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『痛い苦しい、気持ち悪い……なんで?ねえ』
何故と叫んでいるのに、誰からも答えは返らなかった。
投げた言葉は誰にも届かず、空しくどこかへ消えるばかり。
そして答えてくれる“誰か”すら思い描けなかった。
何よりもその事が一番悲しいと思った。
“契約の魔術師”のもとへ、王の使者としておもむくように。
シエナにその命を下したのは、王宮づきの魔術師だった。
書簡ひとつを携えて、シエナは遠い遠い、人も通わぬ僻地へ住むという、“契約の魔術師”のもとへ旅立った。
書簡の内容も、そして“契約の魔術師”と王が、どのような契約を交わしているのかも、シエナには何一つ知らされなかった。ただ命じられるままに旅立った。
シエナは魔術師の元で下働きのようなことをしていた。
ほんの少年の頃から、そして青年になった今に至るまで、シエナに何故と問う権利は与えられていなかったし、また命令には従うことしか出来なかったからだ。
どんなに嫌で泣きわめいても、結果は変わらない。自分は命令に従うしか道はなかったし、抵抗すればその酷く痛めつけられた。それなら少しでも痛くない方がいいと諦めたのだ。
『旅の間の加護をやろう』
シエナをいつも雑用でこきつかっている王宮づきの魔術師は、珍しくもそう言って、なにがしかの術をかけた。術の光がきらめく間、また術が終わってからもシエナは吐き気が止まらなかったが、それを口に出しても無駄だとわかっていたので、必死に耐えた。ふらつく足でなんとか倒れる事は踏みとどまり、震える声でかろうじて言いたくもない礼を言う。
すると魔術師はにいっと唇を笑いの形に歪め、言った。
『おまえの働きに期待している』と。
魔術師の態度を怪訝に思いながらもシエナは旅を続け。
“契約の魔術師”に王からの書簡を渡し。
命を果たして、また長い道のりを辿り、そうして王宮へと戻って来た、はずだった。
やっと王宮が見えてきた。
とぼとぼと歩きながらシエナは大きく息を吐き出した。長い旅の中で馬はとうに手放してしまい、背中に背負った袋にも碌なものは入っていない。目深にかぶったフードつきマントも埃や泥ですっかり薄汚れていた。
どうにも体が重くて仕方ない。
国を出る前に旅の加護だと魔術師から術を掛けられ、それ以来吐き気が続いている。体のどこかが痛んだり、具合が悪かったりするのはいつもの事だったから、はじめはそれほど気にしていなかった。そのうち治まるだろう、いつものことだと考えていた。けれど吐き気はとまらない。
何だか嫌な感じがするなあと思いはしたけど、シエナはあまり考えないようにもしていた。
先の事を考えても仕方がないし、よくない事しか浮かんでこないからだ。
本音をいえば、シエナはこのまま逃げ出してしまおうかとも思った。
この国でシエナを待つ人などいないし、シエナが会いたい人も殆ど居ない。
ここで働く理由が消えた以上、もう戻る必要もないのだ。
そして戻ったところで碌でもない扱いが待っているだけだとわかっている。
けれど、どうしても魔術師に聞きたい事があったのだ。それを聞くためだけに、戻って来た。
シエナが何を訊いたところで、本当の所を答えてくれるかどうか、わからなかったけど。
「早いとこ行かなきゃな……あ~あ、やっぱりなんかもうまずいのかなあ、俺……」
腹や肘のあたりを撫でさする。服で隠れて見えないが、そこは見るもおぞましい色に変色していて、じくじくと疼くように痛むのだ。もともと体中のあちこちに傷があり、また皮膚の色もあちこちが変色していたけど、これは何かが違うと感じていた。
もしかしたら、と呟き、でも、まあいいかとも高い空を見上げてシエナは呟く。
もう誰もいないんだからと。
どのみちこれで終わりに出来るしと唇を笑いの形に歪め、視線を小高い丘に立つ王宮に向けた。
入り組んだ坂道や階段を上り、やっとの思いで城門へ辿りついたシエナを待っていたのは、思わぬ言葉だった。
「何故戻って来た。お前の気配を感じて飛びあがるほど驚いたわ。使いを果たしておらんのかっ」
そこには大勢の兵に囲まれたシエナを、怒りも露わな顔で睨み据える魔術師がいた。
厳めしい城門をくぐろうとした途端、兵に囲まれ、混乱しているうちに意外な言葉を浴びせられる。
体中に目に見えない糸が巻きつき、指一本動かせず埃っぽい地面にどうと横倒しになった。
倒れた痛みとぎりぎりと身体を締め付ける力に、悲鳴をあげた。
不可視の糸は、魔術師が力をふるっているのだろう。
なんで、どうして。ちゃんと命令は果たしたのに。そんな言葉が頭の中で渦を巻く。
「俺はっ、ちゃんと書簡を手渡して来ましたっ、命令どおりしてきましたっ。それなのに、何故」
叫んでも魔術師はますます眉を吊り上げ怒りを露わにして、シエナを縛る“糸”を引き絞る。さらにぎりぎりと締めあげられて息が詰まる。
喉元に巻きつく糸を掻きむしりたくとも、蓑虫のように糸を巻かれていては腕を動かすことも出来なかった。ただ、ぜいぜいと喉が鳴る。
のたうちまわりたいほど苦しくて、それでもぴくりとも体は動かない。
「おやめ下さいっ、何故ですかっ」
呻くように叫んでも、魔術師は眉ひとつ動かさなかった。それどころか汚いものでも見るような視線でシエナを見おろしていた。ぎり、と糸が絞られる。息が出来なくて目の前が暗くなってくる。
このまま終わってしまうんだろうかと諦めの気持ちが浮かんだ。
苦しくてもう早く楽になりたいと、さえ思う。
けれど、まだ駄目だ、とすぐに思い直した。まだ……聞かなきゃならないことがあるのだ、と。
暗くなりかけた視界の中、必死に目を見開いて。シエナは苦しい息の下で、魔術師に問うた。
「答えて下さい。俺のいた村が、今はもうない事、ご存知でしたか」
旅の途中で。シエナは自分の生まれ育った村が、大火に呑まれとうに消えていた事を知った。
もう誰も自分を待っていないことを知った。シエナがここで働いていたのは、村で待つ家族のためだったのに。
魔術師はまだ息があるのかと言いたげな顔をしていたが、ああ、そうだと何かを思い出したように愉快そうに笑った。
「お前の居た村のことなど知らん。ああお前は家族へと金を送っていたな。それなら誰ぞにくれてやったわ。それがどうかしたのか?」
「……そう、ですか……」
シエナは大声で笑いだしたくなった。
家族のためにとここで働いていたのに、当の家族はもういなかった。自分が送っていたはずの金は初めから少しも家族へは渡っていなかった。それなら、何のために此処に居たのだろうと自分を嗤う。
なんて莫迦だったんだろう。
こんなことなら。辛いと思った時に村へ逃げ帰っていればよかったのか。
そうしたら、たとえ村が消えても、最後まで皆と一緒にいられただろうに。
一緒に、行けただろうに。
煩いと、黙れと言わんばかりに、喉元へも糸が巻きついて締め上げてくる。
苦しくてとうとう気が遠くなってきた。
それすら、どこか他人事のように見ている自分に、気付いていた。
もう、疲れたし苦しいのも嫌だし、もういいや。
どんなに自分が泣いても喚いても、この声が誰にも届かないのなら……もう、いい、と。