5
『そばにいて』
最後に聞こえたのは、そんな小さな呟きだった。
うわ、何これ酷い。
王の使者を名乗る青年と顔をあわせた途端、ナギは内心顔をしかめた。
巧妙に隠されてはいるものの、青年の体の中に、自分への“毒”が仕込まれている事がわかったからだ。
肉体という器から、それらは既に零れ始めている。そこでおかしいなと首を傾げた。肉の器は案外頑丈で、このような“毒”の器にされたとしても、内包するモノが外へ浸み出る事はまず、ない。
ふむ、とナギは青年をじっくりと“視た”。
草臥れたフードから覗く煤けた金の髪と、空の青とも海の青ともつかないような不思議な色合いの瞳。成人してそう間もないのではと予想する。背丈はそれほど高くはなく、顔立ちも特別整っているわけではないが、たれ目がちの目にはどこか愛嬌があった。
疲れた様子を滲ませた青年は、書簡を取り出すとナギに差し出してくる。
『陛下から言付かってまいりました。どうかお受け取り下さい』
……あの莫迦者ども、とナギはぎり、と奥歯を噛みしめる。
書簡と、それを運んだ使者。透けて見えた意図に吐き気さえしそうだった。
書簡は起爆剤。
もしナギがこれを受け取れば、青年の体を食い破り“毒”が撒き散らされる。ご丁寧にも“毒”はナギひとりに向かうよう設定されていた。“毒”を吐き出したあと、青年もまた無事では済まないだろう。
使い捨ての道具のように扱われた青年は、さてその事をどこまで知っているのだろう。
いつまでも書簡を受け取らないナギを、怪訝そうに見上げている。
幼いといってもいいような、戸惑う顔。
ナギが“視た”青年の体は、すでにどこもかしこもぼろぼろで、脆くなっていた。王の使いを名乗っているが、おそらくは、自分のかつての弟子に命じられてここへ来たのではないかと推測する。
そして、かつての弟子の……実験台にされているのだろう、とも。
縁を切った後も悪癖は変わらなかったかと苦い思いを呑みこんだ。
さてどうするかと腕組みしたところへ、あの、と青年が再び口を開く。
青年の手に握られたままの書簡に目を落とし、そしておもむろに呟いた。
たちまち燃え上がる書簡に、青年は慌てて手を離して飛び退く。
「え、ちょっと、何する……っ」
目を見開く青年の額を、とん、と指でついた。たちまち崩れ落ちる体を抱きとめ、その軽さに顔をしかめる。念のため青年の体にも自分にも、防護膜を張っているから、何かを仕掛けられていても対処は出来た。
意識を失った体を長椅子に横たえ、掛けられた術を精査する。
あの莫迦どもがと罵りの言葉がひっきりなしに口をついて出てしまった。
代を遡ること既にどれほどか。かの国の王の守護をする契約を交わした。 当時の王とは親しくしていて、自分に出来る事といえば、王を害するものから守ってやることくらいだったから。
そして自身は二度と王に会わず、王宮にも足を踏み入れない事を課した。自身が害するものになってはいけないと思ったからだ。
王が変わるたび契約は更新され、また定められた年数ごとにも契約は更新された。
“もし私がお前から見て、価値ないものになり下がっていたら、契約を破棄できるように”
そう初めに契約を交わした王は言って。
代を重ねるうち、古い契約は忘れられていった。ただ漫然と更新は繰り返される。契約の代償もそのたびに届けられるから……こちらから破棄することも出来なかった。
もうあの国の王に、自分の守護は不要だ。なんとか契約の破棄が出来ないものかと考えていたとき。 契約の更新時になったにも関わらず、届けられた代償はあまりにも少なかった。
……これはいい機会だと思った。まだ破棄するには足りないから、守護の力をその分弱めてやる。
自分は王に直接会えないから、書簡を届けた。契約を守られよ、さもなくば……と。
そして、自分の元へ青年が現れた。王の書簡を携えて。
これが答えかと、かつて契約を交わした王の面影に呟いた。お前の子孫は碌でもないぞと。
お前とかわした契約も、もはやこれまでだ……と。
「……よし、“毒”の対象は変更できた。浸み出ないように少し補強して、と……」
目を閉じた青年の体に手をかざし、脆くなった場所に力を注ぐ。
……衣服をめくり、目にした体の様子に息を呑んだ。
無残な傷跡があちこちにあり、皮膚の色も変色している。ことに、一番酷いのは腹部の変色だった。“毒”を含まされた事が原因だろうが……これまで実験体にされていたとしたら、その影響もあるだろう。
「ごめんね、でも今度は私の使いになって。そうしたら、ね」
衣服を元通りにして、青年にささやく。名前を呼んで。そうしたらね、と。
薄く開いた唇に、とろとろと自分の力を注ぎこんだ。すると途端に目を見開き、入り込んできた異物を吐き出そうと青年がもがきはじめる。
腕も足も力で固定して、身動きできないよう縛りあげれば、喉をそらし声にならない悲鳴を上げて頭を振った。
他者をその身に受け入れるのは、とても苦しい。己を侵食される怯えと中から変えられてしまうという恐れに、青年は涙を流しながらうわ言のように繰り返していた。
もういやだ、苦しい、助けて。
僅かに動く手のひらが、縋る何かを求めるように戦慄いていた。
その手を握り、ささやく。
「助けてあげる。だからちょっと苦しいと思うけど、我慢してくれるかな」
どこまで聞こえていたのか、わからない。けれど青年は青い瞳を瞬かせたあと、こちらを見て微かに笑った。
とても安心したように。その笑みがナギにはとても苦しかった。
何と言おうと、結局していることは、あの莫迦どもと同じか、と。
術から目覚めた青年は、既にここから立ち去っている。彼は何も覚えていないはずだ。ただ王の使いを果たした、それだけを覚えているだろう。
「私の名前を呼んで。そうしたら、ね」
ナギは呟く。青年の青い目を思い出しながら。
虚ろな光を過らせながらも、それでも生きていようとする青年の目は、不思議なきらめきを放っていた。
その色をまた見たいと思っていた。