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93.異大陸の迷い人

 肌を刺すのは、学園の地下迷宮にある湿った冷気ではなく、肺まで凍りつかせるような乾いた絶風だった。


「……っ、がはっ……!」


 雪混じりの大地に叩きつけられたアレクは、激しく咳き込みながら上体を起こした。

 

 視界に入るのは、見渡す限りの銀世界と、天を突くほどに巨大な氷の山脈。学園はおろか、王国の領土内にすら、これほど過酷な極寒の地など存在しない。


(……転移した、のか。あの女の失策によって)


 アレクの胸の奥で、青白い『傲慢の心臓』がドクン、ドクンと静かに脈打っている。


 以前のような支配される感覚はない。むしろ、この心臓から溢れ出す暴虐な魔力が、脳に張り付いていた教会の洗脳を、不純物として焼き払っていくのが分かった。


 思考はかつてないほどに澄み渡っている。


 やはり自分は救世の英雄などではない。教会のエゴで作られた、ただの兵器。そして――。


「……あ。……あ、アレク様!ご無事ですか!?」


 傍らで雪に埋もれていたセレスティアが、這い上がるようにしてアレクに駆け寄った。彼女の制服はボロボロに裂け、その美しい顔は恐怖と混乱で引きつっている。


「よかった……。転移は失敗しましたが、なんとか見知らぬ土地に飛ばされるくらいで済んだようですね。すぐに態勢を立て直さなくては……」


 彼女はアレクの様子を伺い、その瞳に宿る不吉な『傲慢』の光を見て、ハッと息を呑んだ。だが、すぐに彼女は「暗部」としての冷徹さを取り戻し、腰から小さな香水の瓶を取り出した。


「アレク様、落ち着いてください。今、お薬を……。貴方の肉体は今、魔神の力で崩壊寸前です。私の指示に従い、教会の聖域へ戻るための――」


「……誰に口を利いている、飼い犬」


「え……?」


 アレクの口から漏れたのは、氷原の風よりも冷たく、重い言葉だった。


 セレスティアの手が止まる。彼女の目には、アレクが「力に呑まれて理性を失う寸前」に見えている。だからこそ、力ずくででも抑え込もうと、その細い指に殺気を込める。


「アレク様、お聞きなさい。貴方は私の、教会の管理下にあるのですよ?その力で自身が壊れる前に、大人しく私の指示に従ってください。……もっとも嫌だと言っても、物理的に従わせるだけですが」


 シュッ、とセレスティアの袖口から毒を塗布した短針が飛び出す。


 教会暗部『幻香』の秘技。かつてのアレクなら、この不意打ちに屈して膝をついていただろう。


――ガギィィィィィンッ!!!


「なっ……!?」


 火花が散った。


 アレクは動いてすらいない。ただ、彼から溢れ出した青白い魔力の障壁が、物理的な質量を持って短針を弾き飛ばしただけだ。さらにおもむろにセレスティアの腕を掴み「バキリ」と不自然な方向に強く捻じ曲げた。関節が砕け、骨が皮膚を内側から突き上げる。


「あ、がああああぁぁぁっ!?」


「管理、だぁ?笑わせるな」


 アレクはゆっくりと立ち上がり、漆黒に染まった聖剣を引き抜いた。悲鳴を上げて雪原に転がり、折れた腕を押さえて震えるセレスティア。アレクはその細い首筋を、容赦なく靴底で踏みにじった。


「ぐ、ぅ……ア、アレク、様……何、を……」


「お前たちが俺にした仕打ち、全て思い出したぞ。……俺からニーナを奪い、記憶を削り、薬漬けにして人形のように扱った。……これはその報いだ」


「待っ……!私は……貴方の、ために……!」


「――それ以上喚くな」


 アレクは冷ややかにセレスティアを見下ろし、吐き捨てるように言った。


「お前は聖職者だろう。その程度の骨折、自分の魔法ですぐに治せるはずだ。……いつまでも痛がっている演技をするな。反吐が出る」


「っ……!」


 痛みに顔を歪めていたセレスティアが絶句する。アレクの瞳には、かつての少年らしい「迷い」も「慈悲」も一切ない。そこにあるのは、万物を等しく見下ろす、本物の『魔神』の威厳だけだ。


「……殺さない。今、お前を殺しては、殉教者の魔道具によって俺の事がバレるだろ?そうなると、お前たちを飼っていたあの女狐メルフィへの挨拶ができなくなるからな。だが忘れるな、お前の命の火をいつ消すかは、俺の気分次第だ」


 アレクは、踏みつけていた力をさらに強める。


「お前はもう、教会の目でも耳でもない。俺が貴様を捨てるその時まで、俺の足元で這いずり、ただ絶望だけを味わい続けろ。それが俺の『所有物』としての唯一の価値だ」


「ひ、あぁ……ッ」


 圧倒的な力。絶対的な主従。


 アレクは無理やりセレスティアに治癒魔法を使わせた。もはや彼女に拒否権などなかった。



 アレクは這いつくばるセレスティアを無視し、遠くの氷山を見つめた。


 すると、氷の山脈の影から、異様な集団が姿を現した。彼らは教会が説く「神」の紋章とは全く異なる、太陽と牙を組み合わせたような不気味な紋章を掲げ、獣の皮を纏った戦士たちだった。


 だが、その手には魔法の杖ではなく、未知の鉱石と歯車が組み込まれた魔力感知器が握られ、その周囲には鳥を模した使いアーティファクトらしきものが幾羽も旋回している。それは教会で学んだ中にあった既に大陸では失われた、高度な『魔導工学』の残滓を感じさせる装備だった。


「……何者だ?」


 アレクが問うより早く、戦士たちの列が割れ、一人の男が前に出た。


 極寒の地にあって、他の者たちとは異なり、その男は薄手のシャツにコートを無造作に羽織っただけの、季節感を完全に無視した奇妙な服装だった。髪も肌も、雪と見紛うほどに色素が抜け落ちた病的なまでの「白」。男の纏うプレッシャーは、これまでの教会の聖騎士などとは比べ物にならない。そして、その背負った不釣り合いな大剣からは、かつてのアレクが持っていた、しかし今の彼が捨て去った――『勇者の資格』を持つ者にしか放てない、不快なほどに眩い黄金の輝きが漏れていた。


 男は、手元の魔導端末に刻まれた呪文の羅列を冷淡に眺めると、死人のような虚ろな瞳をアレクに向けた。


「……ァ?異大陸の迷い人ォ?軽装なのを見るに南ィの方か?……チッ、ウザいンだよ。許可なく俺の領域にわに足を踏み入れるんじゃねェよ」


 ひび割れた不快な声。男は首をだるそうに回すと、セレスティアの胸元で揺れる銀のロザリオを視線で射抜いた。


「この大陸の監視網に、座標外からの未知の魔力共鳴が引っかかったから来てみりゃァ……。不純物どころか、ドブ以下のヘドロじゃねェか!……おい、その胸元の『天秤と剣』。南の邪教徒カルトが、何の用だァ?」


 男の言葉には、明確な嫌悪と蔑みがこもっていた。この大陸の人間は、信仰を隠れ蓑に人体実験を繰り返す聖教会の腐敗を知り尽くしており、彼らを「神の使徒」ではなく「駆除すべき害獣」と定義しているのだ。


「聖教会の狂信者が、この清浄な北極大陸を汚すことは許さねェ。……名乗りたくもねぇがそのまま死ぬのもカアイソウだなぁ...俺の名はルクェル。この地を悪党ゴミから守護する、お前らとは別の神に選ばれし――勇者だァ」


 ルクェルがそう口にすると同時に、彼に吹き付けていた猛烈な雪風が、まるで意思を持ったかのように、彼の周囲数センチでピタリと静止した。風は行き場を失った衝撃を「逆方向」へ叩きつけられ、真空の断層を作って周囲へと弾け飛ぶ。


「……邪教の信徒ごと、塵に還してやるよォ」


 ルクェルと名乗った男の言葉に、アレクは口角を凶悪に吊り上げた。


(聖教会以外の勇者だと……?なるほど、世界は広いらしいな。あのヴェルト・フォン・アークライトという『怪物』の他にも、俺を退屈させない獲物はいくらでも転がっているらしい)


「それは楽しみだ」


 教会の脚本が完全に灰となり、物語の主役アレクと物語を破壊するヴェルト。二つの巨大な軸が、別々の地で覇道を歩み始めた瞬間だった。

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