出会い
あたしと夕樹先生の出会いは7年前。
あたしが高校に入学した同じ日、夕樹先生も日本史の新任教諭として赴任してきた。
一年の時は、夕樹先生が二年の副担任だったため接点もなく、友達との会話の中に
「カッコいい先生だね」と話題に上がるくらいのことだった。
二年に進級するとクラスこそ違ったが、夕樹先生は二年の担任になったため、授業も受け持ってもらったし、学年全体の行事も多く、顔を合わす機会はぐんと多くなった。
そしてあたしが、夕樹先生に対して仄かな思いを持つようになったのは、この年のこと……。
夏休みに入ると4泊5日で行われる“林間学校”。
県内の自然豊かな山間の研修施設での行事で、『キャンプをしながら日々の生活のありがたみに感謝し、心身ともに強化していく』と、コンセプトは大層なものだったが、結局のところ、先生と生徒が交流を深める場だった。
数あるプログラムの中で、あたしはレクリエーション担当係になる。
そして偶然にも、レクリエーション担当教諭は夕樹先生だった。
クラスで話し合い、その内容をまとめてプランにすると、週に数回行われていた打ち合わせに参加して、先生に報告や指導をしてもらっていた。
各クラス一人ずつ担当係がいるから、一人一人と打ち合わせをしていると、思った以上に時間がかかってしまう。
あたしはあまり容量がいい方ではなかったため、決まっていつも最後になってしまっていた。
「海野、いつも遅くなって悪いな」
夕樹先生が声をかけてきた。
「いいよ、先生。私がトロいからいつも最後になっちゃうだけだし」
「そうかー。なるべく早くこいつの終わらせるから」
そう言いながら、1組の左之倉桂司の頭を持っていたノートでパシッと叩いた。
「痛ってーなー。俺にも優しい言葉の一つや2つかけてくれてもいいじゃん」
「ばーかっ!!なんで男のお前にそんな事しなきゃいけないんだ」
いつもの光景なのだけど、やっぱり面白い。二人のやり取りが面白すぎて、プッと笑ってしまった。
「おいっ美夜!なんで笑ってんだよ」
桂司が不満そうに言う。
「だって夕樹先生と桂司君、漫才見てるみたいなんだもん。なんか仲がいいなって思ってさ」
すると二人揃って「「よくないっ!」」だって。
やっぱり、息ピッタリだ。
桂司とは一年の時、同じクラスだった。役員や席が近かったことが多く、今でもこうして仲良くしてくれている。
同じ学年の男子でも“美夜”と呼ぶのは彼くらいだろう。だからか、よく付き合ってると思われるが、そういった仲ではなかった。
でも、またこうやって桂司と一緒に何かをやれるのは素直に嬉しかった。
夕樹先生はあたしに言ったとおり、桂司の打ち合わせをあっという間に終わらせる。
桂司も「俺だけ早くね?」なんて言って不服そうな顔をしていた。時計を見ると、短い針がもうすぐ7時を指そうとしている。
桂司も同じように時計を見て「待っててやる」と言ってくれたが、夕樹先生がそれを止めた。
「左之倉、そうするとお前の帰りが遅くなる。海野は俺が責任持ってちゃんと家まで送るから心配しないで、さっさと帰れ」
夕樹先生がそう言うと、桂司は少しがっかりしたような顔をして荷物を片付けだした。
「ちぇっ、分かったよ。じゃあ美夜、また明日な。もしも帰り、先生に何かされそうになったら、すぐに連絡してこいよ」
「バカかお前はっ!俺がそんな男に見えるのかっ」
「見えるんだよっ。じゃあなっ!」
そう言うと、大きな声で笑いながら手を振り、足早に帰っていった。
「ったく、あの野郎。教師をなめてやがる。俺を何だと思ってんだ」
と一人憤慨してブツブツ言いながら、あたしが座って待っている隣の椅子に腰掛けた。
「と、悪い悪い。折角早く終わらせたのにな」
そう言いながら私が手にしていた用紙をサッと取り上げ、右手で持っていたペンをくるくる回しながら確認をしていった。
そんな仕草一つ一つが格好良い。みんながファンになるのも納得だ。
「海野は字がうまいから読みやすいな。左之倉の字なんて読めたもんじゃないぞ」
「そうかなぁ。男子にしてはまあまあな字を書くほうだと思うけど」
すると夕樹先生は「ふーん」と言いながら少し表情を険しくさせ、一瞬何かを考えてからあたしの方を向いた。
「なぁ、お前と左之倉、仲良さそうだけど、付き合ってるのか?」
「はぁ?」
夕樹先生までそんな事言うんだ。少しがっかりした。
あたしと桂司のやり取りを見て、何がどうなると、そういう発想が出てくるのだろう。
本当に付き合っているなら、さっきだって待っててもらって一緒に帰ったはず。
それとも、あたしたちのことを心配してくれているんだろうか。
どっちにしろ、夕樹先生からそんなことを言われたくはなかった。
「付き合ってないよ。一年の時一緒のクラスで席も近くてよく話したから、今でも仲がいいだけで……」
「そ、そうか……」
物事を何でもハッキリ言う夕樹先生にしては、なんとも歯切れの悪い返事だった。それに何だか怒ってるような顔をしている。
その後もしばらく夕樹先生の態度の変化が気になったけれど、あたしは敢えて聞くようなことはしなかった。
程なくすると確認作業が終わる。
「うん、よく出来てる。このまま進めていいぞ」
「良かったぁ。ありがとうございます」
あたしは用紙を受け取ると机の上でトントンと綺麗に整え、ファイルブックにしまった。
そして帰り支度を始めると、夕樹先生も教室の整理整頓を始めた。
帰り支度をしながら、あたしはどうしようか考えていた。
さっき夕樹先生は「責任持って送っていく」と言ってくれたが、この時間なら一人で帰れそうだ。
わざわざ夕樹先生の手間を増やすことはない。
「おいっ海野。ちょっと職員室寄ってくから、ここで待ってろ」
「あっ、先生いいよ。大丈夫、一人で帰れるから」
そう言って席を立ち、カバンを肩に掛けながらあいさつをした。
「じゃあ先生、今日も最後までありがとう。お先に失礼しまーすっ」
教室の出入り口近くにいる夕樹先生は何も言わない。
うん?と思いながらも出入り口の近くまで歩いて行くと、開いていた扉を勢い良くバンッと閉められてしまった。
「なあ、もう外は真っ暗。帰り道で何かあったらお前どうすんだ」
「そ…そんなに心配しなくても。結構、明るい道ばかりだから」
手をひらひら振り、閉められたドアを開けようと手を伸ばす。
その手を夕樹先生がグッと掴んだ。
「俺が送ってくの嫌?」
夕樹先生の声がいつもと違う……。その手にドキッとする。
急にどう話していいか分からなくなった。
「え……えっと。そ…そ…その。嫌……じゃない……です。けど……」
「けど、なんだ?」
「わざわざ私なんか送っていくの、面倒じゃないかと思って……」
前に聞いた夕樹先生の家とあたしの家の方角は、確か逆方向だったはずだ。
忙しい夕樹先生を、こんな事で時間ロスさせては申し訳ない。
少し俯き加減にしていると、夕樹先生はあたしの頭の上に右手をポンっと乗せ、少しだけ乱暴に髪をくしゃくしゃと撫でながら、顔を覗き込んだ。
「海野、俺が送っていきたいんだけど」
その言葉であたしは、身体中の血液が一気に上昇するような感覚に襲われ、顔を真っ赤に染め上げた。
心臓がドキドキし過ぎて破裂しちゃいそうだ。
「は……はい。よろしく……お願いします」
その返事に気を良くした夕樹先生は、あたしの頭に乗っている手をゆっくり頬まで下げ指先でスーッと撫でてから離した。
「職員室に行ってくる。ここで待ってろ」
職員室に向かう後ろ姿が見えなくなると、あたしは夕樹先生が撫でた頬に手を当てた。
(何だろう、この気持ち。嬉しい……)
そう、これがあたしの恋のはじまり……。
三年生になると、夕樹先生はあたしのクラスの担任になった。
夕樹先生が初めて教室に来た時は、跳び上がりたくなるほど嬉しかった。
そして、もっともっと近くにいたくて、決して自分からは名乗りをあげることはない“クラス委員長”に立候補してしまう。
七星や結花からは、「何で今更…」とか「美夜に務まるの?」なんて散々言われたけれど、
これしか方法が見つからなかったんだからしょうがない。
晴れてクラス委員長に選出されて大喜びしたのも束の間、思った以上に委員長としての仕事が多く、根を上げそうになったこともしばしば。でも、どんな時も夕樹先生が近くで見守ってくれたから頑張ることができた。
だから、それはそれで毎日が充実していて、すごく幸せだった。
しかし、どんなに頑張ったって所詮、あたしと夕樹先生は生徒と教師。
決して結ばれることはない。
それに気づいてしまったら、夕樹先生を想う気持ちをこれ以上大きくしてしまわないよう、胸の奥にそっとしまい込んだ。
そしてそんな想いのまま、卒業式の日を迎えてしまう。
胸の奥にしまった先生を想う気持ちは二度と表には出さない。
このまま学校と先生に別れを告げようと心に決めていた。
卒業式が終わると校庭では、写真を撮ったり別れを惜しんだりする光景が、あちらこちらに見えた。
それもひとときり終わると、あたしは少し離れた場所で、七星と結花を一人待っていた。
しばらくして誰かが肩をポンっと叩く。
七星たちだと思ったあたしは、「もう、遅いよっ!」そう言って頬をふくらませながら振り向いた。
「お前、なんて顔してんだ。」
そこに立っていたのは夕樹先生だった。
出来れば会いたくなかった。教室での別れが最後にしたかった。
せっかく気持ちの整理がついてたのに……。胸の奥のあの想いが顔を出してしまいそうだ。
「一人寂しく、こんなとこで何してるんだ?」
「……七星と結花、待ってんの」
「そうか……」
しばらく沈黙が続いた。何か喋ってよ……先生……。
この空気がいたたまれなくなって、あたしの方から口を開いた。
「先生、三年間ありがとうございました。先生との思い出、いっぱいできて嬉しかったよ」
「俺もそう思ってるよ。ありがとな」
告白することは諦めたあたしだったけれど、最後にこうして先生と話ができたのは、やっぱり嬉しい。
「なぁ、海野」
いきなり呼ばれてドキッとしてしまう。
「はい」
「お前はずっと変わらず今のままのお前でいろ。そして……待ってろ。いいな、絶対に待ってろ」
それだけ言うと、夕樹先生はその場からは去っていってしまった。
今の先生の言葉は何?
『待ってろ。絶対に待ってろ』
……何を待っていればいいんだろう。全く理解できない。
だけれどその言葉だけは、あたしの頭の中に深く刻み込まれていた。
あたしも知らないうちに……。