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似心

作者: 月島 真昼

 網谷高校の視聴覚室では一般生徒よりも一足早く校内新聞が配られていた。風季委員の集会の資料という名目だ。委員長の芳川は新聞部の部長もやっているのでよく校内新聞を資料代わりに刷ってくる。

 簡単に目を通すように言われ、僕は普段読まない小さい字を追う。野球部が四回戦を延長戦の末に制したことがページの半分に渡って長々と書かれていた。ピッチャーである東の力投とそれを支えたナインの活躍について、一人一人こと細かに書かれている。当然ざっとしか目を通さない。

 新聞を配り終えた芳川楓が普通の教室の物より背の低い教壇に立ち、小さく息を吸い込む。「いま読んで頂いた新聞に書かれていた通り、動物が殺害される被害がたくさん出ています」

 僕は慌てて裏面を見た。どこから入手したのか動物の死骸の写真が印刷されている。モノクロでなければトラウマになりそうな写真だ。腐っていて、肉がこそげ落ちている。教師に掲載の許可は取ったのだろうか。

 僕には周りの何人かが欠伸を噛み殺しているのがわかった。僕自身、教壇の上で熱弁を揮う芳川のそういうところはうざいと思う。

 風紀委員は去年までは特に何もしなくてよかった。生徒が生徒を取り締まるのはかなり無理がある。不公平が出ないための制度を、真面目に考えるような教師もいなかった。 僕は一年の時から風紀委員をやっている。仕事がない楽な委員だったからだ。が、今年になって委員長が芳川に変わってから、校内清掃や遅刻指導に力を入れ始めた。正直なところ面倒臭く感じている。他の委員も同じだろう。

「風紀委員会は町内の清掃と巡回に協力したいと考えています」

 だからそれに賛同する意見はまったく得られなかった。それでも芳川はごり押すし、この委員の担当の痩せた教師は芳川のことがお気に入りだからどれだけ反対の意見があろうと提案を通す。やる気のない生徒を引っ張るために押し付けるやり方をするのは仕方ない。だがそれはやってみて楽しい企画の話だ。風紀委員の人数は二十七人。一体この中の何人が参加するだろうか。

 僕はもう一度新聞に載った写真を見る。猫だった。両目がない。腐りやすく、皮膚に守られていないから最初に無くなるのだと何かで見た気がする。モノクロなのでわかりにくいが、代わりに黒い粒のような物が入っていた。蟻か、蛆だ。よくこんなものを配ったものだ。芳川は何を考えたのか。これを見れば動物がかわいそうとでも思って誰かが奮起するとでも思ったのか? だとすれば高校生らしいバカな勘違いだ。少なくとも僕には気持ち悪い以外の感情が浮かんでこない。

「今週の土曜日の午後一時、手の空いている人だけで構いません。正門前に集まってください。よろしくお願いします。それでは今日の集会を終わります」

 芳川は礼をして、教壇を教師に譲った。

 教師は「できるだけ参加ずるように。じゃあ解散」と適当に締める。大半の生徒は直ぐに視聴覚室を出た。僕は出なかった。芳川を待つためだ。教師が教壇の上の新聞に目を落とし、顔を青くしている。その他の資料を抱えて、芳川が教室を出る。背中から僕は声を掛けた。

「あれはまずくないか」

「新聞のこと?」

 自覚はあったようだ。僕は頷いて、彼女の隣に並ぶ。

「大丈夫。あれは風紀委員のところでしか配らないから。全校生徒に回すやつは、ちゃんと別の記事に差し替えてあるの」

 口端を少し吊り上げて歪に笑う。

「どうしてあんなことをしたんだ?」

「やってみたかったから。反応が見たかった。それだけ」

 まるで自慢しているような口調だった。芳川が犯人なのかなと何気なく思う。写真の入手経路。意味もないのに誇るように腐った猫を載せる。誰かに自分のしたことを評価して欲しいように見えた。

「芳川さん!」

 振り向くと教師が元々不健康そうな顔を更に血色悪くしていた。例の新聞を広げる。

「これはさすがにまずい。表面だけでいいから、別の記事に差し替えるように。最悪白紙でも構わないから」

「そうなんですか? すいません。すぐに取り掛かります」

 芳川は悪意なんかまったくなかったという風に取り繕う。僕は自分が表面だと思っていた野球記事が裏面だったことに驚く。

「いや、わかってくれたらいいんだけどね。新しいのができたら、一度私のところへ持って来るように」

 痩せた教師は僕と芳川を追い抜き階段を降りていく。足音は充分に遠ざかってから芳川はにっこり微笑んだ。

「お咎めもこの程度かなぁ、ってなんとなく思ってたから」

 自分が同じことをすればこっぴどく怒られる気がする。優等生と劣等生の違いを見たようで嫌な気分になった。芳川が歩き出す。新聞部の部室や職員室ではなく、下駄箱のほうへ。

「新聞、持って行かなくていのか」

「明日の朝でいい。面倒だし」

 あの教師が嫌いだから先延ばしにしたいのかもしれない。

「風紀委員ってさ、嫌な感じだよね」

「そうだな」

 芳川が委員長になってから余計に、と言いかけて飲み込む。

「私さ、実は嫌がらせするために委員長になったんだ」

「誰に?」

「学校中に」

「そんなに学校嫌いだったのか」

「うん。嫌い。すごく嫌い」

 どこまで本気がわからない。芳川が中学二年生の頃、学校に来ずに引きこもっていたことは知っている。だけど学年が一つ違ったのでその原因についてはわからなかったし、あまり興味もなかった。三年になってからは普通に学校来るようになった。そういう時期だったのかなといい加減に納得していた。

きっとあのとき何かあったんだろう。

「ねえ、巻田は生きてて楽しい?」

「楽しいよ、毎日とてもとても充実してる」

 いい加減に答える。

「私は楽しくないかな」

「そう」

 毎日が楽しくない優等生のストレスのはけ口として、動物が殺される。捕まるはずのない犯人を追って町を巡回する。嫌いで嫌いで仕方ない学校の生徒を使って。

 ありそうな気がした。

 だからといって別に何かをしようしない。ただ土曜日の午後六時には自分は正門前にいるのだろう。

 僕と芳川は家が隣だ。幼稚園に上がる前からの付き合いだ。

 だから芳川は僕の母親が離婚こそしていないものの、家を出て行ったことを知っている。僕も芳川の父親がパチンコ狂いで少なくない額の借金があることを知っている。

「それじゃあまた明日」

「ああ、うん。また明日」

 芳川が玄関の鍵を開けるのを見ていた。家には誰もいないのだろう。それは僕も同じだ。僕の家もいつからか空っぽだ。

「……あれ?」

 家の鍵は開いていた。強盗かもしれない。決め付けるのも早計だと思いながら、音を立てないようにドアを開けて、隙間の体を滑り込ませる。玄関には知った靴と知らない靴がある。たまたま父親が友人を連れて早く帰ってきただけかもしれない。昔は若い頃バンドをやっていた仲間を連れてくることがあった。それにしては知らない靴は少し小さい気もした。女物にも見える。 玄関から右手の和室で、薄く開いた扉から男女が裸で抱き合っているのが見えた。男は僕の父親で、女は芳川の母親だった。僕は制服と学生鞄の格好のまま、足音を立てないように外に出た。時間を潰そうと思い、行くあてなく歩き出す。何気なく近くにある公園に入る。時計台が指す時刻は六時半。夕焼けが浅く街を焼いていた。

 ……父が浮気していることには以前から気がついていた。父は煙草を吸わない。何度か灰皿に吸殻が乗っていた。決定的だったのはゴミ箱から使用済みのコンドームを見つけたことだ。他のゴミで隠れていたが、うっかり足に引っ掛けて倒してしまった。母親と、のはずがないからきっと浮気に違いないと思っていた。相手が芳川の母親だったことは知らなかったけれど。

 木陰になっているベンチに腰を下ろす。最後に公園に入ったのは何年前だったか思い出そうとする。できなかった。記憶が蘇ってこない。本当にここが昔、友達と遊んだ公園なのか疑う。あの頃はもっと狭かったように思った。それはきっとシーソーやジャングムジムが撤去されたせいだ。いまの公園にも残っているような鉄棒やブランコは、ここには元からなかった。今はただ何もない空間が広がっている。

 溜め息を一つ吐いた。

 疲れている。疲れるようなことは特にしていないのに。授業を受けて、風紀委員の集会に出て、帰って来ただけだ。いつもと変わらない。想像していた事実を突きつけられただけ。なのに体に力が入らなかった。

 ベンチに腰掛けたまま雲が流れていくのを見ていた。時間がゆっくりすぎていく。早く家に帰りたい。でもまだ十五分も経っていない。七時までは待とうと思った。そのうち目を開けているのもだるくなったので閉じた。眠たいわけでもない。いなくなりたかった。

 暗闇に飽きたので目を開ける。時計は六時五十分を指している。

 まだ七時にはなっていないけれど様子を見に戻る。

 玄関を開けるとサイズの小さいほうの靴がなかった。

「おかえり」

 父親が口の中の物を飲み込んで言う。スーパーで買ってきたらしい弁当を食べている。ほんのついさっきまで芳川の母親の唇を貪っていた口で。

「ただいま。ご飯はあとで食べるからおいといて」

「わかった」

 階段を登って二階にある自分の部屋に入る。小学生に上がったときに買ってもらった勉強机とベッドと本棚があるだけの部屋だ。パソコン、テレビ、MDプレーヤー、僕は同級生が興味のあるもののほとんどを持っていない。本棚にコミックが数冊並んでいる程度だ。ベッドに横になる。寒い気がして毛布を被る。眠くはなかったが、欠伸をしたので涙がこぼれた。

 横になったまま三十分ほど何もせず過ごして、一階に降りた。父親はリビングにはいない。和室のほうで眠っている。弁当を広げる。五百円のシールが貼ってある。焼き魚に箸をつける。値段に見合う味はしなかった。半分ほど残っている空き箱をゴミ箱に放り、風呂場に入った。溜まっていた湯を抜く。父親が入ったかもしれない湯につかりたくなかった。改めて湯を溜める。

 僕は風呂が好きだ。自分の体に溜まった汚い何かを流してくれる。表面的な汚れではない。胸の奥のほうに溜まったどろどろとしたものが溶けていくような感じがする。落ち着く。だが今日は浴槽に芳川の母親の何かが混ざっているような気がして、ゆっくり入る気にはなれなかった。これからも続くかもしれない。また一つ好きな物がなくなった。

 髪と体を洗って、直ぐに風呂を出た。体を拭いて、服を着て、歯ブラシを取る。洗面台の鏡の向こうにはひどい顔をした自分がいる。目の下に隈がある。無理矢理笑みを作ろうとして失敗する。気分を変えたかった。だけどどうすれば変えれるのか、わからなかった。歯磨き粉をつけて歯を磨く。それが終わって、自分の部屋に戻る。何もしたくなかったので、横になった。夢は見なかった。

 

 翌朝になって目を覚ます。七時十五分。珍しく少し寝坊した。

朝食は食べない。冷蔵庫の中に物がないからだ。アイスコーヒーだけを飲む。あまり美味しくはない。母親がいた頃は食べていた。歯車が一つ二つ狂っている。それでも順応できているとまるで母親という要素が自分にとって不要だったような錯覚に陥る。そのうち錯覚だとさえ思わなくなる気がして恐い。

 鏡を見て寝癖を直し、歯を磨いて、制服に着替えた。家を出る。陽射しが目を刺す。風は冷たく乾いていて、朝の匂いを掻き消す。雲一つない晴れだった。

 通い慣れた通学路を早足で歩く。公園を横目に見る。

 急いだせいか学校に着いたのはいつもより少し早かった。門から左手のグランドでは快進撃中の野球部が朝練に勤しんでいる。去年どこまでいったのか思い出そうとしたが、できなかった。大したことなかったからかもしれない。

 入って直ぐの所にある下駄箱で指定の靴に履き替え、一階の職員室の脇を通り抜けて階段を登る。踊り場で誰かが殴られていた。無視して通る。芳川なら何かやるのかなと考えながらあまりクラスメイトの来ていない教室に入る。カバンを置いて長針と短針がゆっくり動いていくのを眺めた。

 クラスにはたくさんの人間がいる。

 調子のいいやつ。空気の読めるやつ。プライドが高いやつ。つまらないやつ。自分を見せるのがうまいやつ。

 自分がどれなのかわからなかった。確かなのは僕と話すクラスメイトはほどんどいないということだけだ。一人は嫌いではない。ただ長く続けば寂しい。だが裏を返せば一人の弊害は、その程度だった。

 時間が過ぎるにつれて人が増える。少しずつ教室は騒がしくなっていく。

 調子のいいやつ。空気の読めるやつ。プライドの高いやつ。つまらないやつ。自分を見せるのがうまいやつ。

 みんなそれなりに妥協し輪を作っている。少なくとも全員自分よりはましな気がした。

 教師が入ってきて聞き取り辛い声で挨拶をする。例の新聞を一番前の席のやつに配る。表面から死体の写真は消え、代わりに文芸部の作品紹介が載っている。序文の何行かが書かれていたが、特に興味を惹かれなかったので途中で丸めて鞄に放り込んだ。だいたいの生徒が同じようにしている。

 担任が部屋を出て喧騒が戻り、一限を担当する教師が入ってきてまた収まる。

 人間はまるで波のようだった。小さい波は大きな波に浚われて消える。大きな波は浜に打ち付けて自分を終わらせる。そして結局、何も残らない。

 古典の教師は昔の偉い人が書いた詩について語っている。その高説を聞いている人間は少ない。それでも教師は話し続ける。これが自分の存在意義だとでも言いたげに。黒板に向けて手を動かしながら話すその背中は、なんとなく「お前たち、先生にだけはなるな」と寂しげに訴えているように見えた。

 そんな調子で四限の授業が終わり昼休みになる。何も持って来ていなかったが、学食で一人で食べるのが惨めな気がして昼を抜いて屋上で過ごすことを決める。

 せっかく開け放されているのに屋上は生徒に人気がない。ほとんど手入れがされずに、コケと錆に覆われていて不潔な感じがするからだ。だから今日も誰もいない、と僕は考えていた。 軋むドアを開けて直ぐに目が合った。利発そうな顔つきに青あざをくっつけた男が、フェンスに背中をつけて座り込んでいた。どこかで見たことがあると思ったが、思い出せない。二年ではない。年下でもない感じがする。多分三年生だ。

 僕は彼を気にしないことにした。グランド側のフェンスから運動場を眺める。フットサルをやっている。風は冷たくとも気温は低くない。それなりに汗も流れるはずだ。表情は遠くて見えなかったが、楽しそうなのが一人一人の動きでわかった。その場限りでも彼らは生き生きしていた。羨ましいなと思う。

「もしもし」

 三年生のほうを見る。

「君は俺がここから飛び降りるといえば止めるかい?」

「僕が言って飛び降りるのをやめるなら、止めるよ」

「なるほど、ありがとう」

 彼はフェンスによじ登った。向こう側に立ち、フェンスから両手を離す。

「やめといたら」

「……そうだな。やめておくよ」

 彼はまたフェンスによじ登り、こちら側に戻ってきた。小さく会釈し、屋上から出て行く。

 僕は彼と同じようにしてみた。フェンスを乗り越えて向こう側に立つ。両手を離す。ほとんど宙空に浮かんだ自分の体はひどく不安定で、強い風でも吹けばすぐさま真下の地面に逆さまに落ちていくはずだ。誰もこちらを見ていなかった。

 僕はフェンスをよじ登って、屋上を出た。丁度その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 学校帰りに芳川に会った。方向が同じだからそう珍しいことではない。お互いに一人だった。僕のほうはだいたい一人だが、芳川は友達と帰ることが多いのでその日はたまたまだったんだろう。

「なぁ、芳川」

「何?」

「中二の時に何があったのか訊いていい?」

 芳川はしばらく躊躇ったあと、頷いた。

「夢が壊された」

 と、芳川は言った。

「私は先生になりたかった。中学一年のときの担任の先生がすごく優しくていい人で、憧れていた。二年になっても引き続きその先生が担任で、私はすごく嬉しかった。その先生が、授業妨害と中傷で先生を辞めた。それで、目標もないのに勉強するのが嫌になって、学校にいかなくなった」

「へえ」


「だから学校が嫌い。そこに通ってる生徒が嫌い」

「どうしてまた行くようになったんだ?」

「親に言われたから。最低でも大学は出ておけ、って。自分達があんななのに笑っちゃうよね」

「自分達があんなだから言ってるんじゃないのか」

「そうかも」

 多分、違う。芳川は多分大学にあがればアルバイトを始める。授業とアルバイトで家に娘のいない時間が増える。自分達の後ろめたくない時間が増える。

「でも楽しいこともあるよ」

「例えば?」

「彼氏ができた」

 ズキリと、胸の奥が痛んだ。

「同じクラスで奥村くんっていう人。まだ付き合うってよくわかんないけど、いまのところいい感じ」

 ああ、僕は芳川のことが結構好きだったんだなと今更のように気づく。

 唯一自分が持っていた人脈がぷっつりと途切れた感じがした。実際にはそんなことはない。芳川は僕の隣にいる。二人の関係は昨日までと。ついさっきまでと何も変わっていない。なのに彼女はもう手に入らないんだと自覚すると、分厚い壁を一枚隔てたような疎外感が包む。

 何かを言おうと思ったが、結局何も切り出せずに家の前まできてしまう。

「じゃあ、バイバイ。よかったら明日の清掃と巡回、付き合ってよ」

「気が向いたらいくよ」

 今日は鍵が掛かっていた。父親は留守のようだ。どうやら二人がいない間に母親のほうがきたらしい。リビングに置かれた離婚届が、恭しく鎮座していた。ボールペンがエスコートについている。


 土曜日は学校が休みだ。ゆっくり昼まで眠り、一時が近くなる。Tシャツの上にパーカーを羽織って家を出た。雨が降っていたので傘を差す。いつもの通学路は水で煙る。どこかへ急ぐ車が水溜まりを撥ね飛ばしていく。隅に避けたが、歩道までは届かなかった。

 校門前に人影は一つしかなかった。傘を差してゴミ袋を持った芳川しかいない。傍らに大きなスコップ二つがあるだけ。まだ時間にはなっていないけど、他は多分誰もこない。

「こんにちは」

「こんにちは」

 事務的な声を出したので事務的に返した。

「じゃあ、行きましょうか」

「待たないのか?」

「どうせこないでしょ」

 まるで僕だけはくると確信していたような口調で芳川は言った。芳川が先導して歩き出したので、それに続く。

 雨の降る街はひどく静かだった。人はいつもより少なく、時々車の音だけが空気を割っていく。水滴が傘を打つ音だけが耳に届く。

 十分ほど歩いた先にあったのは雑木林だった。

「芳川?」

 芳川は奥に入っていく。人が入れる程度に整備はされていたが、獣道には変わりはない。ぬかるんだ感触のする地面は歩き辛い。水が靴を濡らす。靴下の中にまで染み込んできて不快だった。

「さあ、片付けよっか」

 芳川は死骸の前で立ち止まった。照れ隠しのような口調だった。バカなんじゃないかと思う。尋常な数ではない。犬や猫、鼬。人里で見かけるような動物は大抵血を流して死んでいる。腐っているものも多い。蝿が黒い渦を作っている。

「驚かないね」

「驚かないよ」

 スコップを手渡され、ゴミ袋にそれを一匹ずつ移す。両手を使うので肩と首の間に傘を挟んでいたが、面倒になって途中で雨が降るのに任せた。

 スコップと死骸の間から蛆がぽろぽろと零れ落ちる。腐臭のする肉が胴体から剥がれて骨が顕になる。住家を奪われた蝿の集団が乱舞する。

 隣で芳川は穴を掘っていた。埋めるための穴だ。相当深くなければいけない。僕と同じように傘を捨てて掘っている。三つ目のゴミ袋が満杯になって、ようやく死体の山が無くなる。僕も穴を掘るのを手伝った。

 必要な深さまで掘ったときには全身に疲労感が満ちていた。袋を三つ放り込む。これからまだ埋める作業があると思うとかなり憂鬱だった。気分を紛らすために声を掛けてみる。

「どうやって殺したんだ」

「煙草からニコチンを抽出して餌に混ぜた。あれって青酸カリより強い毒だからね」

「よく人間って煙草なんか吸って生きてるよな」

「ほんとだね。……煙草の話で思い出したんだけど、昨日さ、先生の話したじゃない?」

「ああ、してたな」

「一年のときさ、私、喘息だったんだよね。ちょっとひどくて授業中に咳が止まらなくなることとかあったんだ。そんなときあの先生がすごく優しくしてくれた」

「いい先生だったんだな」

「うん。そんなときでも母さんは煙草やめてくれなかったんだよね」

「そうか」

「何回やめてって言っても、やめるやめるって口だけでさ。あれって私が苦しんでるのを見て楽しんでたのかなぁ」

「……そうか」

 すっかり土を被せ終わり、茶色の山を叩いて固める。二人ともずぶ濡れだった。

「付き合ってくれてありがとう」

「やめるのか?」

「うん。もう殺さない」

 芳川は笑った。それは自然な笑みじゃなくて、痛みを堪えるために、誤魔化すために笑おうとしたのが癖になったような歪な表情だった。でも、だからこそとてもきれいだった。僕はどうしようもなく心が粟立つのを感じる。この笑顔が誰かの物になるのが嫌だった。心臓が痛みを訴える。心は胸にあるんだと最初に思った人はきっと失恋をしたんだろう。

「本日の風紀委員会の活動はこれにて終了です。お疲れ様でした」

「僕以外の誰かがきたらどうするつもりだったんだ?」

「普通に町内の巡回と公園の清掃。天気予報で今日は雨だってわかってたから、君以外はこないと思ってたけど」

「なんで一人でやらなかったんだ?」

「なんとなく。多分誰かに知って欲しかったから」

 付き合っている奥村って人と違って、自分なら引かれても問題ないと思った。のかな。

「じゃあ私はスコップとゴミ袋を学校に返しにいかないといけないから、これで」

「ああ、ばいばい」

 後姿を見送ると急に体が冷え込んだ気がした。泥と雨と汗にまみれた体を引き摺る。傘は差さない。どうせ一緒だ。

「俺、何をしてるんだろ」

 他人の彼女が撒き散らした死骸を掃除していたかと思うと、急に虚しさが込み上げてきた。足を動かす。帰ろうと思った。

 十分かそこらの道のりがひたすら遠く感じた。家に帰って、シャワーを浴びる。冷えた体に熱を灯す。ざあざあざあと、耳元で跳ねる水音が不快だった。

 次の日は風邪を引いて午後まで寝込んでいた。窓の外でエンジン音が低く唸った。父は仕事のはずだから母が帰ってきたのか。離婚届けのことかもしれない。僕は反応しないことを決めた。玄関が開く。

「真一。いるの?」

 布団を被って返事をしない。しばらく黙っていたが、どうやら出て行く気配はなさそうだった。そのうち僕は眠ってしまった。

 目を覚ました頃には暗くなっていた。自分の体が思っているよりずっと疲れていたことを自覚する。頭が痛かった。空腹感もある。何か食べて、薬を飲もうと思い、ふらつきながら階段を降りる。リビングを開けた。ツンと鉄の匂いがした。母親が刺されて床に転がっていた。父親がその横で力なく呆けている。僕に気づいて、首がこちらに向いた。

「お前らのせいで俺の人生めちゃくちゃだ……」

 そして持っていた包丁で自分の喉を突いた。頚動脈を傷つけたようで勢いよく血が飛んでいく。僕の顔を飛沫が掠める。あとでシャワーを浴びて落とそうと思う。

 冷蔵庫を開けた。冷凍食品のうどんがあったので暖めて食べた。唇に血が垂れる。そのまま舐めとる。うどんとは合わないなと思った。食べ終わって薬を飲み、自分の布団をベッドから剥ぎ取ってリビングまで降ろした。それからシャワーを浴びて着替えると、久々の一家団欒を楽しんで眠った。


 起きたときには八時を回っていた。体は軽い。風邪は一日休んだらよくなったようだ。遅刻で構わないから学校に行こうと思う。血の匂いが染みていたのでシャワーを浴びた。制服に着替えて冷蔵庫からアイスコーヒーを注ぎ、飲む。一昨日より美味しい気がする。カバンを持ち、玄関を出ようとしたが、一度リビングに戻った。

「父さん、母さん、行ってきます」

 玄関を出た。空は曇っていて灰色だった。

 校内に入る。職員室の前に野球部の試合結果が貼り出されていた。強豪高と当たり、十三対零でコールドゲームになり負けている。

 教室のドアを開けると視線が集中する。けれど直ぐに散る。僕は席につく。教師も特に何も言わずに授業を続けた。

 何も変わらない。

 あたりまえだ。

 まだ誰も、僕の家に両親の死体があることなんて気づいてはいない。野球部の敗北なんて大抵の人間は興味がない。自分にとっては劇的な変化なのに、周囲にとっては何の影響も起こしていないのがなんだかおかしかった。

 お前らのせいで俺の人生めちゃくちゃだ。と言った父親の気持ちを考えてみる。父は仕事人間だった。家庭をある程度顧みず一日の大半を会社で過ごした。暴力こそたまにしか奮わなかったが、ストレスを家で発散することもあった。僕が高校生に上がる頃に、母親が耐え切れなくなった。多分不倫はそのあとだ。母はそれを知っていたのではないか。父の会社に不倫のことを教えればどうなるか。会社のことはよくわからないが、問題のある人間はとりあえずクビを切っておくくらいはあったかもしれない。父は文字通り首を切ったわけだが。

 四限目が終わって、昼休みは屋上に行く。

 あの三年生が今日もいた。

「こんにちは」

「こんにちは」

 グランドを見下ろす。サッカー部は今日も元気に走り回っている。

「君の名前を教えてもらえるかい? 興味があるんだけど」

「巻田真一です。あなたは」

「奥村だ」

「奥村さん、ですか」

「俺がここから飛び降りると言えば巻田くんは止めるか」

「いいえ、止めません。飛びましょう。あなたはそうするべきだ」

「ありがとう。俺は誰かがそう言ってくれるのを待っていたんだ。じゃあ、さようなら」

 フェンスをよじ登り、向こう側に立つと目を閉じて体を前に倒した。飛び降りた。頭から真っ直ぐ落ちていった。死んだかもしれない。僕は誰にも見つからないように屋上を抜け出す。

 これで芳川は自分の物になるだろうか。

 まだチャイムは鳴っていなかったが、階段を降りて教室に戻った。どうでもいいなと少し思った。





 遅れてすいません。そして三十枚をまたまた守ってなくてすいません。そのうち帳尻合わせますorz

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