90.偽りの英雄
ギギィィィ……。
数百年、いや数千年もの間、何者をも拒絶し続けてきた様な巨大な石の扉が、重々しい音を立てて開かれていく。
舞い上がる積年の埃の向こう側。アレクは、息を呑んでその光景を見つめた。
そこは、ドーム状の広大な空間だった。壁面にはビッシリと古代文字が刻まれ、幾重にも張り巡らされた鎖と封印の術式が、空間の中央にある「祭壇」へと集中している。
そして、その祭壇の上に浮かんでいたのは――。
ドクン。ドクン。
脈打つように、青白く、絶対的な威圧感を放つ巨大な結晶体。
――『魔神の心臓』。
アレクがその部屋に足を踏み入れた瞬間、彼の手にある聖剣が、まるで主の帰還を喜ぶ獣のように激しく明滅し始めた。いや、剣だけではない。
「……ぐっ、胸が……熱い……!」
アレクは胸の奥を強く鷲掴みにされるような感覚に襲われ、その場に膝をついた。
自分の心臓の鼓動が、目の前の結晶の明滅と完全にリンクしている。彼の中に眠る「何か」が、目の前の結晶と激しく惹かれ合い、共鳴しているのだ。
同時に。
「あ……アァァァッ!?」
アレクの脳内に、焼き切れるような激痛が走った。
それは、教会の監視役であるセレスティアが『幻香』や『薬物』を使って幾重にも施していた、記憶の封印が内側から強制的に破壊される痛みだった。
――流れ込んでくる。
空白だった彼の過去が。失われていた、本当の自分の輪郭が。
『約束だよ、アレク!一緒に、最高の冒険者になろうね!』
栗色の髪の少女。泥だらけになって笑い合った日々。ニーナ。そうだ、彼女は俺の、一番大切な……。
だが、その温かい記憶は、すぐにおぞましい絶望によって塗り潰された。
『素晴らしい素質だ。この少年なら、「器」として適合するだろう。あんな辺鄙な村を試験場にするなど上層部も何を考えているのかと思ったが、いやはやおみそれした』
白装束の大人たち。冷たい地下室。
『聖女の方はどうしますか?悪徳領主のところにいるようですが』
『放っておけ、聖女と言っても見習いレベルだ、大した脅威にはならん。器の幼馴染だというから枷として使えるかもしれんと思ったが、代わりはいくらでもいる』
無理やり故郷を引き剥がされ、隔離された。
待っていたのは、毎日致死量の魔力を注ぎ込まれ、肉体を破壊と再生のループに置かれる地獄の実験。心が壊れそうになるたびに、「勇者としての使命」という偽りの記憶を上書きされた。
『……痛い、ニーナ、助けて……』
『アレク様。貴方は勇者です。そのような不純な感情は不要ですよ』
セレスティアの冷たい声。甘い香水。
少しずつ、自分が自分でなくなっていく感覚。ニーナの顔が、声が、思い出せなくなっていく恐怖。
「あああああぁぁぁぁぁッ!!!!」
アレクは頭を抱え、祭壇の前で絶叫した。
思い出した。俺は、正義の使徒なんかじゃない。世界を救うために選ばれたわけでもない。
ただの、教会の都合で作られた『兵器』だ。ニーナを……あんなに大切だった彼女を、「偽物」だと罵り、切り捨てたのは――俺自身だ。
『……許せないだろう?』
ふと、頭の中に、直接語りかけてくる声がした。いや、声ではない。目の前に浮かぶ、青白い結晶――『傲慢』が、アレクの負の感情と彼の中にある「何か」に呼応して意志を放っているのだ。
『お前を騙し、弄んだ者たちを。お前から全てを奪った世界を、傲慢になれ。お前は恨んでいい。』
「……俺は……俺は……!」
『私を受け入れろ。私こそが、絶対の力。……全てを見下し、全てを支配し、お前を傷つけた世界を足元に平伏させる力を与えよう』
青白い光が、アレクの体を包み込む。怒り、絶望、そして自己嫌悪。それらの感情が「傲慢」という圧倒的なエゴへと変換されていく。
「……そうだ。俺は……誰にも支配されない。俺を騙した教会も、俺を嘲笑ったあの悪徳領主も……全て、俺の前にひれ伏せばいい……!!」
アレクがゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、勇者としての黄金の輝きを失い、青白く凍てつくような『傲慢』の光に染まりきっていた。
◆
「オラァッ!!」
ドゴォォォォンッ!!
上の階層。神殿の広場では、ヴェルトの裏拳が巨大なサイクロプスを粉砕し、光の粒子へと変えていた。
「ふぅ。こんなもんか。アバドの奴、結構気前よく湧かせてくれたな」
「ヴェルト様! 汗を拭いてください!」
ニーナがタオルを持って駆け寄ってくる。ヴェルトたちが理不尽なレベリングを堪能し、ひと息ついていた、その時だった。
――ビキッ、ビキビキビキッ!!
「……あ?」
ヴェルトの懐が、唐突に焼け付くような熱を発した。慌てて取り出したのは、アバドから貰った『強欲の心臓の欠片』だ。ただの石ころ同然だったはずのそれが、今は赤黒い光を激しく点滅させ、ブルブルと振動している。
「ヴェルト、何よそれ!すんごい不吉な魔力が漏れてるわよ!?」
「コンパスが反応した……。つまり、近くに別の『魔神の心臓』があるってことか」
ヴェルトが顔をしかめた瞬間。
ズズズズズ……ッ!!
ダンジョンのさらに下――地下の床を突き抜けて、凄まじいプレッシャーが湧き上がってきた。それは魔物の気配ではない。もっと冷たく、全てを平伏させるような、圧倒的なまでの『魔力密度』。
「……おいおい、冗談だろ」
ネロ(♀)が顔を青ざめさせ、魔導書を構える。
「この下から、測定不能の魔力値が急上昇してきてるぞ!しかもこの波長……間違いない、王都で枢機卿が使った遺物と同じレベルの力だ!」
「地下六階……いや、最下層か。さっきの地震で何か封印でも解けちまったか」
(といっても、このダンジョンにそんなものあったか?原作でもアバド以外は何も......)
「……ヴェルト様!」
隣で、ニーナが顔を真っ青にして、床を見下ろしていた。
「この気配……アレクです!アレクが、この下にいます!」
「勇者が...聖女の直感ってやつか?それにしてもなんであいつがこんな深層に……チッ、嫌な予感がする...行くぞ!」
ヴェルトたちはアバドの広場を後にし、瓦礫で塞がれた通路を物理で粉砕しながら、最下層へと続く階段を駆け下りた。
だが、その道中。
薄暗い階段を急ぐ俺たちの前に、フラフラと這い上がってくる一つの影があった。
「……っ、誰か……!」
「なんだ?」
現れたのは、土埃にまみれ、制服を破いたセレスティアだった。
彼女は俺たちを見ると、一瞬驚愕と屈辱に顔を歪めたが、すぐにその場に膝をついた。
「お願い、します……!アレク様を……助けて……!」
「お前は、勇者に張り付いてた教会の犬か。どうした、随分とボロボロじゃないか」
俺が冷たく見下ろすと、セレスティアは唇を噛み締めながら言葉を絞り出した。
「……下層で崩落に巻き込まれ、分断されました。アレク様は扉の奥へ……あそこには、古の魔族が残した恐ろしい『罠』が……!このままでは、アレク様が……っ!」
彼女は『魔神の心臓』という決定的なワードは伏せた。教会が血眼になって探していた遺物であることを、この悪徳領主に知られるわけにはいかないからだ。だが、アレクをここで失うわけにもいかない。
この緊急事態に頼れるのは、忌まわしいが、教会からも聞かされている「規格外の怪物」しかいなかった。
「教会のエリート様が、悪徳領主に頭を下げて助けを乞うか。……だが、嘘の匂いがプンプンするぜ。何か隠してないか?」
「っ……!何も隠してなど……!」
セレスティアが図星を突かれて顔を強張らせる。
俺は鼻で笑い、彼女の横をすり抜けた。
「まあいい。どのみち行くつもりだったからな。……どいてろ」
「……ヴェルト様、放っておいてもいいのですか?」
すれ違いざま、ニーナが極めて冷酷な声で呟いたが、俺は手で制した。今は勇者の方が優先だ。
◆
最下層。
分厚い石の扉を蹴り破り、封印の間に飛び込んだヴェルトたちの目に飛び込んできたのは――。
「……おいおい、随分とイメチェンしたな、勇者様よ」
祭壇の前。
青白い光を放つ『傲慢の心臓』が、アレクの胸の奥――心臓の位置にドロリと沈み込んでいく瞬間だった。彼の纏う白銀の鎧は漆黒に染まり、赤かった髪は青白く変色している。
だが、ヴェルトの視線は、アレクの変化よりも、その傍らでふわりと浮遊している「男」に向けられた。
「……アバド! テメェ!」
ヴェルトが忌々しげに声を荒らげる。
祭壇の端で、不死王アバドは興味深そうにアレクの変貌を観察していたのだ。
「こいつの反応は魔神の心臓だろ!?俺にそれを探せって依頼しておきながら、自分の足元(ダンジョンの最下層)に隠し持ってたってのはどういう理屈だ!?」
「誤解しないでくれたまえ、ヴェルト・フォン・アークライト」
アバドは肩をすくめ、退屈そうに首を振った。
「あれは本物ではない。私がかつて教会から奪い、研究のために作り出した『模造品』に過ぎないのだよ。本物の出力には遠く及ばないガラクタだ。だから、あんな若造に取り込まれようと、どうなっても構わないのさ。それに、どうなるか興味深いだろう?」
「レプリカだと?ふざけんな、このプレッシャーでガラクタだぁ?俺を誤魔化せると思うなよ」
「いやはや、まったくもって事実だよ。……だが、奇妙だな」
アバドは虚無の瞳を細め、アレクの胸元をじっと見つめた。
「いくらレプリカとはいえ、ただの人間が遺物の力にあそこまでスムーズに適合するとは。……あの親和性、まるで彼の中に『本物の魔神の心臓』が既にあり、それが共鳴して引き寄せたかのようだ……」
「本物が、あいつの中に……?」
アバドの呟きに、ヴェルトの眉がピクリと動いた。
教会が勇者を「兵器」として扱う理由。その異常な成長速度と、並外れた聖なる力。もし、教会の手によってアレクの体内に既に「本物」が埋め込まれていたのだとすれば――。
(……いや、そんなことが可能なのか?それに、それならもっと早く魔神の心臓の欠片が反応するんじゃ...)
「……」
振り返ったアレクの姿に、ヴェルトたちは息を呑んだ。
肉体が怪物化しているわけではない。だが、その瞳から放たれる、虫ケラを見下すような冷徹な眼差しは、もはや人間のそれとは異質だった。
「……アレク……?」
ニーナが震える声でその名を呼んだ。
アレクの視線が、ニーナを捉える。以前のように「知らない女」を見る目ではない。彼は確かに、彼女を認識していた。
「……ニーナ。……そうか、お前は無事だったんだな」
「っ!私のこと、思い出して……!」
ニーナが嬉し涙を浮かべて駆け寄ろうとした。
だが。
「――近寄るな」
ピシャリと、絶対零度の声が彼女を縫い止めた。
「え……?」
「俺は思い出した。教会に騙され、弄ばれ、記憶を奪われていたことをな。……だが、同時に理解した。あのままの軟弱な俺では、お前を守ることも、世界を変えることもできなかったということを」
アレクが、黒く染まった聖剣をゆっくりと持ち上げる。
その切っ先が、ヴェルトたちに向けられた。
「俺は魔王をいや、神を超える。俺を騙した教会も、この腐った世界も、全てを俺の足元に跪かせる。……そのためには、お前たちのような『不純物』は不要だ」
それは、正義の勇者ではない。
『傲慢の魔神』の誕生宣言だった。
「おいおい、反抗期を拗らせすぎだろ、いや中二病か?」
ヴェルトは剣を抜き、呆れたように鼻を鳴らした。
「記憶が戻ってグレるとか、どこの思春期だ。……おいニーナ、お前の幼馴染、随分と面倒なことになってるぞ」
「ヴェルト様……アレクは……」
「ふん、安心しろ。……あいつのそのひん曲がった『傲慢』、俺が真っ直ぐに叩き直してやる」
ヴェルトはニヤリと笑い、青白い魔力を放つ勇者と対峙した。
「今のところチュートリアルは俺の連勝中だからな、今回も勝たせて貰うぜ」
ダンジョンの深層で、最悪の形での『勇者との決戦』が始まろうとしていた。




