第2話 依頼
「皇帝陛下のお命を、救う――とは」
香凛は、三度小さく深呼吸を繰り返してから、尋ねた。
それほど思いがけなく、そして大ごとな言葉だったからだ。
「陛下は半年ほどずっと、病に伏している」
皇帝の状況など、下々にいちいち知らされることなどはない。
特に、病に伏していることを外に知らせれば、いらぬ内憂外患を生んでしまう。
「陛下の侍医がおいででしょう」
「それが一向によくならないのでな。腕が悪いのか、それとも――」
その言葉の先に込められた意図に、香凛は首を振る。
「陛下に大事があってはなりません。一介の平民に依頼することではないでしょう」
(彼は陛下への治療を疑っている。それはつまり、暗殺を疑っているのも同然だわ)
下手に関わって、自分の命をかけるほどのことではない。
香凛は遠回しに断るが、瑛然は首を横に振った。
「このままでは長くないだろう。侍医の後ろにいる、黒幕を見つけないことには、皇太子が皇帝になったとしても、同じことが繰り返される」
「――今、朝廷はどんな状況なんですか」
「皇太子が代わりをしている。が、廷臣たちが徐々に幅を利かせてきてはいるな」
「皇太子殿下に関しては、体が弱いと聞いたことがあります」
「ああ。小さい頃はよく体調を崩していた。今も人前にでることはほぼなく、部屋で執務を行うか、会議は御簾の向こうだ」
(それでも執務をしたり、会議に出るほどには体調は良いのね。もしくは何か――人前に出られない理由でも?)
「このまま朝廷を乗っ取られないためにも、引き受けてくれないか」
「乗っ取られる、ってそんな大げさな」
大げさ、と口にしたが、香凛はすぐに考えを改める。
「幅を利かせた廷臣が政を思うままに行えば、内乱が起きる可能性も?」
「その通りだ。そうなったら、華都もここも混乱するだろうな」
「……おどし?」
(言うとおりにしなかったら、斬られる可能性もあるかも。相手は侍衛。かなうはずがない)
そもそも皇帝の命で来たのだとしたら、従うしかない。
それを断れば、殺されても文句も言えないのだ。
「今は生憎後継者もいませんので、私が死んだら星薬師の技術は永遠に途絶えます」
香凛は、できるだけ自分に有利になるように、交渉することにした。
(どっちにしろ、恋の一つもしたことがない私が死ねば、後継者もなく星薬師は消えていく運命。だとしたら、少しでも世の役に立って消えていく方がいいのかもしれない)
ピリピリとした空気を出す香凛に、瑛然はこれまでの表情を一転させて、へらりと笑う。
「おどしのつもりはないさ。でもまぁ……陛下からは『力を貸してくれたなら、何でも希望を叶える』とは言われてる」
「……なんで、そこまで」
「今陛下の周りでは、誰を信用すべきかわからないんだ」
つまり、派閥も政治も何も関係がない、前皇朝の臣の血筋を頼ってきたというわけだ。
(なるほど……。これ、もしかしてチャンスじゃない?)
香凛は瑛然を改めて見る。
目鼻筋の通った、すっきりとした顔。一重の瞳は切れ長で、黙っていると冷たそうだが、口を開くと軽薄だ。
それでも、体つきはしっかりとしていて、身なりも整っている。
皇帝の侍衛とは、嘘ではないだろう。
しかも、こうした内容を相談するほどだ。余程信頼されているとも言えよう。
「失礼ながら、侍衛殿が本物か証明できる術は」
皇帝の状況をしらない平民の女を、言葉巧みに騙そうという可能性もある。
(世間では忘れられているとはいえ、私は星薬師の末裔。どこかで話を聞いて、身のうちに入れようという輩がいてもおかしくはない)
ことに、今は祖父もいない。
香凛一人であれば、場合によっては拐かすようなことも容易いだろう。
(失礼なことを口にしているとは、思う)
だが、これは一つの賭けでもあった。
(さっきの言葉が本気なのか)
皇帝が「何でも希望を叶える」だなんて、本当に言うのか。
引き結んだ香凛の唇は、だがすぐにぽかりと開くことになった。
「ま、そうだよな。安易に信用しないとこ、気に入った」
そう言って瑛然が懐から取り出したのは、熟れた柿のような赭黄色の布だ。それを机に広げる。
二十センチ四方程度の正絹のその布に、墨で書かれた文字と赤く押された印。
それがどんな意味を持っているのか、たとえ平民であっても、祖父から授けられた学のある香凛にわからない筈がなかった。
(赭黄は禁色――それにこれは、皇帝御璽)
「これでどう?」
「どう、じゃないわ。これ以上の証明はないでしょう」
皇帝にしか許されない色、赭黄色の正絹には、『月瑛然の身分を証明する』と書かれた文字と皇帝御璽。
「あなた、月瑛然といったのね」
「そう名乗らなかったっけ」
「名前しか」
「瑛然と呼んでくれれば、それで構わないと思ったからかな」
香凛は呆れたように溜め息を吐くと、改めて彼を見た。
「ここまで見せられたら、協力しないわけにはいかないわね」
「本当か? 助かった!」
「それで、本当に陛下は私の願いを叶えて貰えるのかしら」
「もちろんだ。皇帝陛下が、誓われたことだ――もちろん、皇帝の命を欲しいとか、皇帝の位を、とかはきけないが」
まさかの注釈に、香凛は思わず笑う。
「そんなもの、いらないわよ」
「そうかな。そんなものを欲しがるやつは、結構いるけど」
(それはそうかもしれないわね。皇帝になりたいという皇子や、皇帝を傀儡にしたいという廷臣なんて、古来いくらでもいたわ)
「それで、星薬師殿。きみの願いはなんだい?」
瑛然の言葉に、香凛はゆっくりと口を開いた。




