番外編 ある女性の話 2
「ちょっとそこで待っててくれる?」
少年を部屋の入り口で待たせたまま、寝室に入りタオルや自分の着替え、少し考えて少年の分の着替えも用意する。
前に付き合っていた男が忘れていったシャツだった。手早く着替え、濡れた髪の毛を拭きながら入り口で所在無げに立ち尽くす少年の元へ戻る。
「はいこれに着替えてちょうだい。頭も拭きなさいよ」
「え、あの俺もう帰るし」
「あら、もう夜も遅いわよ。雨も酷いし。泊まっていったらどう?」
にこりと笑いかければ、少年はますますうろたえたように顔を赤くして目を逸らした。まあ可愛らしい反応だことと胸のうちで呟いて、少年に着替えとタオルを押しつけた。
「着替えたらこっちに来てね」
濡れた服はこれにでも掛けておいてちょうだいとハンガーを渡す。
言うだけ言って、少年に背を向けて寝室の方へと戻る。
しばらくして、おずおずと寝室のドアが叩かれ、促すと少年が入って来る。
ベッドに腰掛けたまま手招き、隣に座るように言う。
少年は居心地悪そうに、わたしから距離を取って腰掛けるけれど、狭いベッドでそうそう離れられるはずもない。
わざと太腿をくっつけて傍に座りなおしてやれば、おおげさなほどびくりと震えて離れようとするから首に両腕を回して抱きついてみせる。
ちょうど少年の顔にわたしの胸を押しつけている格好だ。どうしたらいいのかわからないというふうに、少年は焦ったように声をあげた。
「え、あの、ちょっとっ」
ほんとに可愛らしい反応ね。もしかして初めてだったりするのかしら?何も知らないほど幼いようには見えないのだけど。
乏しい蝋燭の灯りでは、相手の顔立ちまでははっきりわからない。
それでも耳は真っ赤になっているし、抱きついている体は骨の形が分かるほど薄かった。背だってわたしの方が高い。
まさかねえ、と思いながらも抱きついたまま少年の薄い肩を押してベッドの上に引き倒す。
「うわ、何してんのっ、ちょっと、離れて……っ」
目の下まで伸びた前髪がかかり、少年の表情はわからない。
けれど上ずり焦ったような声音で、伸しかかるわたしを引き剥がそうと手がうろうろとさ迷っている。
実際、一度少年の手は強く自分の体を押したのだけれど、それがちょうどわたしの胸を思いきり押す結果になって。少年は喉の奥で悲鳴じみた声をあげて手を引っ込めてしまったのだ。それをよいことに細い体の上にのしかかり、わざと胸を押しつけてみせると、お願い離れてと困り切った声があがる。
初心な様子は手管なのかしら、それとも……と思いながらも、ねえ、と耳元で囁いた。
「ねえ、さっきの雨で冷えちゃったわ。……温めてくれる?」
うう、と唸るようなくぐもった声が少年の口から零れ、やがて恐る恐るといった調子で手が背中に触れる。
その、まるで物慣れない触り方がくすぐったくて、身を捩って少年の上からのき、寝台に寝転がる。
わたしが身につけているものは薄い夜着のみだから、胸の膨らみも細い腰も、そして捲れ上がった裾からは太腿から下の足が見えているだろう。
それをわかったうえで少年を見上げ、にこりと笑う。誘うように。
「……触っていい?」
「どうぞ?」
少年はおずおずと手を伸ばして胸に触れてくる。柔らかさを確かめるようにゆるく揉まれた。
「うわ、柔らかいし……あったかい……」
「ふふ、胸、触るの好きなの?」
「いや、わかんないけど……あったかいね」
うっとりと呟く声には、あまりにも“色”を感じさせなくて。少年の首に腕を回し、自分の方へと引き寄せる。不意をつかれ、少年は間抜けな声をあげて自分の体の上に倒れ込んできた。
「何してんのっ」
あがる声は、少年の顔を自分の胸に押し付ける事で封じた。
「ねえ、温めてちょうだいって言ったでしょう?」
「……わかったっ、お願いだからちょっと離れて……っ」
腕の力を緩めると、少年は身じろぎして。それからわたしの体に手を伸ばして……柔らかな力で抱き締める。蹴り落とされる寸前だった上掛けも体の上に掛けられ、え、と疑問に思っているうちに背中を一定のリズムで叩かれる。
これって、まさか。
「ねえ、これで温かい?眠れる?」
なんなのこれは。信じられないと思いながら。
抱き締める細い腕は優しくて、少しも色を感じさせなかった。
ただ眠るためだけに、抱き締められたのは、どれくらいぶりだろう。
ふ、と喉の奥から笑い声がこぼれた。背を叩く一定のリズムと、温かな体温。
目を閉じれば吸い込まれるように眠りに落ちて行った。
雨の日に出会って以来。少年との奇妙な付き合いは続いている。
あの後少年に尋ねたところ、わたしの言葉を文字どおり「体を温める」ことだと思っていたらしい。
実地で教えてあげようとしたのだけど、顔を真っ赤にして拒否されてしまった。そう言う事だったのと悲鳴じみた声をあげるから、どこの深窓のご令嬢よと仕掛けたこちらの方が脱力した気分になったものだ。
年頃の割に何も知らなかったのねと奇妙に思う。それなのに、色んな事を知った後……ひとたび“色”を持って触れれば顔を赤くして困り果て、逃げ回るくせに、わたしの体を抱きしめたり……特に胸に触ったり顔を埋めたりするのは好きなようなのだ。
その触れ方もやはり色ごとめいた雰囲気はなくて、ただちいさな子どもが柔らかな感触を楽しみたくて触れるような、それで。
今も、寝台に寝転び、わたしの体を抱き締めている。温かいねとうっとりと呟きながら背中に回されている腕は、初めて会った頃より伸び、背丈もわたしを越しているけれど、痩せた体には変わりがない。
そして、けして肌を晒そうとしないのも。
初めて会った日の翌日。朝日が射して明るくなった部屋。そこで初めて少年の顔をまじまじと見る事になった。
うろたえたようにわたしから距離を取り、壁の方にへばりついていた。
髪の毛はくすんだ金色で、垂れ目がちな瞳は空の青とも海の青ともつかないような、不思議な色だった。
そして。何より自分を驚かせたのは、彼の腕や足についた傷だった。
未だ赤い色をしているものから、白い傷跡になっているもの、そして痣のように変色したものもあった。
脛に傷持つ者が多い、この辺りの界隈に暮らす人間には、傷跡も傷も珍しいものじゃないけれど、それでも思わず目を逸らしたくなるほど酷いものだった。
わたしの視線に気付いてか、少年はシャツを引っ張り肌を隠すと、諦めたように笑ったのだ。
「あ~あったかい」
少年……否、成人し、青年と呼べる年になった彼は、わたしを抱きよせて目を閉じている。くすんだ金の髪が瞼の上に落ちかかっているのを見て、そろそろまた切ってあげようと考えていた。以前、もう少しその髪の毛どうにかしなさいよと言ってみたら、自分で切ったのだろう、無残なほどの有様にしてしまったのだ。
なんとかしなさいとは言ったけど……わかったわ、わたしが切ってあげる。折角綺麗な目なんだから、隠してしまうのはもったいないわよ。そう言うと、青い目をきょとんと見開き、彼はゆるりと嬉しそうに笑った。
彼と会うのは月に一度か二度くらい。それでも、少年が青年になるまでの間のつきあいと考えれば、かなり長い付き合いにはなるのだろう。
こと、わたしの仕事を考えれば驚くほどに。
わたしにだって馴染みの客がいないわけじゃないが、それだって何年もは続いていない。わたしはよくてもあちらが他の花に目移りするだろうし。
わたしと彼の間にあるもの。
それは上手い言葉が見つからない関係だと思っている。
長い付き合いであるにもかかわらず、わたしと彼の間には何もない。
そう、色めいたことは毛筋の先程も無いのだ。
寝台でともに眠るだけ、の関係。
これでは客とも呼べないではないかと思うのだけど、友人と言いきれないのにも訳がある。
彼は、わたしの時間を貰っているのだから、ちゃんと“買わせて”と言うのだ。これは二度目に会った時に言ってきた事だった。その時もただ一緒に眠っただけだったし、この前わたしを連れて帰ってくれたんだからお代はいいわよと言うと彼は唇を引き結んで首を横に振ったのだった。
わたしの何を気にいったのかは知らないけれど、この子が飽きるまでつきあいましょうか。
半ば面白がる気持ちで、それなら、といわゆる“相場”よりかなり低い金額を告げてやれば、じゃあそれでと彼は頷いた。
もしかしたら途中で“お客”に変わるかもしれないし、それならそれで面白いかしら。
そんな気持ちで始まった、客とも友人とも呼べない奇妙な関係だった。
その時のわたしの予想は見事に覆される結果になっている。
彼は成人しても、ただわたしを抱きしめて眠るだけ。子どものように安心して眠る様子に、なかば苦笑しながらも温かさが心地よくてわたしも深く眠る。
こういう奇妙な関係だけど、それがどこか心地いいのも事実だった。
“相場”を知ってか、彼はわたしに渡すお金を増やそうと言うのだけど、貰うほど何もしてないと断った。
すると次からは、滅多に食べられないお菓子や果物を持ってくるようになったのだ。
こういうところは、ちゃんと大人になっているんだなあと感慨ぶかく思った。
その半面、わたしは彼の事を殆ど知らないままだ。
知っているのは。わたしを抱き締める腕と、くすんだ金の髪、綺麗な青の目。王宮で下働きをしていることと、体中についた酷い傷跡。どんなに暑い時でも肌を晒さないこと。わたしを抱きしめて、温かいとうっとりと呟いて、安心したように眠る、たったそれだけ。
傷のわけを聞いてみたことがある。
彼は困ったように俯いて、少し仕事でねと言葉を濁した。
王宮でそんなに傷だらけになるような、どんな仕事があるのだろうかと疑問に思ったものの、それ以上問う事はしなかった。
聞いて欲しくないという雰囲気を彼が滲ませていたから。
次第に濃くなる疲労を滲ませる顔を見ながらも、問う事は出来なかったのだ。聞いていればよかったと後悔したのは、彼が二度と姿を見せなくなってからだった。