12
「もしかして……これ……?」
恐る恐るアランが右腕を差し出す。
赤い石のはめられたブレスレット。獣王の末裔であるロッカが「お守りだよ」とプレゼントしてくれたものだ。
それを見るや眼前の狼は念入にブレスレットを嗅ぎ、背後に控える仲間達を一瞥しまるで忠誠を誓うようにゆっくりと頭を下げた。次いで数十頭の狼達もそれに倣う。その光景はまさに圧巻。
目の前の危機が一転して信じられぬ光景へと変わり、アランが数度瞬きを繰り返した。
すべての狼がまるで危害はないと訴えるように頭を下げている、その姿に、見えなくなった牙に、体中に纏わりついていた恐怖が徐々に薄れていく。
「代替騎、これは……」
「……ロッカちゃん」
「……ロッカ? 誰のことだ?」
「あの、ロッカちゃんっていう獣王の末裔が……そう、獣王が守ってくれているんです」
右腕にはめたブレスレットを優しく撫で、アランが記憶の中のロッカの姿を思い浮かべる。
小柄で可愛らしくてまるで美少女のようで、それでいて彼は全ての獣を統べる王の末裔。きっと目の前で頭を垂れる狼達は、無力な人間の背後に雄大に構える王の姿を見ているのだろう。
その中の一匹が徐ろに頭を上げると、チラとこちらを一瞥して歩き出した。着いて来い、ということなのだろう。
「ジャルダン様、行きましょう。狼が案内してくれるはずです」
「お前一人で行け」
「そんな、どうして……!」
「……足が動かない」
ポツリと漏らされたジャルダンの言葉に、アランは一瞬なんのことか理解できないと彼を見つめ……すぐさま足元へと駆け寄った。
「足が動かないって!? なんで!どうして!?」
「おい、落ち着け」
「だ、だ、だって足が、足が!」
「だから落ち着け! さっきまでの勇ましさはどうした!」
「あ、あなたに触っちゃったから……ちょ、ちょっと待ってくださいね」
あわあわと慌てつつアランが狼の群れへと向き直る。
そうして先頭にいる一匹に右腕を差し出せば、赤い瞳をこちらに向けて歯をむくでもなく鼻先を摺り寄せてきた。
その瞬間、思考がクリアになる。
「……で、足が動かないというのはどういうことですか? 両足ですか? 肩を貸せば歩けますか?」
「どうして今ので冷静になる」
「切り替わっただけです」
「病院にいけ」
「ひとを二重人格扱いしないでください」
失礼な方だ、とアランが眉をしかめる。もっとも、聖武器の加護について伝聞でしか――それもだいぶ悪意に満ちた伝聞だろう――知らないジャルダンが驚くのも無理はない。
といっても今それを懇切丁寧に説明してやる気にもならず、アランがジャルダンの足元へと戻ると、触らないよう気をつけつつ様子を窺った。
右足に裂傷。痛々しく服が血で染まっている。対して左足にはさほどの負傷は見られない。これなら肩を貸せば……とアランが見上げるも、意図を察したのかジャルダンが否定するように首を横に振った。
「右は骨をやられている、左は……」
「左は……?」
「感覚がない」
言い捨てるようなジャルダンの言葉に、アランが息を呑んだ。
痛みもなにもなく、動かそうとしても脹脛から下の感覚が一切失われているという。
それがどういうことか言われなくとも分かる。何より好ましくない状態なのだ。肉や筋ではなく、神経をやられてしまった可能性が高い。そしてその場合、仮にここで助かっても左足は……と、そこまで考え、アランがジャルダンを見上げだ。
ここから先自分に振りかる惨事を覚悟しているのだろうか、狼達を見据える彼は随分と落ち着いている。死を前に取り乱すことも、動かない足を嘆くこともない。
その落ち着きに、アランがギリと歯軋りをして彼の腕を掴んだ。
「おい、代替騎」
「貴方なんかだいっきらいだ!」
そう睨みながら言い切り、彼の体を引き寄せるように腕を引っ張る。
聖武器の加護は既に切れた。アランの力だけで彼を無理に動かすことは出来ない。それでもジャルダンが身を寄せてくるのは、抗う気力さえも無くしてしまったからか。
どちらにせよやるしかないのだとアランが自分に言い聞かせ、ジャルダンの右脇に肩を寄せた。首と肩で彼の体を支え、腕で右足を掴む。
横になったままのジャルダンをアランが両肩で支えて担ぐ、緊急時に負傷者を運ぶ手段の一つとして以前に教わった体勢である。もっとも、この体勢だからといって二人の体格差が無くなるわけではなく、震える足で立ち上がれば二人分の体重が両膝にかかって痛みすら訴えてくる。
「おい代替騎、おろせっ」
「暴れないでください!」
降ろすよう訴えるジャルダンを黙らせ、アランがゆっくりと一歩踏み出す。もっとも、お世辞にも一歩と言えるような進みではない。半歩、いやそれすらもない。
ジャルダンの体格は騎士として恵まれているのだ、背も高く身体つきもしっかりと逞しい。だが担ぐ側からしたら恨めしさしかない。
重い、とにかく重いのだ。
歩くため片足をあげようにも上手く上がらず、靴底を擦って進むのが精一杯。ナメクジにも鼻で笑われそうなその歩みに、それでもと前へと進めば腰からも悲鳴が上がる。
「代替騎、無理をするな。俺を置いていけ」
「そんなことしたら、貴方が狼に食べられちゃうかもしれないじゃないですか……!」
途切れ途切れ、震える足を擦って動かしながらアランが返す。
ロッカから貰ったブレスレットの効果がどこまで続くか分からない以上、アランとジャルダンが離れるのは得手とは言い難い。
今でこそ案じるように寄り添い道案内をしてくれる狼達もいつ牙をむくか分からない。ロッカのくれたブレスレットが所有者に効果があるのか、それともアランにだけなのか、それすらも定かではないのだ。
なにより、仮にジャルダンにブレスレットを渡して効果があったとしても、彼の足の容態を見るにのんびりと救助を待ってもいられない。
だから自分が彼を連れて行く。
大嫌いだけど、化物と呼ばれても……。
「私は、聖騎士だから……!」
ジャルダンにではなく自分に言い聞かせるように声をあげ、震える足を無理矢理に動かして進む。
「代替騎」とポツリと呟かれたジャルダンの声は僅かながら感心の色をはらんでいたが、今のアランにはそれに気付く余裕はない。
なにせ重い、とにかく重い。あと怖いし、そもそも濁流に揉まれて元より少ないアランの体力はとうに限界を迎えているのだ。
思わず、
「うぅ……ジャルダン様のでぶぅ……」
と恨み事が漏れるのも仕方ない。
「貴様っ! 俺を愚弄するのか!」
「だって貴方すごく重いんです……これバランス崩して後ろに倒れたら私の必殺技が開発されるぅ……」
「そんなことしてみろ、お前の首を締めあげてやる。そもそも俺は太っているわけではなく日々鍛錬を積み」
「筋肉だるまぁ……」
「この! だいたいだな、どうして貴様はそうころころと性格が変わる!」
「聖武器の加護が働いてないんですぅ……埋まるぅ……重くて土に埋まるぅう……」
めりこむぅ……と情けないアランの泣き言と、それに対するジャルダンの怒声が薄暗い中に続いた。
そんなやりとりが数十分は続いただろうか。次第にアランの泣き言がゼェゼェと荒い息遣いにかわり、ガクとバランスを崩しかけることも多くなってきた。
意識も朦朧とし始め、視界も揺らぐ。
「おい……アラン、もういい俺を下ろしてお前だけ行け」
「……大丈夫、です」
「なにが大丈夫だ。もうお前一人で歩くのも辛いだろ。俺を助けてくれたことは認める。だから」
「わ、私は貴方みたいに、たくさんの人は、いないけど……」
荒い呼吸の合間に呟くように返す。
朦朧とした意識では言葉を紡ぐことも難しく、そのうえ喉が引きつってより喋るのを困難にする。額に浮き出た汗の玉が鼻筋を通って顎に溜まり、ポタンと落ちていくのが感覚で分かった。
それでもアランの瞳は真っ直ぐに前を向き、一歩といえぬ距離を進む。
「貴方みたいな人望はないし、慕われてないけど……でも、それでも私の少ない『みんな』は、絶対に助けに来てくれる……」
「……アラン」
「たった三人だけど。でも、諦めなければきっと……」
ヴィグ団長が、ロッカちゃんが、そしてデルドアさんが……
「絶対に助けに来てくれる……!」
そうアランが消えかける決意を奮い立たせた瞬間、ドド…と小さな音が道の先から聞こえてきた。
思わずアランが立ち止まり音を探るように目を凝らせば、肩に担がれているジャルダンも同じように視線を向ける。
暗い道の先、そこから聞こえてくる音。
徐々に大きくなってくる、そうアランが察したのと、道の先からダチョウが姿を表したのはほぼ同時であった。
そう、ダチョウ。
白いダチョウ。
それを見たアランが表情を明るくさせ、対してジャルダンが目を丸くさせた。
轟音を上げて近づいて来たダチョウはアラン達の目の前までくると、ベッ!と勢い良く乗り手を振り落として走り去っていく。
残されたのは、Yの字ポーズで見事な着地を決めるロッカと、無難に着地しハタハタとコートの汚れを払うデルドア。そしてまたも顔面から落とされたヴィグ。
まさに三者三様と言ったその光景にジャルダンはいまだ目を白黒とさせたまま唖然とし、アランはそっと彼を下ろすとヴィグへと近付いた。
「……団長、大丈夫ですか?」
「それは体か? 心か?」
「心です」
「そっちはボロボロだな……。それで、アランは大丈夫なのか?」
ヒョイと立ち上がるや心配そうに様子を窺ってくるヴィグに「私は体のほうがボロボロです」と苦笑を浮かべて返す。
そんな聖騎士団のやりとに割って入るのは、もちろんデルドアとロッカ。ちなみにジャルダンはいまだ唖然とやりとりを見上げているが、一般的にはこれが普通の反応である。
「アランちゃん大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。ロッカちゃん助けてくれたんだね」
「ダイオウグソクムシさん達がね、一番反応早かったんだよ。それで行ってくれたの」
「早いんだ、あれ」
「次点はチンアナゴさん」
相変わらず明後日なことを教えてくれるロッカに、それでもアランは彼の手を取って礼を告げた。
ダイオウグソクムシだろうがチンアナゴだろうが、濁流に飲まれたところを助けてもらったことに変わりはないのだ。
それに……とアランが右腕にはめはブレスレットに視線を落とした瞬間、ふわりと肩に布が掛かった。見慣れた茶色のロングコートだ。
「デルドアさん?」
「冷えただろ、着ておけ」
「……は、はい。ありがとうございます」
どういうわけかデルドアの気遣いだけが気恥ずかしく、それでも渡されたロングコートに袖を通す。
柔らかな暖かさが体を包む。ジャルダンを運んだことで温まった体は、立ち止まるや一転して熱を失っていく。元より水に濡れていたこともあってか体はすぐに冷え、だからこそ彼のコートの暖かさがより鮮明に触れているかのように感じられ、アランがコートの前を合わせるようにギュッと布を掴んだ。
「それで、なんだってアランがジャルダンを担いでたんだ?」
とは、父親状態でデルドアの足を踏みつけるヴィグ。
その言葉にようやくアランが我に返りジャルダンの足を説明すれば、それに相槌を返す彼の声も真剣味を帯びる。同じ騎士として『もしもこのまま足が動かなければ』と考えているのか、顔色も緊迫したものを感じさせる。
「ジャルダン、アランに変わって俺が」
「おめおめと運ばれる姿を部下に見せられるか。お前達が来ているということは第一騎士団も近くにいるんだろ。部下を呼んでくれ」
ヴィグの言葉に被さるようにジャルダンが告げる。
この後に及んで拒絶を感じさせるその言葉に誰もが目を丸くさせ、一番に反応したのはヴーと唸りをあげるロッカだった。
大きな赤い瞳も怒りで細まり、ビョンと勢い良く飛び出た尻尾が逆立つと同時にスカートを捲り上げる。そうして沸点に達したか、カッと瞳を見開くとジャルダンに近付きヒョイと彼を抱きかかえた。
片腕で背を押さえ、片腕で膝裏を支える。
そう、お姫様抱っこである。
「そんなこと言う人は僕が運んであげる!」
と、高らかなその宣言に誰もが――お姫様抱っこされているジャルダンでさえ――わけがわからず唖然とした。体躯がよくまさに騎士と言ったジャルダンを、美少女顔負けの風貌でおまけにスカートが捲り上がってパンツ丸見えなロッカが抱き抱えるという光景は、あまりにインパクトが強すぎて脳の理解が追いつかないのだ。
逆であればさぞや絵になったろうに……。
そんな状態で誰もが硬直すること数秒。「さて」と歩きだすロッカに、自分の置かれている状況を理解したかジャルダンが慌てて待ったをかけた。
こんな姿を部下に見せられるわけがない。もはや聖騎士だの魔物だのと言ったレベルではない。
もちろんロッカはそんなこと百も承知で「待て」だの「止まれ」だのと言うジャルダンの言葉も右から左。おまけにちゃっかり白靄の蛇を呼び出して腕の自由を奪っている。
このパッションピンク、怒らせると怖いのだ。
そのうえジャルダンが嫌がれば嫌がるほど気分がのるのか、スキップまでしだす始末。
そうして軽快な足取りで来た道を戻っていくロッカを三人が眺め……
「第一騎士団のやつらの反応が楽しみだ!」
と、嬉しそうにヴィグがその後を追いかけた。
その表情の楽しそうなことと言ったらなく、意図を察してジャルダンの罵声が更に強まる。
「ヴィグ・ロブスワーク! このガキを止めろ!」
「悪いな、俺じゃロッカちゃんは止められない……出来るのは煽るだけ! ロッカちゃん、華々しく第一騎士団の前に踊り出よう!」
「うんっ!」
「煽るな!」
そんなやりとりが暗い中に響く。なんとも場違いな賑やかさではないか。
残されたアランは呆然としたままその背を見送り……
「わ、私を助けに来たんじゃないのぉ!?」
と、思わず膝から崩れ落ちた。疲労や何やらが積もり、挙句にこの置いてけぼりなのだ。張り詰めていたものがプツンと景気良く切れた。いや、切れたどころではない、粉砕である。
そんなアランに、唯一残っていたデルドアが溜息をつくと同時に目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「立てるか?」
「心も体も何もかもヘトヘトです……」
そう情けない声をあげ、アランが両腕を広げるように伸ばした。頬が赤くなるのは仕方あるまい。
そんなアランの素直なSOSにデルドアが苦笑を浮かべ、応えるように腕を取る。
アランの体がふわりと浮く。包まれるような感覚と、体を支えられるこれは……お姫様抱っこである。
「背負うとか、他の方法でも良いんですけど」
自分で頼んでおきながら恥ずかしくなり誤魔化すようにアランが呟けば、デルドアがクツクツと笑いながら
「心配したんだ。今は大人しく俺の腕の中にいろ」
とだけ告げて歩き出した。
それに対してアランが何か言い返せるわけがない。一瞬にして音が出そうなほど顔を真っ赤にさせ、せめてと彼の服を掴んで
「第一騎士団の間抜け面が見たいんで、走ってください」
と注文をつけて誤魔化した。
団長であるジャルダンの捜索に当たる第一騎士団は、まさに精鋭部隊と言った動きであった。
周囲を窺い、ジャルダンの名を呼び、それでいて警戒を怠ることなく足を止めることもない。団長が居ずとも失われぬ統率力は見事の一言である。
もっとも、いかに第一騎士団と言えど「やっほー! おっまたせぇー!」とテンション高くロッカが現れ、次いで「これがお前達の団長様だ!」とヴィグが跳び込んでくれば驚いて言葉を失うというもの。
二人のテンションはそれほどまでに張り詰めた第一騎士団の空気をぶち壊し、なにより、キャッキャウフフとスキップして周囲を回るロッカの腕の中には日頃威厳を放ち自分達を率いているジャルダンがいるのだ。ロッカのまるで少女のような細腕に軽々と抱きかかえられ、死んだ魚のような瞳で硬直する彼の姿のなんと哀れなことか。
思わずアランが「ざまぁみろ」と呟いてしまうほどである。
そんな光景に唖然とする第一騎士団のなか、いち早く我に返ったのはクロード。
驚愕を隠せないと言った表情で恐る恐るロッカに……というよりロッカの腕の中にいるジャルダンに近づく。
「ジャルダン様、どうなさいましたか……」
「あのね! この人ね、足を怪我して動けないんだって!」
「あ、足を……?」
「うん! だからアランちゃんと僕でここまで運んであげたの! 女の子のアランちゃんとこの僕が細腕で!」
キラキラと瞳を輝かせロッカが説明する。腕の中には、もちろんジャルダン。
「ロッカちゃんの追撃、えげつないですね。人間ってあれほど瞳が濁るんだってくらいジャルダン様の瞳が濁りきってますよ」
「それを踏まえて一言」
「ざまぁみろ」
悪どい笑みで言い切るアランに、デルドアが「それでこそ」と頷く。
そうしてアランがゆっくりと彼の腕から下り、事態に理解か追いつかないと目を丸くさせるクロードの背を軽く叩いた。
「ア、アラン……これは……どういうことだ?」
「どういうって、見たまんまだよ」
「小さくって可愛い僕達がこの人を助けてあげたの!」
ドヤッと誇らしげなロッカの言葉に、アランが苦笑を浮かべつつ
「そういうこと」
とクロードに告げた。