第4話 皇帝
綾華国 景明朝第四代皇帝の名は、楚炎黎。
半年と少し前より体調を崩し、侍医による投薬やら他の医師を呼んでの見立てやらもむなしく、伏せたままだった。
星も月も昇りきり、子初の刻――日が変わろうとする頃に、ものごとは静かに動き出す。
「炎瑛と風俊を呼べ」
皇帝の言葉に、すぐさま皇太子である楚炎瑛と、彼の乳兄弟であり護衛の李風俊が呼び出された。
青みのある灰銀色の髪を無造作に束ね、暗い紫色の瞳に焦りを浮かべながら、炎瑛は風俊とともに皇帝の私室に入る。
「御前に参りました。炎瑛にございます」
皇帝の側に侍るのは、皇后であり誰よりも寵愛を受けている月明陽。炎瑛の母である。
月氏は前皇朝から続く名家で、現皇帝である炎黎帝が皇太子になる前からの寵姫であった。
「他の者は下がるように」
明陽は皇帝の意を察し、側に侍る他の者たちを下がらせた。
治療の一つである香が焚かれる広い部屋の中、四人だけとなる。
扉が閉まったことを確認した炎黎帝は、風俊の手を借り上半身を起こす。
蜜蝋で作られた蝋燭の炎が、人の動きに合わせて揺らいだ。
「炎瑛。そなたに皇位を譲ろうと思う」
「陛下?! そんな気弱なことを」
皇帝炎黎の言葉に、皇太子である炎瑛は彼に駆け寄った。
そんな息子の手を取り、炎黎帝は笑う。
「なに、気弱なものか。今朕がこうしている間に、皇帝位を狙う官服を纏った妖どもを廃する機会を、そたなにくれてやるのよ」
炎黎帝の言葉に、炎瑛は口元を緩めた。
彼の体が衰弱してきているのは本当だ。だが、それは誰かの意思でそうさせられている可能性が高い。
皇帝を衰弱させ、表向きには病弱で通している皇太子炎瑛を傀儡としようとしているのか、第二皇子を皇太子としようとしているのか。
誰が敵で、誰が味方か――。
今はまだ見極めがつかない。
「そなたが動きやすいよう、権を与える」
炎瑛は、静かに頭を垂れる。
「陛下の御意志のままに」
その言葉を受け、すでに話をつけていたのであろう。皇后明陽が隠し扉へと向かう。
「風俊、手伝っておくれ」
李風俊の母親は、明陽の信頼できる侍女であり、炎瑛の乳母だ。加えて、明陽の家門に近しい親戚筋でもある。
この場で皇族以外は彼のみだが、それだけ信を置かれている者ともいえた。
明陽の開けた扉の先には、皇帝玉璽とともに、龍璽剣が置かれている。
龍璽剣とは皇帝の証とされ、皇位継承を行うと、龍璽剣は不思議なことに、新たな皇帝の名が刻まれるのだ。
逆に言えば、その名を刻まれなければ皇帝とは認められない。
百年前、前皇朝を倒した景明朝初代皇帝は、前朝皇帝を廃した後、新たなる皇朝樹立と朝廷の安定を為してようやく名が刻まれたと伝わる。
禅譲ではなく簒奪であったため、彼の者を皇帝と天が認めるのが遅かったのではないかと、言われていた。
「陛下、こちらを」
明陽が御璽を、風俊が龍璽剣を抱え炎黎帝へ手渡す。
剣は、皇帝の証とされているにも関わらず、驚くほど素朴で飾り気がない。
風俊が鞘を付けたまま持っていると、まるで護衛の剣のように見える。
それを受け取った炎黎帝の前に、炎瑛が膝をつく。
炎黎帝は龍璽剣を鞘から引き抜き、目を細める。
現れた剣身は、まるで水をたたえた湖のように美しく輝いていた。そこには、第四代楚炎黎帝と刻まれている。
「楚炎瑛。そなたを朕の次なる皇帝とし、第四代景明朝皇帝より皇帝位を移すことを天に宣誓する」
炎瑛の面前に切っ先を向け、皇帝炎黎がそう告げた。
「しかと――この身に受け止めます」
高い位置にとられた明かり取りの窓から落ちる月の光が、剣身に届く。
まるで物語の一幕のような景色の中、龍璽剣が小さく震え、その身に刻まれた文字が消えていった。
そうして、すぐに新しい文字が浮かび上がる。
――第五代楚炎瑛帝が誕生した瞬間だった。
***
真夜中の密かな譲位は、その場にいた当人二人と残る二人以外、誰も知らない。
廷臣たちは第四代楚炎黎帝が皇帝でいると思っているし、彼らもそう思わせるために、譲位を密かなものとした。
「炎瑛。そなた、星薬師という者を知っているか?」
母である明陽が尋ねる。
炎瑛は首を傾げ、知らぬと答えた。
「前皇朝の頃、朝廷に仕えていた薬師だ。彼らは政から離れて久しい」
前皇帝となった炎黎が、明陽の言葉を継ぐ。
多少の委細を聞くと、炎瑛は頷いた。
「なるほど。では、その星薬師殿を頼りましょう」
「炎瑛が動いている間は、風俊が代わりに部屋に籠もると良いわね」
「私がですか?」
「そうだな。風俊なら俺と背格好が似ている」
「声も顔も、まるで違いますが……」
「風邪を引いたことにすればいいわ」
二人が楽しげに言うものだから、影武者になるという重い事案も、まるで軽いことのように感じてしまう。
風俊はううむ、と小さく口から零し、最後のあがきをする。
「いや、私が星薬師殿に会いに行けば良いのでは」
「万一何か交渉することになったら、俺の判断が必要になるだろうよ」
が、そのあがきは、新皇帝炎瑛により、あっさりと却下された。
「父上、母上。星薬師殿を味方につけて、戻って参ります。必ずやお体をお守りし、この難を乗り切ってみせましょう」
「うむ。幾度医師を変えても、全て誰ぞの手の者が来ていては、おちおち死にもできぬ。さっさと首魁を捕まえてくれ」
「は。では母上の家名をお借りし、月――瑛然と名乗り、星薬師の元へ尋ねて参ります」
瑛然の決意の言葉に、風俊は笑いを堪える。
御璽は目眩ましのために前皇帝炎黎の手元に、そして龍璽剣は鞘にある限りは通常の剣と変わらず見えるため、炎瑛が佩く。
炎瑛のあとを風俊が付き従い、部屋を出た。
「風俊。俺は支度をして、すぐに馬で星薬師殿がいるという天都山に向かおう。朝には着けるだろう――何を笑っている」
「いえあなたが、まるで初めて名を隠して外に出るような口調だったので」
これまでも月瑛然として、街へと密かに視察に出ていたことがある。
そのために、わざわざ身分を密かに作り上げていることも、乳兄弟である風俊は知っていた。というよりも、共犯である。
「仕方がないだろう。父上はもとより、母上にも余計な心配をかけるわけにはいかない」
「それはそのとおりですね。では私は、あなたの部屋で大人しくしていましょう」
「執務は残しておいてかまわない。あぁ、朝になったら啓俊を呼ぶといい」
「確かに。弟でしたら、助けにもなりましょう。状況を共有しても?」
「啓俊なら構わんさ」
炎瑛はそれまで着ていた皇太子の服装から、いつも密かに街へ出るときに着る動きやすいものに変えると、厩に向かった。
「さて。星薬師殿は味方になってくれるか――」
***
香凛の元へと辿り着いた炎瑛は、瑛然と名乗る。
そして。
「皇帝陛下の命が、近いうちに危機に晒されます」
思いがけず、皇帝陛下――つまり自分の命の危機を指摘されることとなってしまった。




