0 すべてのはじまりのはなし
以前別アカウントで連載していた話を移行しました。誤字脱字等の若干の修正のほかは、ほぼ以前と同じです。
昔々あるところに、とても大きな国がありました。
その国はひとりの王様が治めていました。
あるとき、王様は家来に命じて、王様の手紙をとても遠い場所へ届けさせました。
なにしろ国はたいそう広いので、住んでいる人間でさえ、国の全てを知っているものはいないのです。
命令された家来も、見たことも聞いたことも無い土地の名前に首を傾げながらも、馬に乗って旅立ちました。
川を越え、野を走り、山を越えまた谷を越え、季節が一つ二つ越えた頃、ようやく目的の場所に家来は辿りつきました。
あまりにも遠いので、この世の果てはこんなところではないだろうかと、家来が思い初めていた頃の事です。
その場所は滴るような緑に囲まれた険しい谷の奥に、ひっそりと隠れるようにありました。
家来が訪れを告げると、その場所で一番大きな建物に案内されました。
とりたてて大きな町ではなく、人気も少ない寂しい場所には似つかわしくないほどの、煌びやかな飾りや石がついた細工が部屋の柱や暖炉などが、あちこちに見えました。
柔らかい椅子に座っていると、しばらくして頭からフードを被った人が家来の前にやってきました。
髪の毛も眉毛も雪のように白い老人です。この村の長だと名乗った老人は、ようこそ遠い所から来られた客人よ、歓迎しますと笑いました。
家来は慌てて言いました。
自分は客人ではなく、王様からの使いですと。そして懐から幾重にも油紙で包まれた、王様からの手紙を取り出しました。厳重に巻いていた油紙を取り外し、預かった手紙を老人に差し出します。
老人は手紙を受け取ると、封を切り手紙に目を通しました。そして読み終わった手紙をきちんとたたみ、封筒に入れ、懐に仕舞います。お役目ご苦労様です、何もない所ですが、存分に寛いで下さい。
この言葉に、役目を終えたと思った家来は、頷いたのでした。
数日後の早朝。家来は馬をひいて歩いていました。役目を終えたのちは、また王様のもとへ帰らなければなりません。
これからあの道のりを戻るのかと思うと、とてもうんざりするのですが、まだお役目を完全に果たしたわけでは、ないのです。
王様へ帰還を告げてこそ、家来に課せられた役目は終わるのですから。
村の出口まで老人が見送りに出てくれるというので、二人と一頭で他愛もない話をしながら歩いています。
とうとう出口へ着いた時、家来は歓待の礼を言いました。
老人はたいしたことはしておりませんと答え、もしよろしければ、と前置きをして、懐から白い封筒を取り出しました。
もし差し支えなければ、これを王様に渡して欲しいのですがと頼まれた家来は、お安い御用ですと手紙を預かりました。
帰還の報告に合わせて、差し出せばいいだろうと思ったのです。
馬に乗り村に背を向けた家来の背中に、老人は声をかけました。
もしこの村の者があなたさまのもとへ伺うことがあれば、歓迎してくれますかと。
勿論ですと家来は振り向いて答えたのです。
木の下で眠り、野原で星を眺め、湖に映る月に目を瞠り……季節がひとつふたつ越えた頃、家来は再び王様のもとへ戻って来ました。
老人からの手紙を家来が差し出すと、王様は何故か青い顔をして、封を切りました。
読みすすめるうちに手紙を持つ手がぶるぶると震えています。
不思議に思った家来が尋ねると、王様は青い顔をして家来を怒鳴りつけました。家来に手紙を投げて寄こします。
家来が拾い上げて読んでみると、そこにはこう書かれていました。
約定は違えられた。ゆえに契約の更新は拒否する、と。
さっぱり意味がわからない家来は王様に尋ねようとしました。
そこへ、あの老人の声が聞こえたのです。
フードを被った老人は、はじめからそこにいたかのように、王様の目の前に立っていたのです。
この男は約定を違えた。この男の先祖と我らが結んだ契約の対価を支払わずに、契約の更新をしようとした。ゆえに契約を破棄し、違えた報いをその身で払うがいいと。
そう厳かに宣言したのです。
老人は実は魔法使いで、王様の先祖と遥か昔に契約し、歴代の王様に災いが降りかからないように守っていたのです。対価は金銀財宝や、魔法の為の生贄などでした。
けれども王様は金銀財宝を贈らなかったばかりか、更新をうながす手紙には魔法使いの無能ぶりを罵り、生贄としてやるからそやつは好きに使うがいいと、書かれていたのです。
老人は家来に笑いかけました。あなたさまのところへ伺ったら、歓迎すると言って下さいましたよねと。
家来は老人の笑みがとても恐ろしく感じられ、声も無く後ずさりしましたが。
急に胸の奥が苦しくなり、身を折って咳き込み始めました。ごほごほと何度も咳き込み、ついにはごぼりと濁った咳をしたかと思うと、奇妙な生き物を吐き出しました。
咳をするごとに捩じれた形の、うねうねと蠢く生き物を床に吐き出し続ける家来に、王様は叫びました。
誰かおらぬか、こやつらを切り捨てよと。
けれど誰もやっては来ません。王様は椅子から立ち上がると、大声をあげながら腰にさした剣を抜き、老人に切りかかりました。老人はにたりと笑うと、奇妙な生き物を指差します。
ほれ、こやつらをどうにかせぬと、食われてしまうぞと。
蠢く生き物は、意外な素早さで王様の足元に這いよっています。
王様は剣を今度は家来に振りかぶりました。
家来は避ける事もできず、床に膝をついたまま茫然と王様を見上げていました。
ざくりと家来の胸を、腹を剣が切り裂いた瞬間に。蠢く生き物が家来の中から飛び出してきました。
破裂する風船の中から、紙吹雪が舞い散るように。
けれど飛び出したのは見るもおぞましい生き物です。
王様の頭から腕から……全てを覆い尽くしたそれは、王様に悲鳴すらあげさせずに、見る見るうちに王様を食べつくしてしまいました。
老人は、ほ、と声をあげました。
玉座には忘れられたように金の王冠が転がっています。
契約は更新されず、古い古い契約から解き放たれて、老人は心から嬉しいと思いました。
何しろ、自分からは破棄出来ない契約だったのです。
これでもう、なんの束縛もなく自分は自由になれたのだと、晴々した気持ちで笑いました。そして、さてと考えます。
家来の腹から出てきた奇妙な生き物は、まだ食べたりないとでもいうように、床をうねうねと這いずりまわっています。王様の家来はすでに形を失くしていて、目玉がひとつ、床の上に転がっていました。
老人はそれを拾い上げると、呪文を唱えました。
瞬く間に首飾りに変化したそれを首に掛け、老人は奇妙な生き物で埋め尽くされつつある王宮を後にしたのでした。
昔々、あるところにとても大きな国がありました。
けれど、その国はなぜか一夜にして滅んでしまったそうです。
昔々は、その国の王様が居たというお城の辺りでは、今でも風に乗って奇妙な声が聞こえるそうです。
笑っているような……泣いているような。
昔むかしのお話です。