11
叩きつけられるような衝撃と、全身を覆う冷たい感覚。水の中だと理解するよりも先に肺の中の空気が逃げ、苦しさに口を開けば水が口内に流れこんでくる。
だが幸い深く潜ったようではなく、数秒もがけば水面に顔を出すことができた。肺の中に空気が戻ってくる。
もっとも、水面に出られたからといってそれに安堵もしていられない、水の流れが強く、その場に留まることを許さないと容赦なくアランの体を押し流してくるのだ。
「ジャル……ジャルダン様……!」
殴りつけてくるような水流に揉まれ、それでも左腕に意識を向ける。掴んだジャルダンの腕からは応える様子はなく、水面から覗く彼の顔も苦痛に歪むでもなく静かに瞳を閉じている。
気を失っているのだろう、それを考えると同時にアランの心臓が跳ねる。水に体温を奪われたせいか、それともこの状況からくる恐怖からか、一瞬にして寒気が伝う。
泳ぎは得意な方ではない。およげないわけではないが、この濁流では泳ぐどころか顔を水面に出すだけで精一杯だ。それだって続けていけばそう遅くないうちに体力が尽きる。
ましてや気を失ったジャルダンを連れて泳ぐなど不可能。どちらも溺れて……というのが目に見えている末路だ。
だが逆に言えば、ジャルダンを見捨てれば助かる可能性が出てくる。
その考えが頭の隅に浮かび上がり、アランが濁流に飲まれながらジャルダンに視線を向けた。彼が意識を取り戻す様子はない、このまま手を離せば、きっと苦しむことなく水の流れに飲み込まれていくだろう。
彼を助ける必要がどこにある。
化け物とまで言われたのに、どうして自分の命をかけてまで彼を助けなければいけないのか……。
そう考え、アランがジャルダンを掴む手を僅かに弛めかけ……ギリと歯を食いしばると、彼も、揺らぎそうになる気持ちも、そのどちらも引き留めるように強く掴みなおした。
化け物と言われても蔑まれても、自分は聖騎士なのだ。ここで手を離せばそれすらも失ってしまう。
……なにより、
「きっと皆が、デルドアさんが助けに来てくれる!」
そう自分に言い聞かせ、ジャルダンを引き寄せると彼が沈まないようにと抱き抱えた。
だがそんなアランの決意に対し、濁流は容赦なく激しく体を押し流す。
とりわけ気を失ったジャルダンを抱き抱えているのだから、泳ぐことはもちろんその場に止まることも、ましてや流れから逃れようと方向を変えることも許されない。ただ流されていくだけだ。
それも長くは続けていられないだろう……自分の体力が刻一刻と奪われていくのを感じ、アランが自分の死を予感して瞳を細めた。
冷たい水に押し流されて体が冷え切っていく。もはや手足の感覚は失われつつあり、指先はまるで凍り付いたように動かない。水を吸った服が重く、体にまとわりついて動きを邪魔してくる。
そう感じる意識さえも徐々に薄まりつつあり、時折は意識がフツと途切れて息苦しさで再び引き戻される。このままではまずいと朦朧とする中で賢明に意識を手繰り寄せれば、足下に何かがフワリと触れた。水の感触とも、ぶつかっては流れていく岩や異物による痛みとも違う。擽られたかのように柔らかな感触。
「……なに、これ」
まるでアランが沈まないようにと自ら足裏に潜り込んでくるナニカの感触に、疑問が沸いて失い掛けていた意識を取り戻す。
そうしてスゥと一度大きく息を吸い込んで地面に潜り水中を覗けば、濁流の中、不自然な動きで足下に絡み付く白い靄……。
動物用に意志を持ち動く、白く、柔らかな靄……。
ロッカちゃん……!
見覚えのある靄に、アランが心の中で靄の主の名を呼んだ。
獣王の末裔である彼が、この濁流をも介さぬ魂のない同胞を寄越してくれたのだ。
試しにと足を伸ばせば靄が靴底に滑り込み足場になる。靄を掻くようにして背へと回せば、しっかりとした感触が背を支えてくれる。ゆっくりと体を捻れば、こちらの意を察してくれたのだろう誘導するように靄が体を押し進めてくれる。
なんてありがたい……そうアランが安堵と共に体を支えるようにまとわりつく靄に視線を向けた。そんな感謝と同時に沸き上がるのは、いったい何の動物が自分を支えているかという疑問。
靄を見るにそう大きくもない、手の大きさを少し上回る程度。先日呼び出して陸上で跳ねさせていたシャチのような大型ではなく小型とさえ言える。
以前に異種間採用に力を入れていると言っていたが、もしや魚? とアランが水中に目を凝らせば、濁流によって崩れかけていた靄が次第に形を作っていく。
そうして姿を現したのは、まるで虫のような形の、例えるならば団子虫を数十倍に巨大化させたような……。
そう、ダイオウグソクムシである。
「な、なぜこれをっ!」
有り難いけど気持ち悪い! という悲鳴じみたアランの叫び声は、濁流の轟音に負け時とよく響いた。
そんな叫び声をあげつつダイオウグゾクムシに助けられつつ、ようやく濁流から逃れて再び地面に手を着く。
久しぶりに掴む地面の堅い感触に安堵を覚え、冷えと疲労で動かすことすら苦痛な体をなんとか這い上がらせた。どうやらダイオウグソクムシ達は陸上までは着いてこないらしく、アランが陸上にあがりゲホゲホと咳込みつつ水を吐くのを確認するとふわふわと濁流に溶かされていった。
「ありがとう」とは、助けられているうちに愛着を抱いたアランの感謝の一言。今ならば抱きしめられそうなほどに感謝と愛しさが募る。……だいぶあれな見た目ではあったが。
だが今は消えていったダイオウグソクムシ達に思いを馳せている場合ではなく、水を吐き切ると同時に横たわるジャルダンへと近付いた。
「ジャルダン様、ジャルダン様!」
名を呼び、その頬を叩く。
だが彼からの反応はなく、冷え切ったその顔は白味を帯びておりまるで……。そんな嫌な考えが過ぎり、アランが慌てて彼の胸元に耳を寄せた。
トクン……と音がする。緩やかながら確かな心音。それを聞いて僅かな安堵が沸くが、かといって安心しきれるわけでもない。しきりに彼の名を呼び、肩を揺する。
「ジャルダン様、目を覚ましてください!」
「……んっ……」
ピクと小さく彼の眉が動く。
意識が戻りつつあるのだろう。それを見てとったアランがより声をあげて彼の名を繰り返し、冷え切った体を温めるように腕をさすった。
「ジャルダン様!」
「……ん、ここは」
ゆっくりとジャルダンの瞳が開き、青色が覗く。
普段ならば萎縮してしまうはずの声も今だけは安堵がわき、意識を戻すや咳込み水を吐く彼の背を撫でた。
よかった、と心の底から思う。彼が無事で、そしてあのとき手を離さなくて良かった。
「大丈夫ですか、ジャルダン様」
「……ここは?」
「分かりません。だいぶ流されてしまったから……」
濁流のスピードは尋常ではなく、流されている間に何度か落ちるような感覚もあった。正確な距離は分からないが、もといた場所からだいぶ離れたと考えていいだろう。
現在地は洞窟の地下と考えるべきか、それすらも定かではないのだ。視界の確保は出来ているとはいえ周囲は暗く、水の流れを遡って歩くことも出来ない。
それでもせめて外に出ることが出来れば……と、アランが周囲を窺う。岩肌は洞窟よりも更に荒くとうてい登れるものではなく、無理に登ろうものなら再び水の中だ。もう一度水面から這い上がる体力は残っていない。
あのダイオウグソクムシ達がロッカに居場所を知らせてくれるかもしれないが、それだって確実ではないし、居場所が分かったところでここが助けにこられる場所なのかどうかも分からない。
「とにかく、せめて外にでるかして居場所を把握しないと」
このままジッとしていても何も変わらない。日が暮れて周囲が暗くなれば動くことも出来なくなるし、水かさが時間によって変わる可能性もある。徐々に水の量が増して、気付いたら身動きが取れず再び水の中……ということも有り得るのだ、せめて視野が確保されているうちに水から離れておきたい。
そう判断してアランが立ち上がるも、ジャルダンはそれに続くことなくゆっくりと上半身を起こすと「一人で行け」と言い捨てた。
「一人って……なんでですか」
「……足が」
言い掛け、ジャルダンが何かに気付いたようにバッと顔を上げた。
睨みつけるような鋭さで暗がりの一点を見据える。いったい何があるというのか、アランもまた倣うように暗がりに視線を向けるも何もない道の先が続くだけだ。
「ジャルダン様、どうされました?」
「何かいるな……」
「えっ……」
何かいる、とはどういうことか。そうアランが尋ねようとした瞬間、グルル……と動物の唸り声が濁流の合間に聞こえてきた。
慌てて視線を戻せば、僅かに差し込む光をまるで舞台のスポットライトのように一身に浴びて姿を現す……巨体の狼。
しなやかながら獰猛さを感じさせる黒一色の体は、立ち上がれば成人男性ほどはあるだろうか。赤く鋭い眼光が獣の残虐さを表しているようで、鋭利な牙をむき出しにしてこちらを威嚇している。それが、優に十体以上。
「あ、赤い瞳……魔物」
「行方不明者の半数以上はこいつらに悔い殺されたか」
「どうしよう……」
目の前の魔物とジャルダンに交互に視線をやりつつ、アランが腰から聖武器を引き抜いた。
狼の赤い瞳は魔物の証。聖武器の加護が働けば蹴散らすことも逃げることも出来る。狼達より早く走り、それこそ加護の力を借りれば壁を登って逃げることだって出来るのだ。
ただ、ジャルダンは無理だ。彼はただの騎士。過去に聖騎士を勤めたスタルス家ではあるが、今の彼は聖武器も所持しておらず勿論だが加護も働かない。
アランが連れて逃げようにも、ジャルダンに長く触れていれば『対人間』に切り替わって聖武器の加護も働かなくなってしまう。そうなれば狼に追いつかれて喰い殺されるか、再び濁流に落ちていくか……。
それが分かっているからこそ、アランはジャルダンには触れないよう僅かに距離をとり、それでも庇うように彼と魔物の間に入った。
「まさか俺を助けるつもりか? お前だけなら助かるだろ」
「そりゃそうですけど……」
「俺に恩を着せるつもりならやめておけ、今更助けられたところで」
「……貴方なんて大嫌いだ」
呻くようなアランの声に、ジャルダンが言葉を飲み込む。
「貴方なんか大嫌いだ。貴方は私達を化け物っていうし、私の大事な人達を魔物だからって蔑む。どんなに凶暴な亜種より、私は貴方のほうが大嫌いだ」
「それなら俺をここで置いていけばいい」
「だからです。だから私は貴方を助けるんです。化け物と呼ばれた聖騎士がそれでも人を助けることを、魔物の中には人間を助けてくれる者もいることを、貴方自身に証明させるんです」
そう告げて、アランが聖武器を構え直した。
警戒しつつ近付いてくる狼との距離はあと僅かで、堅く鋭利な爪がジャリと地面を削り歩く音すらも聞こえてくる。その音を聞くたびに心臓が跳ね上がり、体が震える。果たしてこれは聖武器の加護が働いているうえでの恐怖か、それともジャルダンとの距離が近いから単なる一人の人間として恐怖しているのか……。
そのどちらも分からず、それでもと震える手で聖武器を握り直せば、目の前まで迫った狼が更に距離を詰めてきた。獣臭さと息づかいが体に触れそうなほど近く、ジッと見据えてくる赤い瞳に自分の姿が映っているのが見える。
初手はその鋭利な牙で食いちぎりにくるか、それとも体を引き裂こうと太く堅い爪を突き立ててくるか。どちらにせよ狼の一手を受けきり打開策を見いださなくて……と、ほぼ絶望的といえる中でもアランが考えを巡らせる。
だがどういうわけか鼻先まで近付いてきた狼が初手を繰り出してくることはなく、それどころか何かを探るようにフンフンと鼻を鳴らしてアランの体を嗅ぎだした。
これにはアランも、その後ろにいるジャルダンも目を丸くさせる。
「おい代替騎、これはどういうことだ」
「わ、私にも分かりませんよ……」
しきりに嗅いでくる狼に視線を止めたまま小声で話し合う。
まったく理由が分からないが、それでも狼は鼻先をくっつけんばかりにアランの匂いを嗅ぎ続けているのだ。とりわけ右腕に対しての反応は顕著で、右腕を嗅いではアランを見て、また右腕へ……と繰り返している。対して左腕はさほどの興味もないようで、スンと鼻先を一度つけるだけで終わってしまった。そうして再び右腕を嗅いでくる。
いったい右腕がなんなのか。怪我して血が出ているわけでもなく、左腕との違いと言えばブレスレットをしていることぐらいだ。
そう……ロッカから貰ったブレスレットを。