屈そうに眺めていた。
それがまた女性達の心を燃え上がらせるようで、ザァ……と強く吹いた風に彼が髪を押さえれば、人集りから熱っぽい吐息が漏れる。
だがそんな彼の態度がアランの一声であっさりと変わった。名を呼ばれるとはたと気付いてこちらを向き、今までの無表情が一転して和らぐ。極めつけは、
「アラン」
と名を呼ぶ、この低くそれでいて優しい声。
一瞬にして集団がざわついたのは言うまでもない。だがアランとて彼がここにいる理由が分からず、説明を求めるような視線を向けられてもどうしようもないのだ。
それでもとデルドアへと駆け寄れば、彼は暢気に「よぉ」なんて言ってくる。この燃えかねないほどに熱い女性達の視線も気にもとめていないようで、相変わらずの空気の読まなさである。
「デルドアさん、どうしたんですか?」
「男は入れないって言うからここで待ってた」
「そりゃ男子禁制の寮ですけど……そうじゃなくて、なんでここに居るんですか?」
「お前以外に、俺がここにいる理由はないだろ」
そうあっさりと言い切るデルドアに、人集りからよりいっそう混乱のざわつきがあがる。
突然現れたこのクールな美丈夫が、よりにもよって代替騎と話しているのだ。それも大分親しげに。これを驚くなという方が無理な話――アランからしてみれば失礼な話ではあるのだが――
そんな居心地の悪さを極めたような状況に、アランが慌ててデルドアの腕をとって彼女達の視線が届かないところへと歩き出した。勿論、デルドアは抗うことなくそれに従ってアランの隣を歩く。
それがまた人集りを沸かせるのだが、そんな中で一人笑うフィアーナの楽しそうなことといったらない。
「それで、どうして寮に来てたんですか?」
「昨日、他の聖騎士の家をまわるって言ってただろ」
だから、と告げるデルドアに、隣を歩くアランが首を傾げた。
確かに昨夜そんな話をした。聖武器に刻まれている文面を調べるため、かつて聖騎士であった家を訪ねてまわる予定だったのだ。文面に関して書かれた文献は殆ど残されておらず、あっても脚色が強いお話の一部のみ、信憑性の薄いそれを信じるくらいなら実際に見て回ろうと考えてのことである。
幸い、先日の一件でジャルダン・スタルスに貸しを作ることができた。スタルス家の聖武器ならば見せて貰えそうだし、頼めば他の家にも口利きしてくれるかもしれない。
「でも、それでどうしてデルドアさんが?」
「その時にロッカが言ってただろ」
「ロッカちゃんが……?」
いったい彼が何を言っていたか……とアランが昨夜の記憶を辿る。
樽から直結したピンクのロングストローをくわえてコクコクと喉を鳴らし、時折は酔っ払いに絡まれて華麗に愛らしく高い酒や料理を奢らせていたロッカ……。相変わらず愛らしくえげつないパッションピンクである。
そんな彼が、何か……。
『アランちゃん、他の聖騎士のお家に行くの? 大丈夫?意地悪されない?』
「あ、もしかしてそれで?」
「ロッカも行くって言ってたんだがな、今日はギルドから囮役の依頼があって来れなかったんだ」
「……お、囮? 随分と物騒ですね」
「あぁ、最近女子供を狙う賊がいるとかでギルドから指名がきた。ロッカなら適任だし、本人も『ちょっくら地獄見せてくる!』って意気揚々と出かけていったし」
だから今日は俺だけ、そう話すデルドアにアランが小さく頷いて返した。
あんな他愛もない会話を、それでも彼らは案じて同行を買ってでてくれたのだ。その気遣いが嬉しくもあり、安堵も募る。
心配するヴィグに対しては「大丈夫です!」と気丈に振る舞ってはいたが、朝からアランの胸の内は暗く恐怖とも言えるストレスが重く伸し掛かっていたのだ。不思議なことにそれらの負の感情はデルドアが隣を歩いているというだけでスゥと音をたてて消え去っていく。
もっとも、彼が同行してくれるからといって各家の対応が変わるとは思えない。むしろ聖騎士と魔物という組み合わせなのだから門前払いの可能性だってあるのだ。それでも、今はそんな心配よりも純粋な嬉しさが募る。
「デルドアさん、ありがとうございます」
そう素直に礼を告げれば、返ってくるのは相変わらずぶっきらぼうな「ん」という一言。それがまた何とも彼らしく、アランが苦笑を浮かべて彼の隣を歩いた。
最初に訪ねたのはスタルス家。
アランが名乗ると警備が訝しげな表情を浮かべたが、それでも通してくれたのは三男に続き次男までもが聖騎士団に救われたからだろう。
そうして屋敷の玄関に通されてしばらく、奥から現れたのはジャルダン・スタルス。そして彼の隣には妻であるビアンカ・スタルスの姿もある。ジャルダンが以前に「妻一筋だ」と断言していたその相手である。
杖をつく夫を支えるように寄り添う彼女は小柄で、体躯の良いジャルダンと並ぶとまるで子供と大人のようではないか。顔つきもどこか幼さを残した愛らしさがあり、花柄のワンピースが可憐さを引き立たせる。噂ではジャルダンより年上と聞くが、まったくそうは見えない。それどころかアランと同い年と言われてもおかしくないほどだ。
「ジャルダン様、お忙しいところ申し訳ありません」
深々と頭を下げるアランに、ジャルダンが片手で返す。彼の隣ではビアンカがスタルス家婦人らしく優雅にスカートの端を摘んで腰を落とした。
「スタルス家の聖武器なら父に話を通しておいた。今準備をさせているところだ。だが他の家は……」
言葉尻を濁らせるジャルダンに、アランが察して「大丈夫です」とかぶせた。
いかにスタルス家といえど、聖騎士絡みで他家に口利きするのは難しいのだろう。そもそも聖騎士を抜けた家同士において『聖武器』など禁句扱いされていてもおかしくないのだ。更にはレリウス・スタルスのことがあり、スタルス家内でさえ聖騎士に絡む言葉は禁句なのかもしれない。
それでも父親である当主に話を通してくれたのだから感謝しなくては……と、そんなアランの考えを遮るようにビアンカが「今すぐに手配させます」と断言した。
「……ビアンカ様?」
「理由は分かりませんが、他家の聖武器を見たいのですよね? それなら今夫が一筆したためますのでお待ちくださいませ」
そう告げるや手近にいたメイドを呼び寄せ「ペンと紙を」と命じるビアンカに、誰もが目を丸くさせた。随分と強引ではないか。
夫が一筆と言っているが、当人はその隣で慌てているのだ。
「ビアンカ、何を勝手な」
「アラン様は命をかけて貴方を救ってくださったのですよね」
「あ、あぁそうだ」
「ならば何を迷うことがございますか。恥も外聞もかなぐり捨てて恩を返すよう努めるのが男児の在り方ではございませんか!」
「そ、それは確かにそうだが……」
ピシャリどころではない強い口調で言い放つビアンカに、対してジャルダンがしどろもどろで応戦する。
確かにアランには救われた恩がある。だが他の事ならばまだしも事は聖騎士絡み、スタルス家の者として他家に融通をきかせるのは難しい……という具合なのだろう。だがビアンカは恩を返せと訴え、折れる様子はない。まさに板挟みだ。
そんなジャルダンの心境を察してアランもビアンカを宥めようとし、ハァ……と盛大に吐かれた彼女の溜息に言葉を飲み込んだ。心なしか、ジャルダンが青ざめているように見える。
「分かりました。アラン様、お力添えが出来るかは分かりませんが、私が一筆したためさせていただきます」
「……ビ、ビアンカ」
「私、誉れ高きスタルス家に嫁げたと思っておりましたが、どうやらそうでは無かったようですね」
そう冷ややかに言い放ち、ビアンカがメイドからペンと紙を受け取る。その間際に
「私の部屋に行って荷物を纏めておいてくれるかしら」
と命じた。おまけに
「夕刻には発ちますので」
とジャルダンに視線すら向けずに告げるのだ。直下型離縁宣言である。
「ビアンカ! いい、俺が書く!」
とは、それを受けて彼女の手からペンを奪い取ったジャルダン。顔色を青ざめさせ鬼気迫る迫力なのは、目の前でこの宣言なのだから当然と言えば当然である。
だがビアンカはそれでも不満だと言いたげで、小柄な彼女には不釣り合いな鋭い眼光で青ざめる夫を睨みつけた。
「そのような態度で恩を返されて喜ぶ者がどこにおりますか!」
「喜んで書かせてもらう!」
だから!と喚くジャルダンを、ペンを返せと手を伸ばしていたビアンカが数秒見据え、ようやく納得したのかスッとその細腕をおろした。
それを見て取った瞬間のジャルダンの安堵のしようといったらなく、再び機嫌を損ねたら堪ったものではないと慌てて紙へと向かう姿に第一騎士団の威厳は見られない。
以前に妻一筋と言っていたが、これは尻に敷かれていると言うのでは……そうアランが心の中で呟けば、チラと横目で見てくるジャルダンの瞳が「なにも言ってくれるな」と訴えていた。