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「……眠った、かな?」
瞼を閉じた白い顔を見おろす。
瞳が隠れると途端に作り物めいた印象になるから、不思議なものだと思う。
儚げな……一夜しか咲かない花のような、頼りない風情の“人形”。
実のところ、青年を容れる他の人形もあったのだ。
男性型もあれば、もっと顔かたちが美しい女性型もあった。
その中でナギはこの人形を選んだ。どうせ近くで見ているなら、あんまり煩くない、自己主張しないのがいいなあと思ったのだ。
男性型はまず却下。派手派手しいのも同じく。
そして端整ではあるが、個性に乏しいこの人形を選んだ。女性、というより、少女といえる、人形を。
「ごめんね。この上あのことまで言ったら、きっとまた怒るだろうね。さてどう言ったものやら」
ささやきに腕の中の体はぴくりと反応するが、目を覚ますことなく眠り続けている。次に目覚めた時は、多分。
それを思うと少し気が重かった。
また泣かれるのは嫌だなあと思ってしまったから。
行うであろう諸々の行為については、喜々として仕掛ける自分が想像できてしまう。
……涙の膜が張った目は、光をはじいて宝石のように煌めいて見えた。
それに束の間見惚れていたと思う。
「こういうのも、一目ぼれって言うのかなあ」
何しろ初めに気になったのは“眼”だしねえ。
細い体を抱きかかえ、寝台へと運び、横たえる。乱れた黒髪を指で梳き、整えてやった。首元まで上掛けを掛けてやり、離れようとした時。
つん、と何かに引っ張られ、視線を下に向けた。
自分の上着の裾を掴む、細い指先。
まるで、行かないでと引き留めているような。
「男の腕は嫌なんじゃないの?」
囁いて頬を撫でてやると、くすぐったさに首を竦めながらも、温かい手の方へと顔を擦り寄せてくる。
「あれれ……ふふ、本当に可愛いね。この人形にして正解だったかな。でもきみにとってはとんだ災難だろうねえ」
白い顔の上に、二度だけ会った青年の顔を思い浮かべる。
くすんだ金の髪と、青い目をした青年が、最後に呟いた言葉を、自分は確かに聞いた。
「覚えてないんだよね、ま、私が覚えてるからいいかな」
言葉も、失くしてしまった姿も、全部覚えているよ。
きみがいつか忘れてしまっても。
魔術師なんて皆何処かが歪んでいる。何かに強く執着する。自分はさして何にも執着しない方だと思っていたのだが。こんな落とし穴が待っていようとは。
「運が悪かったと思って諦めてよ。その分大切にするから」
今は届かないとわかっていても、ささやき続ける。
「きみの目が覚めた時が勝負だなあ」
もちろん、負ける気はないけどねと、魔術師は不敵に笑った。
なんだか背中があったかくて気持ちいい。ゆうべ、姐さんとこに泊まったんだっけ?いや、それなら姐さんの体を俺が抱きしめてるはずだから、何で背中があったかいんだろう。
疑問に思いながら身じろぎしようとして。体の前に回された腕に気付く。 何だろう、これ。
うっすら目をあけると、引き締まった二本の腕が見えた。うしろから抱き込まれるようにして眠っていたらしい。……誰に?
そこで一気に目が覚めた。うん、こんながっしりした腕、姐さんのじゃありえないし。
シエナは少しずつ思い出した。自分が今どんな姿になっているかを。
そして、自分を抱きかかえるようにして眠る魔術師のことを。
すうすうと寝息をたてて、魔術師は眠っている。カーテンの隙間から光が差し込んでいるから、どうやら朝であるらしい。
確かに温かいが、なんとも落ち着かなくてシエナは何とか腕を外そうとする。
「……外れないし。ちょっと、起きろって!何であんたが一緒に寝てんだよ!」
肩越しに後ろを振り向き、シエナは大声をあげる。魔術師は顔をしかめながらも瞬きをして、ぱちりと目を開けた。欠伸をしながら呑気に挨拶を寄こしてくる。寝起きからにこにこと機嫌がいい。
「うう、もう朝か。おはよう、よく眠れたかな?」
「そうじゃなくてっ、何であんたと一緒に寝てんの?というか、この手をどけろって」
「ん~だってこれ私のベッドだし、この家、他にベッドないしね。二人で寝ても十分広いでしょ」
「広いなら、なんでくっついて寝る必要がっ」
「あったかいから。で、まだ返事してもらってないけど」
「なんの」
「おはよう」
「……おはよう」
「あはは、すっごい不機嫌そうな声だねえ。ま、いいや、そろそろ起きようか?何か口に入れた方がいいと思うしね。お腹すいたでしょ?」
人形に空腹感なんてあるのだろうか。首を傾げながら腹の辺りを擦れば、確かにお腹が空いたような感じがある。
「やっぱりね。きみ、あれから三日も眠ってたし。そろそろ限界だろうなあって思ったんだ。何か用意するから、適当に着替えておいで」
そこのクローゼットにあるからねと魔術師は言って、おもむろに首の後ろに吸いついてきた。
「ひゃ、何するんだよっ」
思いきり振り払おうとする前に、魔術師はするりと身をひいてベッドから降り、楽しげな笑い声を残して部屋を出て行ってしまった。
何だよ一体。シエナは首の後ろを手で擦りながらベッドに横たわる。そこでふと、自分が握りしめていたものに気付いた。それは落ち着いた色合いの上着だった。
「これって、あの魔術師が着てたやつだよな、何でこんなのが……」
呟いた途端、あ、とシエナは思い出した。眠りに落ちる前、自分が魔術師に抱きしめられていたこと。
おそらく、その時に無意識に掴んでいたらしい。
「何だかなあ……」
頭を抱えたい気分だった。背中がやけにすうすうとして落ち着かない。それには気付かないでいたかった。
適当に着替えて部屋の外に出る。
クローゼットにあった衣装はことごとく女もので、まずそれに頭を抱えた。しかしワンピース一枚の心もとない格好よりはましだと自分に言い聞かせて、衣装のうちでも地味なものを着る。
物音のする方へ行くとそこはキッチンで、魔術師がテーブルに皿を並べていた。示された席に座ると、目の前に湯気の立つスープやコーヒーが置かれた。簡単なものしかないけどねと魔術師は言い、シエナの向かいに腰かける。パンやサラダ、果物も並べられ、好きなもの食べてねとすすめてきた。
そう言うからには、人形でも食事は出来るのだろう。
シエナはおそるおそるスープを飲んでみた。美味しいと感じた。一口飲むと、ますます空腹感が酷くなった。スープを飲み、パンを食べ、サラダを食べた。よく食べるねえ、よかったらこれも食べる?魔術師は自分のパンも差し出してくる。それもありがたく貰う事にして、シエナはひたすら食べた。 そして果物まで食べ終えて、食後に魔術師はもう一度コーヒーを淹れた。
それを飲みながら、ようやく落ち着いた頃に、魔術師は言ったのだ。
「実は、きみにまだ言ってない事があったんだよね」
「なにが」
「その前に。ねえ、きみ今ので、本当にお腹いっぱいになった?まだ足りないんじゃない?」
え、とお腹をさする。
あんなに沢山食べたのに、そう言われればまだ物足りない気がする。
「でも、お腹が空いたって感じるの、本当は違う場所なんじゃないかな?」
何を言われているのかわからない。違う場所?その時下腹部がずくりと疼いた気がして顔をしかめた。
痛いのとは違う。それは次第に下腹部全体に広がっていった。
「え、なにこれ?なんで?」
下腹部と、そして体の奥がずくずくと疼いている。魔術師はごめんねと言ってから、話しはじめた。
「ふつうの食事じゃあ、きみのエネルギー源にはならないんだ。実はね……」
続く言葉に、シエナは気が遠くなりそうだった。