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「アラン、思い出したか!」
「はい、あれが文献の通りであれば、最初に飛ばした体液自体には害はありません。ただ染み込んだ体液が他の液体に触れると、骨をも溶かす熱を発します」
思わずアランが足をさすり、ゴクリと生唾を飲んだ。
記憶の限りでは、あれは魔物単体としてはさほど強いわけではない。ただその特徴が厄介で、文献を読んでいてブルリと体を震わせたことまで記憶に蘇ってくる。
「あれ自体は攻撃を仕掛けてくるようなことはありません。ただ周囲に一定数以上の敵が居ると判断した場合、今みたいに上部を爆発させて周囲に体液をまき散らします」
「傘でもさしてりゃ問題なさそうだけどな」
騎士達を牽制していたヴィグが横目で見てくる。
彼と同様にアランの話を聞いていた騎士達は話半分でたいして危険はないと考えているようだ。彼らの中では既に魔物は聖騎士と共に廃れたもので、亜種と言えど自分達を脅かすほどの害はないと考えているのだろうか。
とりわけ第一騎士団を率いる団長の視線は厳しく、アランの言葉一つ一つを疑っているようにさえ感じられる。そんな冷ややかな視線に思わず臆しかけるが、それでもとアランが小さく首を横に振ってヴィグに話しかけた。
例えこの場にいる第一騎士団の全員が自分の話を信じてくれなくても、彼だけは信じてくる。
臆するな、アラン・コートレス。
山のような文献を読み漁り、恨むように羨むように当時の聖騎士団の活躍を思い描いた。魔物に関しての知識なら誰にも負けない。
「あれは上下で内部に溜めている体液が違います。上部の体液を捲いた後、下部が攻撃を受けたり体液のかかった者が逃げようとした時、下部がさっきのように跳ね上がり爆ぜて周囲に”水”をまくんです」
つまり自爆。自らの命と共に周囲の敵を溶かす。
体液の散布範囲は様々で、必ずしも致命傷になるとは限らない。腕や足に付着すれば骨を溶かされ手足を失うことになるし、一滴でも胸に受けた者はそのまま心臓を溶かされて命を落とす。反面、指一本で済む者や髪が溶け落ちるだけで済むものも居るのだ。
首や胸といった下手な場所に大量に付着すれば聖武器の加護もカバーしきれず、溶けた髪を掬う子供の横で屈強な聖騎士の体が溶け落ちていく……などと言うこともざらにあったという。
それを話せばヴィグが不快そうに舌打ちをした。
「俺達に害がなきゃ、奴らが溶けていくのを高みの見物できたのにな」
「嫌ですよそんなの見るの。……団長、どこに受けました? 私は見たところ足だけです」
「俺は腕と足だな。あとアラン、おまえ顔にも受けてるぞ」
「えっ!?」
どこ!? と顔を押さえようとすれば、ヴィグが指先でそっと目元を撫でてきた。どうやら右目の下に一滴着いていたようで、一度受けてしまえば無駄だと分かっていても慌ててそれを拭う。もっとも、アランの目元はもちろん足の付着も、そしてヴィグの手足も、これぐらいならば聖武器の加護による回復の方が上回る。
そうアランが説明し互いに安堵の息を漏らせば、そんな二人のやりとりに一人の男が割って入ってきた。
「そんなことを話してないで、さっさと倒し方を教えろ」
と、苛立ったような声色にアランが小さく肩を震わせる。
第一騎士団団長、ジャルダン・スタルス。
手も足も出せない今の状況が騎士として不服なのだろう、苛立たしげに見下ろす視線は鋭く、元より眼孔が鋭いだけあって恐怖すら覚えかねない迫力である。
だがそれでも、とアランが彼を見据えて返し……ちょっと怖すぎるので亜種へと視線を逸らした。
「倒し方は至ってシンプルです。……それでいて、気が狂ってる」
そう苦虫を噛み潰したような表情でアランが話し出す。
あの亜種の元になった魔物の倒し方、それは至って簡単で、それでいて文献を読んだアランが当時の聖騎士を思って青ざめるようなものだった。
なにせ下部を覆うのだ。ただそれだけ。
自らの体で、下部が跳ね上がらないよう破裂しても体液が飛ばないように押さえ込み、溢れ出す水を押し止める。もちろんその役を負う者は水を浴びるわけで、骨が溶ける痛みに悲鳴をあげながらも跳ねて暴れて水を溢れ出す魔物を押さえつけなければならないのだ。
「なるほど、狂気の沙汰だ」
「自爆する魔物にはそれ相応の覚悟をってことですね」
バサっと音をたてて上着を脱ぐヴィグに、その端を掴んだアランがひきつった笑みで返す。
この布で覆い込むのだ。本当ならばもっと厚手だったり撥水性のある布を、それどころか水を通さない素材のもので覆いたいところだが、取りに行けば逃げたと判断されて魔物が爆ぜる。
神出鬼没、そして対応策を用意する暇を与えない。攻略法が分かっていて、万全の準備を許されない。品を選び最小の犠牲ですまさなければならないのだ。
この場で言うのなら、ヴィグの上着を使って、聖騎士二人という犠牲を払う。
「……うっかり手を離して逃がしたらごめんな、アラン」
「なにさらっと恐ろしいこと言ってるんですか。うっかりするなら”せーの”でですよ」
「あれを逃がしてみろ、その場でお前達の首を叩き切ってやる」
冷ややかなジャルダンの声に、アランとヴィグが顔を見合わせる。
「冗談の通じない奴だ」「えぇ本当に」と視線で交わし、改めて正面の亜種に向き直った。
上部を飛ばしたことで大きさは子供ほどしかなく、相変わらず半透明な体をゆらゆらと揺らし、時折は地を滑るようにして近付いてくる。体内に気管は無く、半透明ゆえ薄ボンヤリと向こう側の景色が透けて見える。脳も、眼球すらもない。
何を考えているか察することも出来ず、そもそも思考があるのかすら定かではないのだ。何一つ理解できず、その生態から捕らえて調べることも出来なかった……と過去の文献にある。
それを思い返せばどうにかして捕らえられないかと場違いな考えが浮かび、アランが慌てて首を横に振った。
今はそんなことを考えている場合ではない、騎士達を守らなくては。中には手足に大量に体液を被った者や、胸や頭といった致命的な部分に受けた者もいる。水に濡れれば最後、服を溶かし肌を溶かし、骨や頭蓋すらも溶かし尽くされる……。
その光景を想像すれば自然と体が震える。
だからこそギュっと手元の布を掴んだ。たとえどんなに忌々しい第一騎士団と言えど、聖騎士なのだから守らなくては……こんな押しつけられた要らない名誉の、こんな不遇な扱いでも。相手が魔物であるなら聖騎士として彼等を守らなくてはならないのだ。
……だけど、それならいったい誰が。
「アラン、行くぞ」
「は……はい!」
ヴィグに声をかけられ、はたとアランが我に返る。そうしてタイミングを合わせて駆け出し、今まさに残った下部を弾けさせんとしていた亜種に上着を広げて飛びかかった。
ゴボゴボと音がする。
水を弾けさせようとする亜種の体が布の内側で跳ねて暴れ回る。勢いこそ殺されてはいるもののそれでも水は布を超え、アランの足を、ヴィグの腕を、ジュ…と低い音と共に溶かしていく。
燃えさかるような激痛が手を痺れさせ、自分の肉が溶ける生々しい臭さが鼻にまとわりつく。それが亜種から放たれる甘い香りと合わさり、息を吸えば嘔吐感に喉が震える。
だがそれすらも耐えて悲鳴に変え、布を、その内側で暴れて水を吹き出す亜種を押さえつけなければならないのだ。痛くても、熱くても、加護の回復が溶けかけた皮膚と骨を治し、それをまた溶かそうと熱が蝕んでも。
「あっ……ぐぅう……!」
あまりの激痛にアランの口からくぐもった声が漏れる。チカチカと視界が瞬くのは、目元から熱が伝い眼球が溶かされては治されてを繰り返しているからか。耐えきれないとギュっと片目を瞑れば眼窩で熱がこもる。
「あ、あと、もう少し……!」
ボコボコと激しく水を吹き出す亜種が徐々に小さくなっていくのを感じ、激痛でガチガチと歯の根を鳴らしながら伝える。
向かい合うように布を押さえるヴィグの顔は真っ青で冷や汗が滝のように伝っているが、それでも心配させまいとしているのだろう「楽勝だな」とだけ返してきた。震える声が、笑おうとしているのかひきつった表情が、なにより溶かされては治される彼の腕が、楽勝とはほど遠いことを物語っている。
それでも二人は布から手を離すことなく、亜種が最後に一度コポッと派手な音をたてて地に染み込んでいくまで布で押さえつけていた。
「やったのか……」
荒い息をつきつつ、ヴィグがゆっくりと布をめくる。
そこに半透明の亜種はおらず、水たまりがあるだけだ。ザァ……と再び強い風が吹き抜ければ、周囲に漂っていた甘い香りも掻き消されていく。
「や、やった……」
いまだ片目を瞑ったままアランが声をあげる。体の痛みは残るが、あの亜種を倒すことが出来たのだ。
負傷者は聖騎士のみ。それも加護が働いており命の心配をするほどでもないのだから、実質的な負傷者はゼロと言える。
守れた。
自分でも、騎士達を守ることが出来た。
その実感がアランの胸にわき上がり痛みを和らげる。
そうして歩み寄ってきたジャルダンに亜種を倒したことと、そして今後のことを伝えようと顔を上げ……
「化け物」
と、呟かれた彼の言葉と、嫌悪をあらわにした冷たい目に、回復したばかりの目を見開いた。