12
そんなパンダな日々もようやく終わり――といっても、普通に目元の痣がひいただけなのだが――数日後、アランの元に一通の手紙が届いた。
差出人はレリウス・スタルス。
これに対して「レリウス様からの手紙だわ、嬉しい!」と素直に喜び胸を高鳴らせることができたらどんなに楽だったろうか……と、落ち着き払った気分で封を開ける。そうして中に目を通せば、書かれているのは所謂『呼び出し』、それも今日、おまけに手紙を届けた者に着いてきてくれというもの。レリウスらしくないその余裕のなさにアランがますます違和感を感じて眉をしかめた。
もっとも、彼ほどの男であれば今日のアランが一日詰め所で書類仕事ということも、数時間抜けても支障がないことも簡単に調べられるだろう。もしかしたら、この「魔物が出るような気がしないでもない来月の催事の費用計算」という最早よく分からない理由で押しつけられた仕事もレリウスが手を回したものかもしれない……。むしろそうであってほしい。
とにかく、同行を催促してくるスタルス家の使いにアランは断ることもできず、朝から不在のヴィグの席にチラと視線を向けた。
彼が出払っていることは別段珍しいことではない。互いに別々の仕事があり、駆け回ってろくに顔を合わせないこともある。
それでも今日に限っては仕組まれているような気がして、アランは眉間に皺を寄せつつ、それでも一言メモを添えて促されるままに席を立った。
馬車に乗ってしばらく。城下を出て更に走り、景色が幾つも窓の外を流れていく。そうして随分と走り続けて、ようやく馬車がゆっくりと音を立てて停まった。
促されるまま降りれば、眼前に広がるのは殺風景な荒野。ここは……とアランが記憶の中の文献を漁り、思い当たる地名を小さく呟いた。過去に聖騎士がとある魔物と戦い、その跡地と言われている場所だ。
まるで呪われたかのように一角だけ殺風景な景色が広がる。点々と草木が生えてはいるものの薄気味悪さと寂しさが漂い、まるで取り残されたかのように古い小屋がポツンと建っている。それがまた哀愁を誘うが、今のアランにはその風景を眺めている余裕も、ましてや早々に馬車に乗り込むやアランを置いて逃げるように走らせ去っていくスタルス家の使いを追う余裕もない。
なにせ、匂っているのだ。
甘く鼻にまとわりつく匂いが、殺風景なこの景色に満ちている。
しまった、と思った時には既に遅い。
使いの者から甘い匂いがしなかったから油断していた。今となってはあの男が本当にスタルス家の使いかも怪しく、もしかしたら何かを企んだレリウスが金を払って雇っただけという可能性もある。
ここは逃げた方がいいかもしれない。
帰り道は分からないが、馬車の跡を追えば何とか町に出られるだろう……。
そうアランが踵を返して走りだそうとした瞬間、ガタと小屋の扉が開かれた。
そこから出てきたのは、こんな寂れた小屋にはそぐわぬ金糸の王子……もとい、金糸の騎士レリウス。本来であれば飾られた王宮内を闊歩しているはずの彼は、その磨かれた革靴で軋む小屋の階段を下りてアランに近付いてくる。
「アラン嬢、急に呼び出して申し訳ありません」
と。そう爽やかに声をかけてくる彼の隣にいるのは……
「ヴィグ団長……」
濃紺の髪に青い瞳、見慣れた……というより毎日見ているその姿。
だが今の彼は普段の表情と違い、目元や口元のあちこちに擦り傷や痣を作り苦痛に顔を歪めている。汚れのついた騎士服、とりわけ目立つのは腹部の足跡……蹴られたか、踏まれたか、とにかく一目で尋常でないと分かる。
「団長!」
慕う人物の悲痛な姿にアランが声をあげて駆け寄る。対して応えるようにこちらに歩み寄るヴィグの足取りはどこか危うく、慌てて駆け寄ったアランが支えるように肩を貸した。
彼らしくなくもたれ掛かるように体を預けてくるあたり、酷く負傷しているのだろう。伺うように顔を覗きこめば、痛みに目元を歪めながらそれでもヴィグが「大丈夫だ」と苦笑を浮かべた。
次いで、力ない腕でコツンとアランの額を叩く。
「なに一人で来てるんだ。危ないだろ」
「あきらかに捕まってた人には言われたくありません」
「耳が痛いな」
この状況においてもクツクツと笑みを浮かべるヴィグに、アランが僅かに安堵し……ふと彼の目元の傷が既に消えていることに気付いた。先程までうっすらと血を滲ませていたのに、今はその跡もない。
それに気付くと同時に慌てて腰にさしている短剣に手をかければ、ヴィグが「だから大丈夫って言ったろ」と苦笑を浮かべる。その口調も先程より幾分はっきりとしており、もたれ掛かっていたのも今はしっかりと立ち、それどころか聖武器であるナックルを両手にはめ直している。
驚異的な回復力。
もちろんそれも聖武器の加護なのだから今更疑問に思うことでもない。もっとも、すべての傷が治っているわけではなく、頬の擦り傷をはじめとする小さな傷は癒えることなく残っているが、さすがに今はそれを気遣っている場合ではない。あれぐらいならば支障はないだろう。
なにより今問題視すべきは、ヴィグに対して聖武器の加護が働いているということ。
聖武器の加護は”魔物と対峙している時”にしか発動しないのだ。つまり魔物がいる、それもヴィグがここまで苦戦するほどの魔物。
「……倒しました?」
「…………」
「もちろん、一人でホイホイ呼び出されて捕まっちゃった聖騎士団の団長様は倒してくださったんですよね?」
「…………ゴメンナサイ」
顔を背けて謝罪するヴィグに、アランが悲鳴をあげた。
「ひとのこと危なっかしいとか言っておいて!」
もちろんこれにはヴィグが冗談めいたやりとりが出きるまで回復したことへの安堵があってのこと。彼もそれが分かっているのだろう、自棄になったように「仕方ないだろ!」と声をあげた。
「仕方ないだろ! まさか……」
「まさか?」
「まさか、黒騎士が相手だなんて思ってなかったんだから!」
そう叫ぶヴィグの声に被さるように轟音が響き、次いで崩れ落ちる小屋の中から一人の騎士が姿を現した。
黒い装束に同色の大剣。顔すらも覆いつくしまさに黒一色といった出で立ち、その中で唯一色を放つ赤い瞳。背丈はヴィグよりも、それどころかデルドアよりも大きいだろう。おまけに体つきはまさに屈強の一言、腕や足の太さはまるで大木の如く。
その姿にアランが悲鳴を――今回は本当の悲鳴を――あげれば、周囲に漂っていた甘い匂いがよりいっそう強みを増した。
『黒騎士』
かつて聖騎士団が苦戦を強いられた、魔物の中でも上位に君臨する魔物。その体躯から繰り出される一撃は守りに徹してようやく受けきれるものであり、それでいて放つ素早さも瞬きを許さぬほど。聖武器の保護もその圧倒的な強さの前では太刀打ちできず、黒騎士により命を落とした聖騎士が何人いたことか……。
なにより特筆すべきがその残虐性。
ただ楽しむだけに人間を殺し、時には親の目の前で子供をなぶり殺し、時には恋人がゆっくりと死ぬ様を見せつける。人間を絶望のどん底に叩きおとし、泣き喚き命乞いするその様を見て楽しむのだ。その狂気の記述が文献に残されており、何度読んでいて吐き気を覚えたことか。
おおよそ、残された記録の中で最たる非道な魔物といえる。
その黒騎士が目の前にいる。
だが文献の限りでは黒騎士は聖騎士によって倒されたはずだ。仮に黒騎士が生き延びていたのなら、今のこの平和な時代が訪れるわけがない。
つまり今現れた黒騎士は何代目かの黒騎士。人間が何代にも渡って繁栄してきたように、アランとヴィグが聖騎士を継いだように、魔物も何代にも渡って受け継がれていく……。
そうだ、魔物にだって寿命がある。
当時の黒騎士が生きているはずがない。
あれは”今の黒騎士”、自分が聖騎士のように、当時とはまったく別のもの……。
だけどどうして、こんなに体が震えるのだろうか。
足下が凍り付いたように感覚を失い、指先が痺れだす。許容量を越えた恐怖が一瞬にして体内の血を凍らせ、呼吸をしたはずが喉が高い音を漏らす。
「……アラン、逃げろ」
「団長?」
「流石にこれはまずい。お前だけでも逃げろ」
青ざめ引きつった笑みを浮かべるヴィグに、アランもまた同様に青ざめつつ彼を見上げた。
部下を守る騎士か、もしくは女を逃がす為に盾になる覚悟を決めた男の顔か……。ひきつった表情の中にそれでも覚悟と決意を見せ、青い瞳が睨むように黒騎士へ向かう。物語の中ならば胸が高鳴りかねない表情ではないか。
もっとも、言われたアランは胸を高鳴らせることなどなく、むしろ冗談じゃないと腰元から聖武器を引き抜いた。刃先が鞘を抜けて高い音をだす、これがアランなりの返事だ。
「アラン」
「ひとりぼっちにしないでください。終わるときは一緒だって、あの日そう約束したじゃないですか」
そうアランが告げ、引き抜いた短剣を構える。
果たしてこの二本の武器だけで黒騎士にどこまで食らいつけるのか……いや、食らいつくまでもなく一撃でやられてしまうかもしれない。目の前の黒騎士が文献と似たものであれば勝ち目などあるわけがなく、それどころか保って数分の戦力差なのだ。
それでも、かつての聖騎士は黒騎士を打ち破った。当時は聖騎士団が揃っており、その状況下で何人も仲間を失ってようやくだったのだが、それでも勝てたのだ。
それなら今だって、せめて捕らえるくらいは……。
そう考えを巡らすアランの表情に撤退の色はなく、それを見てとったヴィグが苦笑を浮かべた。
「土に還るチャンスだな」
「ご冗談を。私は薔薇と鈴蘭に埋め尽くされた美しい土に還り、豊穣の神として崇め奉られる予定なんです。血溜まりの荒れ地なんて御免ですよ」
「なるほど、そりゃ確かにここじゃ死ねないな。……どこまで稼げるかは分からないが、極力ひきつける。アラン、お前はひとまずレリウスを逃がせ」
「レリウス様は……」
「まだこっち側だ。さっきから奴に蹴られた腹が痛くてたまんねぇ」
「なるほど」
うん、と一度頷いてアランが視線を巡らす。
レリウスは小屋があった場所の近く。黒騎士にこの場を託す気なのか動く様子はなく、ジッとこちらを伺っている。
対して黒騎士は狙いを定めたとゆっくりとこちらに近づいてくる。真っ黒な装束が風に揺らぎ、酷く甘い匂いが漂う。その中に僅かに漂うのは腐臭だろうか?
だが今はそれを考えている場合ではなく、アランが靴底を擦るように半歩左へとずれた。
その音が切っ掛けか、それとも己の間合いまで詰めたからか、黒騎士が飛ぶように駆けだし……一瞬にして眼前まで距離をつめてきた。その早さは先日の熊など比ではなく、聖騎士の加護がなければ視覚でとらえることなど出来なかっただろう。
突風が吹き抜けたと、そう勘違いしても仕方ないほどだ。もっとも、風が…と考えた次の瞬間には思考もろとも血に染まり、考えきるまで生きていられるかは定かではない。
「は、早い……!」
黒騎士が飛びかかってくるのとほぼ同時に駆けだしたアランが、思わず声を上げる。なにせその姿を目視した次の瞬間には黒騎士がヴィグに襲いかかっていたのだ。
あと一秒、むしろその半分でも遅ければアランも足を止めざるを得なかっただろう。
だが幸いにも――この状況のいったい何が幸いなのかさっぱり分からないが――黒騎士は狙いをヴィグに定めてくれたようで、アランを追いかけてくる様子はない。……もしくは、黒騎士の残虐性からいって、まずは多少足掻かせてからという考えがあるのかもしれないが。
なんにせよ、今は自分のやるべきことを……!
そうアランが考え、レリウスに駆け寄る。彼は黒騎士を仲間だとでも思っているのか、余裕すら感じられる面持ちで「やぁ、アラン嬢」と暢気に挨拶まで寄越してきた。
「レリウス様、貴方は何を考えているんですか!」
「大丈夫ですよアラン嬢。黒騎士は私にも貴女にも危害は加えません」
「そんな、奴のことを……え?」
レリウスの言葉に引っかかりを覚え、アランが小さく声をあげた。
今、彼はなんと言った? 『黒騎士は私にも貴女にも』と……?
「アラン嬢、よく考えてください。聖騎士はもう一度栄光を手にするべきなんです。悪しきものを倒し、かつての名誉を再興させる。それこそが我々聖騎士団のするべきことではありませんか?」
「……レリウス様、なにを」
「なぜ英雄の末裔である貴女が蔑まれなければならないのか、かつての栄光を取り戻したいと、そう思ったことはありませんか?」
「どういうこと……」
「さぁアラン嬢、ここから新たな聖騎士団が始まるのです。もう二度と誰にも、貴女を代替騎などとは呼ばせません!」
捲し立てるようなレリウスの言葉に、アランがクラリと目眩を覚えた。後頭部を殴られるような衝撃、とはまさにこのこと。
だがそれほどまでに言われた言葉が理解できないのだ。
黒騎士は私達は襲わないだの、一緒に聖騎士団を作り直そうだの、これではまるで……
まるで、故意に黒騎士と組んで、千年前の混沌を呼び起こそうとしているようではないか。