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Short Short Circuit

毛だまり

作者: 境康隆

 猫は逆らったりしない。そんな理由で女はいつも殴られる。

 何時ここに連れられてきたのか。何故自分が連れてこられたのか。

 そんなことは女には分からない。

 殴られ、口を防がれ、羽交い締めにされて、連れてこられた。

 裸で放り込まれたのは人気のない工場跡だ。

 女を連れ去った男は、女を猫だと言う。

 違うと言う度に殴られ、帰してと言う毎に蹴られた。

 世間から断絶した時間が、女の身に流れるようになった。

 誰の助けもこない。

 誰にも気付いてもらえない。

 女は男に罵声を浴びせ、時に救いを求める。

 男はその度にその女を殴る。

 お前は猫だ。俺が拾ってきた猫だと。女が人語を話す度に殴る。

 女が人間らしい仕草をする度に殴る。そして蹴る。暴力の限りを尽くす。

 女はそれでも助けを求める。

 男がいぬ間に女は助けを求める。たが見捨てられた土地なのか、誰の耳にも届かない。

 廃工場と思しき一角で、女が声を上げても誰の耳に届かない。

 猫は助けなど求めない。

 いつの間に戻ってきた男は、そう言って女を殴る。

 お前は猫だ。俺が飼いたかった猫だ。俺はやっと猫を手に入れたんだ。

 女が歯向かう度に、その髪を掴み上げて男は言った。



 女は殴られる度に抵抗する気力を失う。男のなすがままに身をまかせ、人間らしい尊厳を失っていく。

 身の回りのこともままならない。服など着せられない。化粧など考えられもしない。

 食事はもちろん猫のエサだ。入浴は猫を扱うかのように男が女の体を乱暴に洗った。

 卑屈に背は曲がり、髪は伸びるがままだ。

 だが男はそれが気に入ったらしい。猫背の女の長い髪を愛しげに櫛で梳くった。

 猫だ猫だと男は喜ぶ。

 こうやって、猫の丸い背中を櫛で梳いてやるのが夢だったと、男は女の髪を梳く。

 女はもはや抗わない。猫の声のように鳴いて応え、猫の身のように四肢を曲げて媚を売る。

 猫に成り切る為に皿すら舐めた。女は食事すら自分から精一杯舌を伸ばして猫の真似をする。

 髪が伸びた今は、体を捻ってその髪を舐めて整えてもみせる。猫が己の毛繕いをそうするようにだ。

 男も舐めてやる。男のご機嫌を取る為にそこら中を舐めてやる。猫が時折飼い主にするようにだ。

 猫の舌はもっとざらついていると、男は最初不機嫌だった。だが正に猫なで声で女は媚を売り、男はそのことを責めなくなった。

 男の暴力は女の無力とともに少しずつ減っていった。それは偏に女の努力だった。少しでも油断して人間らしい仕草を見せれば途端に男の暴力に女は曝される。

 殺してやりたい――

 女はそう思う。だが女の細腕ではどうすることもできない。

 せめて紐状のものでもあればと女は男の首を舐めながら思う。

 だが今日も自分は猫だと言い聞かせ、女は猫のエサを舐め、己の髪を舐め、男の体を舐めて生き延びた。



 男は財力があるのか、女を監禁したまま片時も側を離れなかった。

 今も男は無邪気に女の隣で寝ている。満ち足りた顔だ。このような奇行しているとは思えない安らかな寝顔だ。

 男は時に優しい顔を見せる。もちろんそれは女がきちんと猫に成り切っている時にだけ見せる優しさだ。

 本気で女を猫だと思い込んでいるのかもしれない。

 少しでも人間らしいところを見せると途端に殴られた。もはやこの男は女を自由にする気などないようだ。

 何処までも――そうそれこそ女が死ぬまでも猫として扱うのだろう。もしかしたら、女が死んでも猫が死んだと悲しむだけかもしれない。

 そして女は、男が動物霊園に己の死体を持ち込む様を想像して――



 女は吐いた。

 己の運命を考えて吐いた。

 そう、女は毛玉を吐き出した。毛だまりだ。

 猫の振りをする為に、懸命に舐めていた自身の髪の毛でできた毛の固まりだ。

 その毛だまりが嘔吐とともに吐き出される。

 男は目を覚まさない。

 毛だまりすら吐き出せる程、猫になりきってやったのに、それを望んだ男は目を覚まさない。

 女は毛玉を吐き出す。嗚咽とともに、次々と吐き出す。

 男は目を覚まさない。

 女は己が吐き出した毛だまりを見た。

 女は胃液にまみれた毛玉を、己の指で解きほぐす。長い髪だ。随分と絡まっている。

 女は夢中で毛玉を解きほぐす。

 猫が毛玉で遊ぶように、背を丸め前足で懸命にそれを解きほぐす。

 男は目を覚まさない。

 女は解きほぐした己の毛を、男の首に巻きつけた。

 男の首を己の髪でくびる。ぐっとくびる。

 その時女が泣き笑いながら出した声は、

 にゃあ――

 今まで一番猫のような声だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「毛だまり」拝読しました。男の人に乱暴される女性がかわいそうでした。また、予想外のオチでした。それと悲しい物語だと思いました。  面白い作品をありがとうございましたm(__)m  これか…
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