第16話 瑛然と炎瑛
瑛然――いや、この場では炎瑛であろう男は、風俊の言葉を繰り返した。
地晴宮、つまり皇太子の住まいの最奥、彼の私室には実に見事に実用的な家具のみが置かれている。
無論、それらは一級の職人の手によるものではあるが、単純に炎瑛が花瓶やら図画やら書やらを飾る趣味を持っていなかっただけにすぎない。
質素倹約を旨とするわけではないので、その部屋の飾り気のなさから、彼の真摯な姿を想像するのは間違っているのだ。
だが、多くの使用人たちはそうは思わないらしい。
炎瑛は病弱ではあるが、執務はきちんと行い、さらには質素倹約を旨とする立派な皇太子だと、もう何年も噂と評価は巡っていた。
「はい。凌女史からのご依頼です。明日私がお連れしますね」
噂の一部は本当ではあるが、実際は質素倹約というよりは華美なものに興味がないだけなのに。そう思いながらも、炎瑛にとって悪くないそれをわざわざ否定する必要はない。そう思っている側近の一人、風俊が炎瑛の言葉に返す。
「……そうか」
「何か?」
含みを持った笑みを浮かべる風俊に、炎瑛は苛立ちを隠しもせずに睨み付ける。
「だって仕方ないでしょう。真っ昼間の皇城内を、殿下が案内しますか?」
「……明日は会議が入っている」
「だからですよ」
風俊の言葉に、炎瑛は溜め息を吐いた。
「まぁそうか。俺が出るような会議であれば、宰相はもちろん三省の長官たちも六部尚書たちも、出席する」
「その間であれば、有能な官吏たちもそちらにかかり、薬草園にサボ……散策にも来ないでしょうしね」
つまり、余計な人物と出会うことなく薬草園を見て回れるということだ。
炎瑛は内々では実際に皇帝位を引き継いでいるが、表向きはまだ皇太子である。とはいえ皇帝が伏せっている以上、その代わりはやはり次期皇帝である皇太子が立つ必要があった。
「それはわかるんだよ……。でもさぁ――ハァ」
再び溜め息を零す炎瑛に、今度は風俊の弟啓俊が口を開く。
「殿下は凌女史のことを、皇后にしたいと思ってるんですか」
「啓俊は、嫌なことを俺に聞くよなぁ」
小さな卓にのせられた茶を飲むと、炎瑛は苦笑いを浮かべた。
「わかってるよ。香凛を皇族の世界に連れてくるわけにはいかない、って」
ぽつりと零す言葉は、炎瑛の心中を絞り出した一滴だ。
「それでも、束の間の夢を見ちゃうんだよなぁ」
元は父皇帝の身を守るため、そしてこの皇朝を守るために訪れた天都山。
想像していた星薬師よりもずっと若い香凛を前に、最初は落胆した。
(頼りないと思ったんだよな――)
だが、そんな思いはすぐに消え去る。
彼女の仕事への矜持、そして職を全うさせようとする強い意志に、心を奪われた。
――星薬師の職を朝廷に戻して欲しい
(あの願いが、もしも臣として取り立てて欲しいというものだったら、きっと俺はこんな気持ちにならなかったろうな)
「凌女史をあなたが連れてきたとき」
「ああ。風俊、香凛を睨んだだろ」
「違いますよ! 思っていた星薬師と違っていたから驚いて」
風俊の言い分に、啓俊も頷いた。
炎黎帝の寝所の前で初めて見た星薬師は、想像していた老齢の薬師とはかけ離れていたのだ。
「凌女史は勤勉だし、頭の回転も速いと思います。文書庫の鍵を閉めにいったときに調べ物の様子を見ましたが、実に効率よく書を選び、机上に配置していました。そういう細やかさに、仕事の出来は左右されますからね」
啓俊が香凛を褒めると、炎瑛は表情を緩める。
それを見た風俊がわかりやすい溜め息を吐いた。
「あなたの態度で、凌女史を振り回すのも良くないですよ」
「わかってる……」
それでも、香凛とともに美しいものを見たいし、美味しいものを食べたい。
彼女の幸せそうな笑顔を見て、隣で笑っていたいと――
(思ってしまうんだよな)
「皇帝ともなれば、後宮に妃を住まわせる。その一人にするくらいなら、良いのではありませんか?」
「香凛がそれを良しとする女性に見えるか?」
「あー。自分で言っておいて何ですが、凌女史は後宮の女性同士の関わり合いとか、嫌いそうですね」
啓俊は直接香凛と話したわけではないが、彼女の様子を遠くから見ている。
その様を思い出して、肩をすくめそう言った。
「今回の件が片付いたら、けじめを付ける」
「あれ、天都山に帰すんですか?」
「いやぁ啓俊。それはできないんだよなぁ」
「どういうことですか。兄者、知ってる?」
「私も知らない。どういうことです」
二人に詰められ、炎瑛はへらりと笑う。
「星薬師の職を、朝廷に復帰させると約束しちゃったからね」
その言葉に、風俊と啓俊は顔を見合わせる。
「凌女史って、存外野心家なのか?」
「兄者、だとしたら後宮に入って貰う手も残せるのでは」
「それもそうだ。殿下、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「そうじゃないんだ、二人とも! おめでとうじゃないんだ!」
盛り上がる二人に、炎瑛は両手を見せて止めた。
「星薬師という職を作ることで、後継者と技術を繋いでいきたい、と」
再び、風俊と啓俊は顔を見合わせた。
「それはまたまぁ……ねぇ、兄者」
「ああ。随分と野心のないことで」
「本人はそれが野心だと思ってそうだけど」
苦笑しながらも嬉しそうに言う炎瑛に、風俊と啓俊の二人はうなずき合う。
「とりあえず、今回の件を終えてから考えましょうか」
「そうですね。まずは明日、薬草園で兄者が凌女史に探りをいれてください」
「ああそうか……。肝心の彼女がどう思っているか」
(二人は俺を心配するが、そもそも香凛が皇妃なんぞ嫌がるだろうな)
だからこそ。
(後宮や朝廷の悪意に必要以上に巻き込むわけにはいかない)
炎瑛は風俊と啓俊のやりとりを見ながらそう思う。
それは、残念ながらすぐに改めて実感として感じることになるのだった。




