87.厄介ごとは向こうから
早朝。まだ生徒たちの姿もまばらな学園の古書庫で、ネロはいつもより念入りに灰色の髪を整え、落ち着かない様子で本棚の間をウロウロとしていた。
「……おはようございます、ネロ君」
静かな書庫に、鈴を転がすような優しい声が響いた。現れたのは、臨時講師のエレナ・フォスターだった。顔色は昨日よりも遥かに良く、首筋にあった忌まわしい『隷属の刻印』は綺麗に消え去っている。
「エ、エレナさん……!体調はもういいのか?」
「ええ。ネロ君が作ってくれたお薬のおかげで、すっかり良くなりました」
エレナ先生はふわりと微笑み、深々と頭を下げた。
「昨日は、本当にありがとうございました。……ヴェルト君から聞きました。私がザイード伯爵に何をされようとしていたか、そして、ネロ君が私の首の刻印の仕掛けを解除してくれたこと」
「へっ、あんな豚の仕掛け、天才の俺様にかかれば朝飯前だ。……それに、あいつは王都の憲兵に突き出された。裏帳簿も明るみに出たから、実家の借金も無効になるはずだぜ」
「はい。……本当に、夢みたいです。私、一生あの方の籠の鳥になるしかないと諦めていたのに」
エレナ先生の瞳から、安堵の涙がこぼれ落ちる。
ネロはその涙を見て、ギュッと拳を握りしめた。
(……今だ。今言わなきゃ、俺は一生後悔する)
「あのさ、エレナさん」
ネロは一歩踏み出し、真っ直ぐに彼女の目を見た。普段の飄々とした態度は消え、そこにあるのは一人の男としての真剣な眼差しだった。
「俺、あんたのことが……好きだ。もしあんたが良ければ、俺と一緒に……」
だが、その先の言葉を紡ぐ前に、エレナ先生は少し驚いたように目を丸くし――やがて、優しく、けれど申し訳なさそうな微笑みを浮かべた。
「……ありがとう、ネロ君。貴方のような優秀で優しい方にそう言っていただけて、本当に光栄です」
「……」
「でも……ごめんなさい。私には、ずっと心に決めている人がいるんです」
エレナ先生は、自身の胸元をそっと押さえた。
「昔……いつも一緒に遊んでくれた幼馴染がいて。ある日突然引っ越していなくなってしまったんです。彼は『大きくなったら、絶対に迎えに行くから』と約束してくれたんです。……私はずっと、その言葉を信じて待っているんです。馬鹿ですよね?」
その瞳に浮かぶ、揺るぎない想い。それを目にした瞬間、ネロの『確率視』が、残酷なまでに自身の告白「成功率ゼロ」の未来を告げていた。
「……そっか、いや、きっと迎えに来るさ」
ネロは小さく息を吐き、いつものようにニシシと笑ってみせた。
「ちぇっ、なんだよ。俺様みたいな天才より、その幼馴染の方がいいってのか?エレナさんも案外見る目がないねぇ」
「ふふっ。ごめんなさい。でも、ネロ君にはきっと、もっと素敵な人が現れますよ」
「……へへっ。まぁ、そういうことにしておくぜ。……幸せになれよ、先生」
ネロは背を向け、手をひらひらと振って古書庫を後にした。その背中は、いつもの生意気な天才魔術師のものだったが……少しだけ、小さく見えた。
◆
同時刻、Fクラスの教室。
「……フラれたか」
俺が玉座(不良どもがカスタムした悪趣味な椅子)から声をかけると、教室に入ってきたネロの肩がビクリと跳ねた。
「う、うるせぇ!天才魔術師の俺様には、魔導の深淵という永遠の恋人がいるんだよ!女にかまけてる暇なんてねぇんだ!」
ネロは顔を真っ赤にして吠えながら、自分の席にドカッと座り、魔導書を顔に押し当てて顔を隠した。
「……パパ。この使い魔、泣いてるの?」
俺の膝の上で丸くなっていたフィオナが、アイスを咥えながら首を傾げる。
「泣いてねぇよ!目からちょっと汗が出てるだけだ!」
強がるネロに、俺はニヤリと笑って手元にあった高級クッキーの箱を投げてやった。
「まぁ、気にするな。失恋は男の勲章だ。甘いもんでも食って忘れろ」
「……チッ。恩に着るぜ、ヴェルト」
ネロがクッキーを囓りながら悪態をつく。これで、俺の抱えていた懸念は一つ片付いた。まぁ結果は残念だったが。
(…結局ザイードの特別室をダンジョンに作った学園側の協力者ってのは見つからなかったな…まぁ取り調べで何か分かるだろ。あとは国に任せるとするか)
そんな騒がしい朝の空気が、キーンコーンカーンコーン……というチャイムと共に一変した。
バンッ!!
教室の扉が乱暴に開かれ、いつものように葉巻チョコを咥えたジェシカ先生が、ハイヒールを鳴らして入ってきた。
「よう、掃き溜めのクズども!朝からええツラ構えしとるやんけ!」
元Sランク冒険者の担任の登場に、Fクラスの不良たちが「ウッス!」と威勢よく挨拶を返す。
「昨日のダンジョン実習はご苦労さんやったな!ウチのクラスから脱落者はゼロや!……まぁ、一部のバカがルート外れて貴族の屋敷で大暴れしたり、地下五階までカチコミかけてたんは内緒にしたるわ。学園長には『迷子になってました』言うて誤魔化しといたから安心せぇ!」
ジェシカ先生がニカッと笑ってウィンクする。
「さて、今日は実習二日目……と行きたいとこやが、その前にビッグなお知らせがあるで!」
ジェシカ先生が教卓をバンッと叩く。
「なんと、このFクラスに『転入生』が来るんや!しかも、とびっきりの大物が『二人』もやで!……入ってきぃ!」
先生の呼びかけに応じ、廊下から静かな足音が近づいてきた。
教室の入り口に姿を現したその人物たちを見た瞬間――Fクラスの教室が、水を打ったように静まり返った。
眩いばかりの銀髪を揺らし、優雅な微笑みを浮かべる少女。そして、その隣には、淡い水色の髪を揺らし、どこか不機嫌そうにツンと顎を上げる少女。二人とも、仕立ての良い学園の制服を完璧に着こなしている。
その歩くたびにこぼれ落ちるような高貴な気品は、この掃き溜めのようなFクラスの空気とは、あまりにも絶望的に不釣り合いだった。
「……ごきげんよう、皆様。本日からこの学園、そしてこのクラスでお世話になりますわ」
銀髪の少女は優雅にスカートの裾をつまみ、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露した。
「シャルロット・ヴァン・ドラグーンと申します。……どうぞ、よろしくお願いいたしますわね?」
「……シルヴィア・ヴァン・ドラグーンです。よろしくお願いします」
水色の髪の少女も、素っ気なく、だが凛とした声で名乗った。
――シーン。
数秒の空白。
そして。
「「「ど、ドラグーン!?しかも二人!?」」」「「「第二王女殿下と第三王女殿下ァァァ!?」」」
Fクラスの野郎どもが、一斉に椅子から転げ落ち、パニックに陥って土下座を始めた。当然だ。雲の上の存在である王族が、なぜか最底辺のクラスに転入してきたのだから。
だが、そんな周囲のパニックをよそに、俺は顔を引きつらせていた。
(……おいおい。原作じゃ、シャルロットが学園に編入してくるのは、勇者が入学してしばらく経った『学園編の中盤』だったはずだぞ!?なんでこんなに序盤で……しかも、シルヴィアが学園に入学するなんてイベント、原作には存在すらしなかったはずだ!)
俺が国王を助け、彼女たちの悩みを解決した影響で、シナリオが大きく狂ったのか?いや、そもそもAクラスではなく、Fクラスに来る理由がない。
「……おい、シャルロット、それにシルヴィアまで。お前ら、なんでここにいる」
俺が玉座から身を乗り出して問い詰めると、シャルロットはパチンと扇子を開き、口元を隠して悪戯っぽく微笑んだ。
「あら、ヴェルト様。そんなに驚いた顔をなさらないでくださいな。……父上の病が癒え、王宮も落ち着きを取り戻しましたので、本来の予定通り『学園での教育』を受けることになりましたの。それに……」
彼女はツカツカと俺の元へ歩み寄り、至近距離で顔を近づけてきた。
「父上から『国を救った若き英雄の身の回りのお世話をし、決して他の女に奪われぬよう、しっかりと外堀を埋めてきなさい』という特別な勅命も頂いておりますし?」
「……あの狸親父ィィィ!!」
俺は思わず天を仰いだ。あの冗談、本気で実行に移しやがった。
「か、勘違いしないでくださいね!」
シルヴィアが顔を赤らめながら、慌てて口を挟む。
「私は別に、貴方のそばにいたいわけじゃありません!ただ、私の専属の『アイス供給係』が手の届かないところにいると不便だから、監視しに来ただけです!契約書にもサインしましたよね!?ね!?」
「監視ならAクラスからでもできるだろ……」
「なっ……!?」
隣の席で、クリスがガタッと立ち上がった。
「お、王女殿下お二人!?論理的に考えておかしいですわ!王族が編入されるなら、警備の行き届いたAクラスのはず!なぜこのような吹き溜まりに……!」
「あら、クリスティーナ公爵令嬢。貴女もAクラスから出張してきているではありませんか」
シャルロットが涼しい顔で切り返す。
「わたくしたちは、理事会に『ヴェルト様と同じクラスでなければ、この学園ごと王家の直轄地として解体しますわよ?』と少しだけ『お願い』をしただけですわ。理事長も快く承諾してくださいましたの」
(ベルガモット学園長が『ヒィィィィン!』って言いながら書類にハンコを押す姿が目に浮かぶぜ……)
「それに……」
シャルロットはチラリと、教室の隅に視線をやった。
「王都のホテルでお留守番をしているはずの『メイド』さんが、何故か学園の窓の外から、凄まじい殺気でこちらを睨んでおりますし?……ここでわたくしたちが監視の目を緩めれば、いつヴェルト様が寝首を掻かれるか分かりませんからね」
「……ッ!!」
俺が慌てて窓の外を見ると、木陰から双眼鏡でこちらを監視しているマリアの姿があった。目が合った瞬間、彼女は「後で王女たちを暗殺します(手話)」というジェスチャーをして森の中に消えていった。
……頭が痛い。
「ヴェルト様!ズルいです!抜け駆けです!私という従者役がいながら、王女様お二人まで……!そんなの私の出番が減っちゃいます!」
ニーナが涙目でプロテインシェイカーを握りつぶしている。
「カッカッカ!オモロイやんけ!Fクラスに王女様二人とはな!これでウチのクラスの権力は学園最強やで!ヴェルト、お前ホンマに女の趣味だけは魔王級やな!」
ジェシカ先生がバンバンと机を叩いて大ウケしている。やめろ、勘違いが加速する。
「……はぁ。好きにしろ。ただし、俺の平穏な昼寝を邪魔するなら、王女だろうが関係ないからな」
俺が渋々了承すると、シャルロットは嬉しそうに俺の隣の席(不良どもが慌てて用意した新品の椅子)に腰を下ろした。シルヴィアも反対側の席をちゃっかり陣取る。
「ええ、勿論ですわ。……ヴェルト様の安眠は、わたくしが『添い寝』して守って差し上げますわ♡」
「アイスの時間は厳守ですからね。寝ていたら起こしてあげます」
「だからそれが邪魔だって言ってんだよ」
◆
一方、その頃。
Aクラスの教室では、勇者アレクが窓の外を眺めながら、不機嫌そうに舌打ちをしていた。
「……王女の編入、か。厄介ごとが起こりそうだな」
「ええ。ですが、あろうことかあの野蛮なFクラスを希望したそうですわ。……王家の威信に関わりますね」
隣でセレスティアが、冷ややかな声で同意する。
だが、彼女の瞳の奥には、アレクとは違う種類の――焦燥と敵意が渦巻いていた。
(……シャルロット王女とシルヴィア王女。王都の教会の計画を狂わせた要因。……それが、ヴェルトの側に張り付いた。マズいですね……これでは、勇者(アレク様)の視線が、ますます『あちら』に向いてしまいます)
セレスティアは、アレクの腕にそっと触れた。
「アレク様。あのような者たちに関わる必要はありません。今日の放課後は、私と……」
「いや。今日の放課後は予定がある」
アレクが、セレスティアの手を静かに、しかし断固として外した。
「ダンジョンの下層。……あそこには、俺が確かめなければならない『何か』がある気がするんだ」
彼の瞳に宿る、抗いがたい本能。
それは、教会の洗脳すらも上書きしようとする、勇者としての直感か、それとも何者かの意思か。それはまだ分からない。




