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翌朝、聞こえてくる鳥の鳴き声とヒンヤリとした空気にアランが微睡む意識の中で目を覚ました。
普段の布団の感覚と違う。周囲を見回せば洒落っ気のないシンプルなカーテンが見え、窓辺の机の上には本が数冊と拳大の箱が山を作っている。不要なものはなく、それでいてどこか生活感を感じさせる部屋。なにより扉の近くにかけられた茶色のロングコートが、この部屋の主を聞かずとも分からせる。
「デルドアさんの部屋……」
と、思わずアランが小さく口にした。
そうだ、昨日自分は泣いて、そこをデルドアに拾われて彼等の家につれてこられたのだ。ロッカにこの部屋で休むよう言われ、そのまま眠ってしまった。
思い返せばなんと恥ずかしいことか、情けなさと申し訳なさ、そして惨めさが募る。そうしてそっとベッドから下り、周囲を窺うように扉をあけ……
「お、起きたか」
と、ちょうど扉の前を通りかかったデルドアの姿に、思わず「びゃ!」と間の抜けた悲鳴をあげた。
顔を合わせるのが恥ずかしく、出来ればロッカと話をしたいと思っていたのに……。
「デ、デルドアさん。どうしてここに!?」
「俺の家に俺がいて何が悪い、お客様」
「なるほど確かに。あのすみません、部屋で寝ちゃって……大丈夫でしたか?」
「別に、ソファーで寝てた」
「すみません、迷惑かけて……あの、私もう帰りますから」
しゅんとうなだれ「おじゃましました」と頭を下げてアランが玄関へと向かう。
が、その腕をデルドアが掴んだ。引き留めるようなその強引さに、驚いてアランが顔を上げる。
「ど、どうしました?」
「飯を食っていけ」
「ご飯? いえ、そんな、そこまでお世話になるわけには」
「いいから食ってけ!」
「ですから、昨日に続いて迷惑を……あの、なんか目が据わってませんか? あとなんでさっきから大量のウサギがこっちを見てるんですか?」
どういうことですか? とアランが野ウサギ達を眺めながら問えば、その視線を追うようにデルドアが慌てて振り返る。その瞬間にサッと壁に身を隠すウサギ達の素早さといったらない……が、何匹か耳が見えていたり尻尾が見えていたりする。
当のウサギ達は隠れているつもりなのだろう。頭かくして耳と尻尾隠さず。それはなんとも可愛らしい光景で思わずアランが表情を和らげるが、対照的にデルドアは表情を青くさせた。
「椅子に縛り付けられたくなければ大人しく飯を食え。でないと俺の部屋があいつらの越冬場所に……あ、こら! 入るな! 俺はお前達に部屋を明け渡すつもりはない!」
隙をつくように足下をスルリと抜けて部屋に入り込んでいくウサギ達に、デルドアが捕まえようとその後を追う。
腕を掴まれた時こそドキリとしたアランだったが、そのあとのこの展開には胸の高鳴りもどこへやら、とりあえず足下を抜けて侵入をはかる一匹を抱き上げ「ごちそうになります」とだけ返しておいた。
聞けば朝食はロッカが作ってくれているという。
その言葉にアランはふとエプロン姿の彼を思い浮かべ、その愛らしい姿に想像ながらに敗北感を感じてしまった。ピンクのエプロンを翻し、楽しそうにキッチンで料理をする姿……愛らしい声で「おいしくなぁれ」なんて言われてみろ、満点に更に追加点がつきかねない。
これで出てきた料理が美味しかったらもちろん、難ありでもそれもまた彼の魅力になるのだろう……と、そう考えてアランがポツリと「恐ろしい」と呟いた。
だがそれに対してデルドアが怪訝そうに眉をしかめる。「美味しくなれ……か」と、その言葉は何か引っかかっているように歯切れが悪い。
いったいどうしたのかと問えば、デルドアが怪訝な表情のまま一室の扉を指さした。部屋を覗けと言うことなのだろう。いったい何の部屋なのか、そして今までの会話の流れでどうして部屋を覗かなくてはいけないのか、何一つ分からず、それでもとアランが頷いて指さされた部屋のドアノブに手をかけた。
そっと開けて中を窺えば、食欲を誘うなんとも言えない美味しそうな匂いがする。シチューだろうか、漂う匂いだけで期待が高まり、先程まで遠慮していた自分に勿体ないこれは食べるべきだと訴えたくなるほどだ。
思わず空腹が刺激され、キュルル…と鳴りかける腹部を慌てて押さえて室内に視線を巡らせる。いかにも台所といったその部屋の中、コトコトと音をたてて湯気を放つ鍋の前にロッカがおり……
「良いかよく聞け! 諸君等の役目はいかに美味しいシチューになるかだ! それを肝に銘じろ! それだけを考えろ!」
と、まるで鬼教官が如く気迫で声をあげていた。
……鍋に向かって。
「……え?」
思わずアランが扉を閉め、デルドアを見上げる。
中の様子を知っているのだろう、いつの間にやらソファーに座っていた彼は平然といじっていた銃を軽く振って「もう一回覗いてみろ」とジェスチャーで訴えてきた。
手早く銃をばらし、磨き上げて再び組み直す。くつろぎつつも早業を見せるその姿はどこか危険な魅力さえ感じさせる。……背後では追い出されたウサギがチィチィと鳴きながら彼の部屋への侵入を試みているのだが。
そんなデルドアに説明を求めても無駄かと判断し、アランが再びドアノブに手をかけた。
きっとさっきのは見間違いだ。扉の向こうではまさに美少女と言わんばかりの風貌でロッカが鍋を掻きませながら「美味しくなぁれ」と可愛い声で話しかけているはずだ。そうだ、そうに決まっている。
間違えてもこんな……
「神経を研ぎ澄ませ! 熱意をもって味を染み込ませろ! 選ばれた野菜としての誇りを忘れるな!」
こんな、暑苦しい檄を飛ばしているわけがない。
「……えらいもん見ました」
可愛らしい光景と思いきや熱血現場に出くわし、アランがしょんぼりとデルドアに訴える。
それに対してのフォローはいっさいなく、彼からの返事は「だろ」の一言。知っていて見せたのか……と、思わずアランが睨みつければクツクツと楽しげな笑みが返ってくる。どうやらアランが困惑している様子を見て楽しんでいたようだ。魔物ゆえか単に性分か――多分後者だろう――なんとも趣味が悪い。
悔しいから、彼の背後でウサギ達が扉を開けることに成功し、続々と部屋へ侵入していることは黙っていることにした。
「で、あれは何なんですか?」
「何って、ロッカ流の『美味しくなぁれ』だ」
「あれが!? あれのどこが『美味しくなぁれ』ですか! 命じてるじゃないですか! 『美味しくなれ』ですよ!」
喚くように――そして手振りでウサギ達に「彼の意識は私がそらす、行け!」と指示を出しつつ――訴えれば、それすらも面白いとデルドアが笑みを強める。
「あいつも最初は『料理は愛情』とか言って優しく声をかけてたんだ。だがある日ふと深刻な様子で『このまま料理の自主性に任せきりでいいのかな?』って言い出してな」
「自主性って」
「それからは凄かった。時に甘やかしたり時に厳しくしたり、何も言わず見守る時もあれば時間をかけて話し合おうと試みたりもしてた」
「育児か」
「で、最終的に落ち着いたのがあれだ」
そうデルドアが指さすのはもちろんロッカのいる台所。それを見たアランが「なるほど」と頷いた。
「なるほど、さっぱり分かりません」
「だろうな、俺もだ。だが食えればいいだろ、配膳手伝え」
あっさりと話を片付けてデルドアが立ち上がる。その口調はさも当然と言いたげで、皿はどこにあるコップはどこから出せだの、客人に料理をもてなす様子も、ましてや傷心の少女を気遣う様子もない。
それでも「食べて行け」と台所へ向かう彼の背中が語っているようで、これもまた優しさなのかと、そしてその一風変わった優しさが逆に心地良いとアランがムグと口をつぐんで後を追った。
「なんだかこう……美味しいのも複雑ですね」
とは、出されたシチューを食べたアランの感想である。
ロッカの作ったシチューはそれはもう絶品の一言で、一級の店で出されても申し分ないほどの出来なのだ。野菜も肉も程良く溶けて混ざり合い、口に入れるとホロホロと崩れていく。肉の旨み、野菜の甘さ、そしてそれらを結びつける味付け。どれをとっても素人の作れる域ではない。
単独で食べるもよし、パンと合わせて食べるもよし。まさに美味。おおよそアランの知る賛辞では誉めきれない出来で、コートレス家専属の料理人でも白旗をあげるレベルだ。
……が、どうにも租借するたびにロッカの激励が脳裏を過ぎる。
これが、自主性に委ねるのみの「美味しくなぁれ」では届かない領域なのか……と、そう考えれば複雑なところだ。
もっとも、先程まで食材相手に檄を飛ばしていたロッカは普段の調子に戻り、愛らしい顔つきでシチューを口に含むと満足そうに出来に表情を綻ばせた。
「美味しく出来たから、ヴィグさんにも持って行こう。しょんぼりしてる時は暖かくて美味しいものを食べるに限る!」
「その前に俺の部屋の野ウサギどもをどうにかしろ」
「あれ、気付いてたんですか?」
「魔銃の魔物をなめるな。今俺の部屋に何匹いるのか、何匹入ろうとしてるのか、誰が侵入を誘導したのか、すべて把握してる」
ギロリと睨みつけられ、アランが慌ててシチューを頬張った。「美味しいなぁー」と白々しくそっぽを向けば、小さな溜息が返ってくる。
さすがは魔銃の魔物、侮れない。もっともその隣に座る魔物も侮れないのは言うまでもなく、むぐむぐとシチューを頬張りながら「あとでウサギさん達に言っておくね」とお座なりな返事で片付けてしまった。
「アランちゃんも一緒に詰め所いこうね」
「うん……あ、でも行かなきゃいけないところがあるんだ」
ふと思い出してアランが僅かに俯く。
この長閑で、そして間の抜けた空気に忘れかけていたが、そもそもことの始まりは……。
「どうしたのアランちゃん、用事って大事なことなの?」
「大事というか……その、ドレスを作りにいかなくちゃいけなくて」
「「ドレス?」」
なんでまた、と言いたげな二人の声にアランは眉尻を下げ、まるで溜息のようにか細く
「妹の、婚約披露パーティーに呼ばれてるから」
と答えるのが精一杯だった。