婚約破棄の当てつけに冷徹公爵様を誘ったら、二曲目からは本気だと言われました
「その首飾りを、ヘレーネに譲ってくれないか」
婚約者の口からそんな頼みが出たので、私は青い石を押さえた。
アルテン侯爵夫人の夜会が始まって、まだ半刻も経っていない。迎えに来ると言ったオットーはなかなか現れず、ようやく見つけた時には、薄青のドレスを着たヘレーネ嬢を腕に伴っていた。
「彼女のドレスに合うだろう。君は家に帰れば、ほかにも持っているじゃないか」
「これは、あなたが私の誕生日にくださったものです」
「ああ、そうだったね。だから、僕から渡すのもおかしくないだろう?」
おかしい。どこもかしこもおかしいのに、すぐには言葉が出なかった。
二年前、箱を開けた私に、オットーは自分で石を選んだと言った。君の目の色に似ていると思って、と。嬉しくて、その夜は寝台の脇に置いて眠った。今日も、久しぶりに彼と踊れると思ってつけてきた。
「お譲りしたくありません」
「クラリッサ。たかが首飾りで、そんな顔をしなくても」
ヘレーネ嬢が彼の腕を引いた。
「私、無理にとは申しませんわ。ただ、とても綺麗だったから」
「大丈夫だよ。彼女は少し意地を張っているだけだ」
私の返事より、その方を安心させることが先なのね。
周りにいた人たちが話すのをやめていた。誰かがグラスを置く音まで聞こえ、今なら笑って差し出せば収まるのだと分かった。今までも、そうやって収めてきた。
「意地ではありません。大切にしていたんです。あなたが私に似合うと選んでくださったから」
「そうやって、いつまでも昔の話を持ち出す。君の嫉妬深さにはうんざりだ」
オットーは、わざと周囲へ聞かせるように声を張った。
「もういい。君との婚約は破棄する。そんな可愛げのない女と、これ以上付き合えない」
胸を押されたようで、息が止まった。
彼がほかの令嬢を褒めるたび、自分の何が足りないのか考えた。笑いすぎだと言われれば口元を隠し、乗馬に誘えば子供っぽいと嫌がられ、それからは彼の選んだ場所へ行った。それでも会える日は楽しみで、今日だって鏡の前に長く座っていた。
その私を、もういらないと言った。
首飾り一つも、私に残しておくのが惜しいほど。
「……承知しました。父と母にも、そう伝えます」
首の後ろへ手を回すと、留め金がなかなか外れなかった。手袋をした指が震える。こんなところを見られたくなくて、私は俯いたまま、もう一度指先で金具を探した。
ようやく外れた鎖を、オットーへ差し出す。
「お返しします」
「初めからそうしてくれればよかったんだよ」
彼は受け取り、私の顔を見るより先に青い石を確かめた。
あの夜、箱を抱えて笑った自分が、急にひどく可哀想になった。
「お譲りするのではありません。あなたにいただいた物を、もう身につけたくないんです」
今度こそ彼の手が止まった。何か言われる前に頭を下げ、私はその場を離れた。
母を探さなくては。帰りの馬車を呼んでもらって、部屋へ戻って、それからなら泣ける。そう思うのに、背中に残る視線が悔しかった。これで私は、振られて逃げ帰るだけなのだろうか。
広間の柱のそばに、黒い礼服の男性が立っていた。
レナート・ローゼンフェルト公爵。主催者の甥で、社交界では冷徹公爵と呼ばれている。愛想笑いをせず、気に入らない誘いはその場で断る。母と一緒に侯爵夫人のお茶会へ伺った時も、誰かの遠回しな縁談に、結婚する気はありません、ときっぱり答えていた。
今、あの方と踊れたら。
オットーが見ている前で、うつむかずに一曲踊って、それから帰れたら。
私は行き先を変えた。こちらを向いた公爵の灰色の目を見た途端、無謀なことをしていると分かったけれど、足を止めたらもう近づけない。
「ローゼンフェルト公爵様。一曲、私と踊っていただけませんか」
「ベルクマン嬢」
名前を覚えていてくださった。それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
「理由を伺っても?」
「……今、婚約を破棄されました」
彼の目が、私の後ろへ一度動く。
「拝見していました」
「でしたら、お分かりかもしれませんが、その、当てつけです。泣いて帰ると思われるのが、どうしても悔しくて」
口にしてしまうと、あまりにみっともない頼みだった。爵位の高い方を利用して、捨てた相手を見返したい。そんなことのために、ろくに親しくもない男性を誘っている。
「失礼なお願いなのは分かっています。一曲だけ、お付き合いくださいませんか」
公爵は私を見たまま、しばらく黙っていた。
断られたら、もう何も取り繕わずに帰ろう。そう覚悟を決めた時、彼の口元がわずかに緩んだ。
「ずいぶん正直に頼むんですね」
「ほかの理由を申し上げても、嘘になりますので」
「それは、ありがたい」
手が差し出された。白い手袋の上へ自分の指を重ねると、ようやく、自分がどれほど強く手を握りしめていたか分かった。
「一曲目は、お望みどおりに。ただ、二曲目からは本気です」
「本気?」
「あなたを口説くつもりで誘います。それでもよければ、また踊ってください」
顔を上げた。彼は、私の背後を見ていなかった。
「……今、そういうことをおっしゃるのですか」
「後から、まだ演技の続きだと思われると困りますから」
広間で楽団が奏で始めた。
さっきまで、どうやって涙をこらえるかしか考えていなかったのに、今はこの方の手を取ったままでいいのか、そればかり気になる。
「二曲目もお受けすると、まだお約束はできません」
「ええ。一曲で嫌になられないよう、努めます」
その返事が真面目だったので、私はとうとう小さく笑ってしまった。
踊りの輪へ入ると、周囲の顔がこちらへ向いた。公爵と手を取り合っている私を見て、少し離れたところのオットーが露骨に顔をしかめた。
胸の奥で、ざまあみなさい、と思った。思えたことが嬉しかった。
「お望みは叶いそうですか」
耳元に届くほどの声で尋ねられ、私は慌てて公爵へ目を戻した。
「はい。あの、ありがとうございます」
「もう少し肩の力を抜いても大丈夫です。私まで、試験を受けているような気がしてきた」
「私、そんなに?」
「私が踏み間違えるのを待っている伯母と、よく似た顔をしています」
驚いて侯爵夫人を探すと、本当にこちらをじっと見ていた。
目が合った途端、夫人がにこりと笑って小さく頷く。私はおかしくなり、笑った拍子に少し足が遅れた。公爵は自然に歩幅を変え、次の拍子で私を戻してくれた。
「今のは、私が悪かった」
「公爵様が笑わせるからです」
「次からは、もう少し踊りやすい話題にしましょう」
次があるように言われた。
その言葉を嬉しいと思った自分に気づいて、私はまた足元を忘れそうになった。
一曲が終わる頃には、胸の苦しさがいくらか和らいでいた。オットーがどんな顔をしているのか、途中から見ていなかった。
「もう一曲、と申し上げたいところですが。今夜は、お疲れでしょう」
「……はい。今日は帰りたいです」
「では、お母様のところまで」
二曲目を断ったら機嫌を悪くするのではないかと、どこかで身構えていた。けれど、差し出された腕を取ると、彼はそのまま母のいる場所へ歩き始めた。
途中でオットーが寄ってきたが、公爵は立ち止まらなかった。
「ベルクマン嬢をお送りしています。お話は後日に」
それだけで、オットーは道を空けた。さっきまでの大声が、嘘のように出なくなっていた。
母は事情を聞いて私を探していたらしく、駆け寄るようにこちらへ来た。大丈夫よ、と手を握られると、急に涙が出そうになる。
帰りの手配をしてくれる母の横で、私は公爵を見上げた。
「今夜は本当に、ありがとうございました」
「次にお会いするお願いをしてもいいですか。婚約のお話が正式に済んでから」
私はすぐに頷きかけ、一度、彼の顔を見た。
オットーがこちらを見ているか、確かめなかった。次は、この方のお話をもっと聞きたかった。
「はい。お待ちしています」
公爵の笑みが、さっきよりもはっきりした。
馬車に乗ってから、私は母の肩に顔を寄せて泣いた。けれど、帰る前に交わしたあの返事だけは、思い出すと少し嬉しかった。
* * *
翌日、婚約は両家の話し合いで正式に解消された。
ヴァルツ伯爵夫妻からは謝罪があったという。父は私にやり直す気がないことを確かめ、それを先方へ伝えてくれた。母は、返したくなかったら首飾りなど返さなくてもよかったのよ、とまだ怒っていた。
「あれは、返したかったの」
そう答えて、自分で驚いた。昨日の朝までは、誰にも触らせたくないほど大切だったのに。
なくなった首元へ手が行くことはあった。それでも、母がほかの首飾りを出してくれようとすると、今は何もつけたくないと答えられた。
その二日後、公爵から手紙が届いた。
改めて会いたいという言葉の後に、次の休日の誘いが書いてある。侯爵夫人と母も交えて、郊外へ出かけないか。馬車での散策でも、乗馬でも、私の好みに合わせたい、と。
乗馬なら、しばらくしていなかった。
遠出する令嬢は落ち着きがないとオットーに言われてから、屋敷の近くで済ませていたのだ。私はその場で便箋を出し、乗馬がしたいと書いた。書き終えてから、公爵に対してずいぶん遠慮のない返事になっていないか、母に見てもらった。
「どちらがいいか聞いてくださったんでしょう。楽しみだと書き添えたら、それでいいわ」
母の言うとおりにした。
返事を渡した後も、当日の天気が気になって、日に何度も窓の外を見てしまった。
* * *
約束の日、公爵は馬上から私の乗馬服を褒めてくれた。深緑の上着も、腰で絞った形も気に入っていたので、私は嬉しくなった。
母たちは馬車で先に湖畔の休憩所へ向かい、私たちは従者を伴って、花の咲く道をゆっくり進んだ。
「次の侯爵夫人の夜会にも、オットーは来るそうです」
話題を探すうちに、つい口にしてしまった。
「何か言われたら、今度こそちゃんと言い返せるように考えておこうと思って」
「次の夜会まで、あの男の返事を練習するんですか」
「……そのつもりでした」
「私には、それより教えてほしいことがあります」
公爵の目が、道の先へ向いた。
「あの花は何でしょう。伯母が毎年、ここへ見に来たがるんです。名前を聞いたはずなのに忘れた」
「金雀枝ですわ。昔、私も母に連れられて来ました。あちらへ回ると、丘が全部黄色く見えるんです」
口にした途端、その景色を見たくなった。公爵に尋ねると、ぜひ、と馬の向きを変えてくれる。
丘のふもとまで来た私は、思わず声を上げた。道から見えた何本かの花どころではない。緑の斜面を、明るい黄色が埋めていた。
「こんなにたくさん咲いているのね!」
「来てよかった」
公爵も花を見ていた。その横顔を確かめてから、私はもう一度丘を見上げた。
誰かを悔しがらせる相談をするために、ここへ来たのではなかった。この景色を見て、一緒に喜びたかったのだ。
湖畔で馬を従者に預けると、休憩所では母と侯爵夫人がお茶を飲んでいた。私たちも喉を潤し、それから、母たちの姿が見える岸辺を少し歩いた。
水際には平たい石が落ちていた。靴先で踏みそうになった一枚を見つけ、私は腰をかがめかけた。
「何かありましたか」
「水切りに、ちょうどよさそうな石だったので。子供の頃、兄と競争したんです」
公爵が屈んで、その石を拾い上げた。
「こういうので?」
「はい。軽すぎると飛ばないし、厚いとすぐ沈んでしまうから」
答えてから、また遊びの話をしてしまったと思った。けれど、公爵は手袋を外して上着のポケットへ入れると、その石を水へ投げた。
ぽちゃん、と一度だけ音がした。
「……今のは、試しです」
横顔はひどく真面目だった。
笑ってはいけないと思うほど可笑しくなり、私は唇を噛んだ。公爵はこちらを見て、小さく息を吐く。
「笑うのを我慢される方が、つらいですね」
「申し訳ありません。でも、ずいぶん綺麗に沈みましたから」
「そこは褒めていただかなくても」
もうこらえられなかった。声を立てて笑うと、彼まで笑った。
私は自分の手袋をポケットへしまい、別の石を拾った。低い姿勢から放ると、石は二度、三度と水面を跳ねた。
「四回!」
思わず振り返ると、公爵は水面の輪を数えていた。
「なるほど。投げる角度が違ったのか。もう一度、見せてもらえますか」
「今度は手元を見ていてください。腕だけで押し出すと、沈んでしまいます」
身振りを交えて説明すると、彼はそのとおりにやってみた。次の石は一度だけ跳ねて、それから沈んだ。
たった一度なのに、私は自分が成功した時より嬉しくなった。
「今、跳ねました!」
「ええ。ようやく一回」
公爵も嬉しそうだった。そこへ侯爵夫人が、帰る前にお菓子を食べていきなさいと呼びかけた。
「あと一投だけ」
「レナート。お茶がすっかり冷めてしまうわよ」
彼が困った顔で私を見たので、また笑ってしまった。私だって、もう少し遊びたかった。
結局、私は彼のために薄い石を一枚選び、これで最後と渡した。その石は二回跳ねた。帰り道には、どうすれば三回になるかを二人で話した。
屋敷へ戻ると、乗馬服の裾に泥が跳ねていた。着替えを手伝ってくれた侍女に、水辺で遊んでしまったのと詫びながら、また行く時にも同じ服を出してほしいと頼んだ。
* * *
次の週、我が家へ来た公爵は、お茶を一口飲んだところで言った。
「四回になりました」
「何がですか?」
聞き返してから、あ、と私は顔を上げた。
「水切り?」
「昨日、ようやく。あなたに追いついたと言うために、ずいぶん石を沈めました」
「練習していらしたんですか」
「うちの池で練習していたら、伯母に、庭師を困らせるなと言われました」
庭で真剣な顔をして石を選ぶ公爵を思い浮かべると、胸が温かくなった。
私だけではなかった。あの日のことを、彼も帰ってから思い出していたのだ。
「次は、五回を目指さなくてはいけませんね」
「一緒に行ってくださいますか」
「はい。今度は私も負けたくありません」
返事をすると、彼は満足そうに笑った。
母が少し離れた席で読む本をめくり、庭では侍女が花を切っている。何も特別なことは起きていない午後なのに、いつまでも終わってほしくなかった。
それでも、伝えておかなければならないことがあった。
「レナート様。オットーから、手紙が来たんです」
初めて名前で呼んだのに、続きに別の男の名を出してしまった。けれど、公爵はカップを置き、私の言葉を待ってくれた。
「公爵様とのことは、当てつけだと分かっている。もう十分だから、意地を張るのをやめよう、と」
「あなたが戻ると信じているんですね」
「戻りません。返事も出していません。ただ、私が最初にあんなお願いをしたので、レナート様にまで、ご迷惑がかかるのではないかと」
彼は少し考えた後で、私に尋ねた。
「私が今ここにいるのも、まだ芝居だと思いますか」
「……いいえ」
そう答えたら、頬が熱くなった。
彼の訪問を待って朝から髪を整えた。お茶菓子は前の外出でおいしいと言っていたものを頼んだ。扉が開く音がすれば、彼かもしれないと思って顔を上げた。
「私も、あの夜だけのお礼でお招きしたのではありません。今日、お会いしたかったんです」
「よかった。石の話ばかりして、つまらない男だと思われたかと」
「そんなことはありません。もっと聞きたいです。何回投げて四回になったのかとか、侯爵夫人に何と言われたのかとか」
公爵は笑い、その後で、照れたように目を伏せた。
こんな顔もするのだ。見つけてしまったことが嬉しくて、私はますます彼から目を離せなくなった。
「あなたが楽しそうにしていると、次に会う時もそうしてほしくなる。水切りが四回できたと報告したくて、今日が待ち遠しかったんです」
私のために演技を続けてくれている方は、こんなことを言わない。
そう思うと、嬉しいのに、胸が苦しいほどどきどきした。
「来週の夜会で、また踊ってくださいませんか」
彼が尋ねた。あの夜から、三週間目の夜会になる。
「二曲目、ですか」
「ええ。ただ、返事はその日でもかまいません」
「では、その夜に、私からお返事をしてもいいですか」
彼が頷いてくれたので、私は密かに決めた。その夜は自分から、あなたと踊りたいと伝えよう。あの時のように悔しさに押されてではなく、この方に会えたのが嬉しいから。
公爵が帰った後、次の夜会のドレスをもう一度見にいった。
母に、何か足りないの、と尋ねられ、私は胸元の布を少し整えた。
「いいえ。これを着たら、どう思ってくださるかしらって」
母は笑った。私も照れながら、もう一度ドレスを広げた。
* * *
夜会の広間へ入ると、私はまずレナート様を探した。
まだいらしていないらしい。母の知人に挨拶をしながら、入口の扉が開くたびに目が行く。早く来てほしい。今夜の薔薇色のドレスを見て、最初に何と言ってくださるだろう。
「クラリッサ」
聞きたかった声ではなかった。
オットーが、少し離れたところからこちらへ来た。後ろにはヘレーネ嬢がいる。私は母の隣に立ったまま、会釈だけを返した。
「手紙は読んでくれたか」
「読みました」
「なら、もういいだろう。僕も、少し言いすぎたとは思っているんだ。君があの首飾りを大事にしていたのは分かった」
自分の言葉が届かなかった時の悔しさが、戻ってきた。
あの場で話したのに。誕生日にくださったから、大切にしていたと、ちゃんと言ったのに。
「それで、何のお話でしょうか」
「だから、やり直そうと言っている。公爵と踊って、僕を嫉妬させたかったんだろう。あの方がお相手では、僕も気にせずにはいられなかったよ」
まるで、困ったいたずらを褒めるような口ぶりだった。
私が馬に乗りたいと書いた手紙も、水辺で石を選んだ午後も、我が家の扉が開くのを待っていた時間も、全部この人の気を引くためにしたことにされる。
「最初の一曲は、当てつけでした」
母が私を見た。オットーは、ほら、と頷きかけた。
「泣いて帰るのが悔しくて、私からお願いしたんです。公爵様には、失礼な頼みを聞いていただきました」
「そうだろう。あの方は親切にしてくださっただけだ。いつまでも甘えていてはいけないよ」
私は首を横に振った。
「その後にお会いしたのは、私が会いたかったからです。次の約束が楽しみで、お誘いの手紙が来たら、嬉しくて。今夜も、あの方を待っています」
「……ずいぶん、その気になっているんだね」
オットーの笑いが消えた。
「相手は公爵だぞ。君は、頼まれれば誰にでも親切にする方を、本気にしているんじゃないのか」
「そう思うなら、お好きになさってください。あなたとは、もう結婚しません」
初めて、私は相手を納得させようとせずに答えた。
レナート様から何を言われたか、どんな顔で笑ってくれたか、オットーに並べて聞かせたくなかった。あの午後を大事に思ってくれる人と、話したかった。
「クラリッサ。結局、公爵家に嫁ぎたいだけじゃないか」
「違います」
その言葉だけは、聞き流せなかった。
「私を捨てたのはあなたです。ほかの方と楽しそうにしていたら、今度は惜しくなったんですか。あの夜、私が泣いて帰っていたら、今日も声をかけてくださいましたか」
彼はすぐには答えなかった。
その沈黙の間に、ヘレーネ嬢が近づいてきた。
「オットー様。私を今夜お連れになったのは、何のためですの?」
彼が振り返る。ヘレーネ嬢の声は細く震えていたが、顔は真っ赤だった。
「私に結婚のお話をなさったのは、昨日のことですわよね。その翌日に、私の前で別の方へ、やり直そうと?」
近くにいた人が、はっきりと眉をひそめた。オットーは周囲を見回し、声を落とす。
「誤解だ。彼女が怒っているから、収めようとしただけで」
「結婚しようとおっしゃるのが、収めるための言葉なの?」
ヘレーネ嬢は彼の差し出した腕を取らず、自分の母のところへ歩いていった。
私の首飾りを欲しがったあの方に、好意は持てない。それでも、今の言葉を聞いてどんな気持ちになったかは分かった。
「クラリッサ、少し二人で話そう。こんなところでは」
「お断りします」
母が私の前へ半歩出た。
「娘の返事はお聞きになったでしょう。これ以上のお話は、うちの伯爵へお願いいたします」
主催の侯爵夫人も、こちらへ来ていた。彼女が別室で少し休むよう勧めると、オットーは何か言いたそうに私を見た。
まだ待っていれば、私が庇うと思ったのかもしれない。私は頭を下げるだけにした。彼の口がわずかに開き、そのまま言葉にならずに閉じた。
「君は、僕と踊るのをあんなに楽しみにしていたのに」
小さな声だった。
それを聞いて、昔の私が気の毒になることはもうなかった。あの頃は本当に楽しみだったし、今は、別の人を待っている。
「あの夜までは、そうでした」
彼はそれ以上、私を呼ばなかった。
侯爵夫人について広間を離れる背中を、私は母の隣で見送った。肩に添えられた母の手が、軽く私を押す。
「いらしたわよ」
振り向くと、入口にレナート様が立っていた。
こちらを見つけた彼が足を速める。私も歩き出した。今夜は泣くのをこらえてではなく、会えたのが嬉しくて近づけた。
「お待たせしました。伯母から、忘れた眼鏡を届けるよう頼まれていまして」
「眼鏡を?」
「昨日うちへいらした時に置いていかれたんです。私も持って出るのを忘れて、一度取りに戻りました」
張りつめていた気持ちがほどけて、私は笑った。さっきまで毅然と話せたのに、彼の前では、ただ嬉しい顔になってしまう。
「よくお似合いです。その色」
レナート様の目が、私のドレスへ下りた。
「ありがとうございます。今夜、最初に言っていただきたかったんです」
「最初に? 挨拶よりも?」
「眼鏡のお話よりは」
彼が笑った。私もつられ、それから差し出す手の位置を少し迷った。
あの夜はできたのに。お願いする理由が変わっただけで、こんなに勇気が要る。
「レナート様。私と踊ってくださいませんか」
「喜んで」
「二曲目を、お願いします」
彼の笑みが止まった。
驚かせたことが分かって、私は嬉しくなった。いつも率直な言葉で私を照れさせる方に、今夜はちゃんと伝えたい。
「あなたと踊りたいんです。さっきから、お会いするのを待っていました」
レナート様は私の手を取った。口元を引き締めようとしたのに、すぐに笑みがこぼれる。
「嬉しいです。一曲目の時より、ずっと」
「私もです。今夜は、最後まであなたの顔を見て踊ります」
彼の手に少し力がこもった。
私たちは踊りの輪へ入った。彼の手が背に添えられ、近いところで目が合う。最初の一歩を合わせる時から、私は元婚約者を探さなかった。
「覚えていますか。一曲目で、私が肩に力を入れすぎていたこと」
「ええ。今夜は、私の方がそうかもしれない」
「レナート様も緊張なさるの?」
「好きな方が、私との二曲目を選んでくれたんです。うまく踊りたいと思いますよ」
好きな方、と言われた。
あまりに嬉しくて、次の拍子が一瞬分からなくなった。彼の腕について向きを変え、近くなった顔を見上げる。
「私も、あなたが好きです」
今度は彼の足が止まりかけた。ほんのわずかだったので、私は歩幅を合わせて、次の一歩へ進んだ。
目を見合わせて笑う。もう失敗しても恥ずかしくなかった。
「一緒にいると楽しいんです。私が笑ったら、レナート様も笑ってくださるのが嬉しくて。お帰りになると、次はいつお会いできるか考えてしまいます」
「私も同じです。あなたの方から会いたいと言ってもらえるたびに、少しずつ欲張りになる」
踊りが終わっても、手を離したくなかった。
彼がテラスの方を示したので、私は頷いた。開いた扉の向こうから母たちの姿が見える。二人で欄干のそばへ立つと、広間より涼しい風が頬に当たった。
「最初の夜、本気で口説くとおっしゃったでしょう。あんな頼み方をした私の、どこがよかったんですか」
レナート様はすぐに答えず、私の手を握り直した。
「傷ついているのに、私に頼む時には言い訳をしなかった。悔しいから力を貸してほしい、と。どんな方なのか、もっと知りたくなったんです」
「私、後から思い出して、ずいぶん恥ずかしくなりました」
「私は嬉しかった。あなたが、私のところへ来てくれて」
彼の親指が、手袋の上から私の指をそっと撫でた。
「その後は、会うたびに。あなたは花を見つけると馬を止めるし、人に石を選んでやるくせに、勝負では負けたくないと言う。次はどんなことを一緒にできるだろうと、そんなことばかり考えています」
目の奥が熱くなった。
可愛げがないと言われてやめてきたことを、この方は一緒にしたいと言う。慰めるために褒めるのではなく、自分が楽しみにしていることとして話してくれる。
「ダンスだけで終わりたくありません。クラリッサ。私と結婚してください」
私は頷き、声が出るまで、もう一度頷いた。
「はい。あなたと結婚したいです」
レナート様が深く息を吐き、私を見て笑った。嬉しそうで、少しだけほっとしたような顔だった。
私から一歩近づくと、そっと抱き寄せられた。上着に頬を寄せ、彼の背中へ腕を回す。もっとくっついていたいと思っても、もう遠慮しなくてよかった。
「明日、ご両親にご挨拶をさせてください」
「母は今すぐ聞きたがると思います。きっと、こちらを見ていますもの」
「では、まずお母様へ。伯母にも、眼鏡より喜ばれる報告になりそうですね」
笑って顔を上げると、彼が少し身をかがめた。
近づいてきた唇に、私は目を閉じた。短い口づけの後も離れがたくて、彼の袖を掴んでしまう。レナート様は、もう一度、と小さく尋ねた。私は返事の代わりに、自分から背伸びをした。
広間で、次の曲の前奏が始まった。
彼の腕の中から顔を上げると、目が合って、二人ともまた笑ってしまう。
「三曲目も、踊っていただけますか」
「はい。今度は、話の途中で足を止めないようにします」
「それは、私の方でしょう」
私たちは手をつないで、明るい広間へ戻った。
母へ報告したら、すぐに踊りに行こう。次の曲が終わるまで、この人の手を離したくなかった。




