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番外編 ある女性の話 1

 よっこらしょ、と掛け声をかけながら、買ったもので膨れた袋を持ち上げる。

 その途端、腕にずしりと重みがかかり、覚悟をしていたものの、よろめいてしまった。

 ああ、失敗したかもと、今更ながら少し後悔する。

 こんなに買わなきゃよかった、いやそもそも、夫の言う通り大人しく家に居ればよかったのよと。



 天気がよかったので、わたしは散歩ついでに街に買い出しに来ていた。

 臨月も間近になったこともあって、夫はわたしが一人で出歩くのを心配していた。食糧などの買い出しには必ずついて来て、荷物は持ってくれる。 

 家に居る時も同じく、わたしがちょっとでも重いものを持とうとしていたらすっ飛んで来る。あんまり過保護すぎるわよと笑ったものだ。

 重たいお腹を抱えながら、ゆっくりと家事をしていて、食料品のうち足りないものがある事に気がついた。

 今日はあいにく、夫は仕事で出かけている。夫の今度の休みの日にでも、一緒に出かけようかしらとも思ったが。窓越しに見上げる空はよく晴れていて、見るからに気持ちよさそうだ。迷ったのはほんの少しの間。

 軽いものだけだし、すぐ帰るのだし、大丈夫よねと心の中で繰り返しながら、外出する事にしたのだった。



「……まあ、大丈夫、よね」

 少しだけのつもりが、ついつい買い過ぎてしまい、気付けば買い物袋はかなりの重さになっていた。

 だって安かったんですものとここには居ない夫へ言い訳をしつつ、ゆっくりと家路に着く。

 休み休みいけば、なんとかなるだろうと思っていたのだけど。

 すぐに自分の判断の甘さを呪う事になる。しばらく歩いているうちに気分が悪くなり吐き気までしてきた。

 冷や汗が額に滲んでくる。のろのろ歩いているわたしが邪魔なのだろう、大きな荷物を抱えた人たちには舌打ちをされる。他人の不機嫌そうな顔や、刺々しい様子を見て、怯えるような繊細さとは程遠いわたしだけど、いい気分はしない。

 この街は自分が数年前までいた国に近いため、その国からの移住者も多い。昔からの住人は、最近じゃあちょっと治安が悪くなってねえ、ひともぎすぎすしてるようで嫌な感じだよと零していた。

 人が増えればその分諍いも増えてしまうのだろうか。自分も移住者であるから、少し肩身のせまい思いでその言葉を聞いていた。

 こんな道端では休む場所などないから、どこか……建物の陰ででも休もうと、足を踏み出した時だった。

 すうっと高い所から落ちるような感覚がして、目の前が薄暗くなってゆく。地面を踏んでいるはずの足元が、ふわふわとして心もとない。

 ぐらりと視界が揺れて……さらに血の気がひいた。

 このままだと倒れてしまう、なら……せめてお腹だけはと腕で庇おうとした時、間近で涼やかな声が聞こえ、崩れ落ちそうだった体を支えられる。

「ちょ、お姉さん大丈夫っ?」

 心配そうな声にも、しばらく何も返せなかった。

 何度も呼びかける声に大丈夫、ありがとうと返事をしたいのに、開いた口から零れるのは震える吐息ばかりで声にならない。

 涼やかな声をたしなめるように、よく響く低い声が聞こえた。

「このひと、ちょっとまだ話せるような状態じゃないみたいだね……うん、わかってるよ、そこらの食堂で休憩させてもらおうか。このひと抱えていくから、きみはこのひとの荷物持って行ってあげて」

「わかった。……ねえ、大丈夫なのか?」

「う~ん、それは見てみないとねえ……ほら、そんな顔しない。行くよ」

 その言葉とともに、体に感じる浮遊感。誰かに抱きあげられているのだ。 慌てる自分を余所にまだ言葉は出ないし、何度瞬きしても視界は薄暗いまま。声の様子から一人が男性で、もう一人が女性……それも年若い……くらいはわかるけれど、それだけだ。

 ままならない体がもどかしくて、せめてどんな人たちが助けてくれたのかを知りたくて、何度も瞬きをしていると、霧が晴れるように視界がはっきりする。

 まず目に飛び込んできたのは、自分を抱き抱えている男性の、長い銀の髪と、浅黒い肌。それから。

 こちらを覗きこんでいる、少女の……深い青の瞳だった。

 この色を、どこかで見た気がして首を傾げていると、頭の上から低い声が降って来る。

「少しでも体を休めたいなら、目は閉じていた方がいいよ」

 声はまだ出なかったから、柔らかながらも逆らい難い声に大人しく頷いた。

 あの青い色を、わたしはどこで目にしたのだろう。

 海の青とも空の青ともつかぬような、いろ。


『綺麗な目の色ね、空の青のようで、海の青のようで』

 そうだった。あの子にわたしが言ったのだ。あの、青……は。

 あの子の目の色と同じ、だったのだ。


 そして、あの子と初めて会った時の事を思い出す。

 そうだった、あの時も……。

 今と同じような場面だった、と。



 ああもう、ついてないったら。

 じくじくと痛む頬とお腹を押さえ、何度目かわからない言葉を吐き出した。

 支払いを渋った挙句、腹いせかなんだか知らないけど殴りつけるなんてさいってい。おまけに人の体好き勝手に扱ってくれちゃって……まあそんな男だと見抜けなかったわたしが莫迦だったのかもしれないけれど。

 はあ、と大きなため息をつけば、その振動で頬もお腹も痛くて呻き声をあげてしまう。そして乱暴に扱われた体の奥も、じくじくと鈍い痛みと熱を持っていた。

 体は大事な商売道具だ。幸い、傷にはなっていないようだけど、しばらくは仕事出来ないかも。

 そして再び、ああもう、ついてないと唸る。

 確かにわたしは体を売って日々の糧を得ているけれど、金さえ出せば何でもするってわけじゃあないのよ。

 もう一度ため息をついて、両腕で剥きだしの肩を抱き締めた。

 最低な客のところから逃げ出したはいいけれど、酷く扱われた体は疲れ切っていて、蹲った路地の隅から一歩も動けそうにない。

 降りだした冷たい雨はやむ気配もなく容赦なく体を濡らしていく。

 このままだと凍死しかねないと思うけれど、立ちあがる気力もなかった。 蹲る自分の傍を時折人が通りすぎていくけれど、誰もが関わり合いになるのが嫌なのだろう、足を止める気配もない。みな足早に去っていくばかりだ。

 わたしだって同じ。誰が好き好んで厄介事に関わり合いになりたいものか。ましてこの街ではたいして珍しくもない光景だ。

 体を売る女が、顔を腫らして道端にしゃがみこんでいることなんて。

 あ~あ、もうやだなあ。

 両腕で抱えた膝頭の上に額をつけてちいさく呟く。雨はやまない。このまま、雨に打たれていても仕方ないし、立ち上がって部屋に戻って、体を温めて……そしてひと眠りして、味わった嫌な思いも何もかも忘れてしまえばいい。それが最も建設的な方法。

 そうわかっているのに。

 この場所から一歩も動けずに膝を抱えてうずくまっている。

 そうしているわたしの傍を、誰かが水音をたてながら走っていく。

どこへ行くのだろう。誰かが待つ温かい場所に帰るの?

 ふと自分が暮らす部屋が頭に浮かんだ。

 古いけどそれなりの広さがある部屋は、数少ない“自分だけの”場所だった。集合住宅の上の階だったから、重いものを持って上がるには難儀をするけど、それも苦にはならなかった。少しばかりの贅沢と思って、そして少しでも居心地がいいようにと綺麗な布を手に入れてクッションを作ってみたり、可愛い置物を飾ってみたりもした。

 そうして少しずつ作りあげたわたしだけの部屋。

 わたししか居ない部屋。

 どんなに居心地よくしても、迎えてくれる誰かがいるわけでなし、誰かを迎えることもない部屋。

 不意に目元が熱くなって、滲みそうになったものを、固く目を瞑ってやり過ごす。

 誰かを羨んだって仕方ない事はわかっている。


「ねえ、大丈夫なの?」


 目をきつく瞑り、膝に額をつけていたわたしは、ふいにかけられた言葉に反応出来なかった。

 そういえばさっきの足音、通り過ぎた後にこっちに戻って来ていたような。ぼんやりと思い返していると再び声をかけられる。

「ねえ、聞こえてる?ここにいたら凍死するよ」

 それともそうしたいのと問われ、顔をあげて声の主を睨んだ。

「そんなわけないでしょっ。何か用?」

「用はないけど……お姐さん、ここにずっといる気?本気で凍死するよ」

 眉をひそめてわたしを見る相手は、痩せた少年だった。雨に濡れ、ぺたりと張り付く長い前髪のせいで、目の色や顔形はよくわからない。身につけているものはあちこちが草臥れていて、おそらくこの界隈の住人だろうと見当をつける。少年の方もわたしの身形から、どういう女かわかっているはずだ。捻くれた思いが浮かび、唇の端を歪めた。

 弱っているところに付け込んで、あわよくばって感じなのかしら。

 ああ、今日はほんとについてない。そう思いはするけれど、一人では立ち上がれそうにないのは事実だった。

 手を少年の方へと差し出し、引き攣る頬の痛みを無視して笑いかける。

「ねえ、ちょっと一人じゃ動けそうにないの。家まで送ってくれない?」

「……いいよ」

 少年はわたしの腕をとり、立ちあがらせてくれる。

 動けないと思っていた場所からあっさり離れ、少年を促しながら部屋の方へと歩き出す。

 手は離すきっかけを失ったまま。

 握られたままの手は、雨に冷えたせいか互いにとても冷たい。

 それなのに。

 なんで温かいと思ってしまったのだろうか。




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