死闘
第一章:プロローグ
ジィィィィィィィィィィィィッ!!!
電気自動車の超高トルクモーターを強引に改造したパワードリールが、鼓膜を微振動させる金属悲鳴を上げて逆回転していた。摩擦熱で、ナノカーボン編み込みの超高分子ワイヤーから青白い煙が立ち上る。
ネオ江東区、水深千メートルの闇。東京湾谷へと繋がるその「河川」の水質は、七十年前の隕石衝突に端を発する地殻変動によって、重油のごとき漆黒のタールへと変貌していた。
リョウの視界は、異様なほど澄み渡っていた。 すでにナオイの死と船団壊滅の現場で奴の絶望的な破壊力を目の当たりにしているリョウは、最初からこの死闘の威力を想定し尽くしていた。
ナオイの死を知ってから永久の闇を宿した妹の瞳も、最後まで望みを捨てず思考したナオイの最期も、もはやリョウの意識には上らなかった。持てる力すべての生命力で抗う。
思えば「ヌシ」にしてもそれだけなのだ。
リョウの精神、肉体共にその咆哮に呼応して限界を引き上げられていた。
噛み砕いた筋肉能力ブースター『黒潮』の効果は、リョウの限界を遥かに超えて一二〇%発揮されていた。
全身の横紋筋は爆発的に硬化・肥大し、皮膚の隙間から血の汗を滲ませながらも、リョウの脳内は氷のように冷徹だった。筋肉が融解する激痛すら思考のノイズに過ぎない。獣のような身体能力と、獲物の動きを一手先まで読み切る冷酷な判断力が、十五メートルを超える巨大な悪魔をじわじわと水面へ引きずり上げていく。 ──だが、一つの強烈な疑問が、氷の思考の奥底で澱のように引っかかっていた。
いくらこの「ヌシ」が超絶な凶暴性を持っているからといって、十隻に及ぶ熟練の船団を、なぜこうもあっさりと一晩で壊滅せしめることができたのか?
あと数回のポンピングで水面だと本能が告げたまさにその時、水面が眩い火花を散らした。
同時にリールのコントロールが全て失われ、リョウの意識に驚愕の電撃が走る。
「EMPか!」「細工してある! ハンドルロックをオフれ!!」
インカム越しにトゥーチの怒号が飛ぶ。
生体EMP。ありえないがそれしか考えられない。十隻の船団を沈めた悪魔のカラクリ──その可能性を、トゥーチもまた戦いの前から見抜いていたのだ。機械が死んだなら、残された生身の腱で引くしかない。 電瞬の戸惑いを、悪魔は逃さなかった。
十隻を屠った本当の「答え」が、今、リョウの眼前に突きつけられる。
水面を割って頭から飛び出すと見せかけ、奴はもう一度頭を下げた。それも猛烈なトルクで。結果、その頭より下の巨体が水面にそそり立つかたちになった。
ゆっくりと振り下ろされる、漆黒の巨大な「死の鎌」のように。『後進いっぱい!! ボケっとしてんじゃないよッ!』 まさにその時、リョウの頬下駄をひっぱたくような声が響き渡った。
船の魚探AI『アイ』の声だ。生前の母、「藍」の声である。威勢のいい下町言葉がキャビンから響く。 瞬間、大留花屋の『第一丸』の船尾が、後進フルスロットルで振り下ろしかけられた「死の鎌」に激突した。
縦横無尽に船を翻弄されないよう、あえて外しておいたハーネスが仇となる。リョウの身体は激突の凄まじい衝撃で吹き飛ばされ、後部デッキの船べりへと激しく叩きつけられた。
すでに「大グロ」の尾鰭はタールの水面に消えるところだ。 本能的に奴から離れようと、デッキに勢いよく尻もちをつき、バランスを取りながら立ち上がりかけた──まさにその時だった。
目の前のすべてが炸裂した。
物理限界のスピードで脳内のシナプスを電荷が駆け巡り、全身の分子が奴を捉えた。極限まで引き伸ばされた時間のなかで、海老に似た──いや、まさに海老そのものの構造をした二本の禍々しい触腕の裏に蠢く、不気味な変色素細胞のまだら模様までが、はっきりと網膜に焼き付く。
その一瞬、リョウの意識は、もう一つの激烈な気配を察知した。 何かが矢のように脇を駆け抜けてゆく。
愛しい、そしてどこか懐かしい残り香を流れ星のような後跡として。 中型犬の「ボス」が、地獄の釜のように開き直ったグロの口吻に向かって、天を突くような角度でその身を躍らせていた。 高く、高すぎるほど飛ぶ。
「だめだーーーーっ!」
リョウの絶叫はタール状の水面に飲み込まれた。。




