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57.絶望の格差

 ――謝罪はしない。ただ、送る。


「……ゆっくり休みな、ゲインズ」


 ズシィィィン……。


 土煙を上げて、怪物は沈黙した。


 悲恋の騎士は、救済されることなく、ただの肉塊としてその生涯を閉じた。



「……パチ、パチ、パチ」



 静寂が戻った広場に、場違いに軽やかな拍手の音が響いた。


「ブラボー!素敵、素敵ぃ!愛する人の名を叫んで、ぐしゃぐしゃの肉塊になって死んじゃうなんて……!ああ、たまらないわ……♡これこそ『悲劇』!これこそが『信仰』の極致ですわね!」


 瓦礫の上で、メルフィがうっとりと頬を染めている。


 教会の同胞なかまであるはずのゲインズの死。だが、彼女の瞳に哀悼の色は微塵もない。あるのは、極上のデザートを前にした子供のような、無邪気で残酷な食欲だけ。彼女は熱っぽい吐息を漏らし、あろうことか、ゲインズの血肉が散らばった惨状を見て、恍惚に身をくねらせていた。


「あはっ♡」


 その、鈴を転がすような笑い声が、俺の理性の最後の糸を焼き切った。


 俺の中で、冷え切っていた殺意が沸点を超え――蒸発した。


「……死ね」


 刹那、俺は地面を踏みしめ跳躍した。


 ドォォォンッ!!


 足元の瓦礫が、踏み込みの衝撃だけで微細な粒子へと還る。


 【敏捷2500】超えの最高速。音すら置き去りにする神速の突進。さっきの投擲とは次元が違う。この距離、この速度。瞬きする暇すら与えないゼロ距離の強襲。


(幻術?関係ねぇ、発動する前に潰す……ッ!)


「その首、置いていけェッ!!」


 殺意を凝縮した右の手刀が、大気を裂いて唸りを上げる。狙うはメルフィの無防備な首筋。触れれば頚椎ごと頭部を切断する、必殺の刃が肉薄する。



 ――カィンッ。



 硬質な音が響いた。


 俺の手刀は、メルフィの首に届く寸前で静止していた。彼女が動いたわけではない。魔法障壁でもない。


 ただ、彼女が手に持っていた聖書の『角』で、俺の一撃を受け止めていたのだ。視線すら、こちらに向けずに。


「……は?」


 俺は愕然とした。


 今の一撃は、ただの手刀じゃない。


 枢機卿、そしてゲインズとの死闘を経て成長レベルアップした俺の【筋力】は、もはや3000の大台を超えている。鋼鉄の城門だろうが、ドラゴンの鱗だろうが、紙屑のように粉砕してのける絶対的な質量攻撃だ。


 それを、こんな華奢な少女が、あろうことか片手で持った「本」で受け止めた?衝撃を殺したわけでも、受け流したわけでもない。俺の全運動エネルギーを、彼女は手首の力だけで「静止」させたのだ。足元の瓦礫一つ、きしませることなく。


「あらあら。血気盛んですねぇ、領主様」


 メルフィがゆっくりとこちらを向く。その瞳は、とろけるように甘く笑っていた。だが、その奥底にあるのは、敵意ですらない。人間が路傍の蟻を見る時のような――圧倒的な『無関心』と『余裕』。


「っ……オラァッ!!」


 俺は思考を捨て、追撃を放つ。右、左、肘、膝。【敏捷2500】超えが生み出す神速の連撃。大気を置き去りにし、ソニックブームが周囲の瓦礫を巻き上げる。傍目には無数の腕が生えたかのように見える、必殺のラッシュ。ありとあらゆる攻撃を、殺意を込めて叩き込む。


 だが、当たらない。掠りもしない。


 彼女は、あくびが出そうなほど最小限の動き――首をコクリと数センチ傾ける。優雅なステップで半歩下がる。


 そして、面倒くさそうに聖書の表紙で俺の拳を弾く。


 それだけで、俺の全力が完全に無効化されていた。


 俺の拳が空を切るたびに暴風が吹き荒れるが、彼女の蜂蜜色の髪は、その風にそよぐことすらない。まるで、大人が子供のじゃれ合いを、微笑ましくあしらうように。


「な、んだ……こいつ……ッ!?」


 肌で感じるプレッシャーが違う。ゲインズが「暴走したトラック」なら、こいつは「静止した山」だ。どれだけ殴っても、ビクともしない絶望的な質量差。


「ふふっ。動きは悪くありませんわ。教会の要注意人物リストに載るだけはあります」


 メルフィはクスクスと笑いながら、俺の蹴りを指先一本で止めた。


「ですが……『軽い』ですわね」


 トンッ。


 彼女が俺の額を、デコピンのように弾いた。


 ドゴォォォォォンッ!!!!


 ただそれだけの動作で、俺の体は砲弾のように吹き飛び、広場の端まで転がっていった。


「が、はっ……!?」


 視界が明滅する。脳が揺れる。


 ダメージの質がおかしい。物理的な衝撃だけじゃない。魂ごと削り取られるような、高位の神聖魔術が乗っている。


(……化け物か。なんだコイツは、手も足も出ないってのか……?)


 物理が通じないなら、せめて情報だけでも。俺は霞む視界を無理やり彼女に固定し、鑑定を発動しようとした。


 レベル、ステータス、スキル。その化けの皮を剥いで、弱点を見つけ出してやる――。


「――んーっ!メッ、ですよ?」


「……あ?」


 スキルが発動する寸前。メルフィがいたずらっぽく片目を閉じ、唇の前に人差し指を立てて「シーッ」というポーズを作った。


 バヂィッ!!


「ぐあぁっ!?」


 俺の両目が焼けるような痛みに襲われた。脳内に表示されるはずのウィンドウが、真っ赤なノイズで塗りつぶされる。


 鑑定結果――『閲覧拒否アクセス・デナイト』。


 ステータスはおろか、名前すら表示されない。魔法的な隠蔽カモフラージュじゃない。格が違いすぎて、システム側が「見る」ことすら許容していない。


「乙女の秘密スリーサイズを勝手に覗こうなんて、エッチな殿方は嫌われますわよ?……次やったら、その目玉、くり抜いて差し上げますね♡」


 キャハッ、と無邪気に笑う彼女の背後に、底なしの闇が見えた気がした。


 俺は震える足で立ち上がる。勝てない。本能がそう告げている。


 物理攻撃は通じない。鑑定も弾かれた。


 なら、残る手札は『これ』しかない。


(一か八かだ……!)


 俺は奥歯が砕けるほど噛み締め、最後の力を左手に集中させた。相手のステータスでも、スキルでも、魔力でもいい。何か一つでも奪い取れれば、この絶望的な格差をひっくり返せるかもしれない。


「まだだ……ッ!」


 俺は死力を振り絞り、彼女へと突っ込んだ。剣ではない。左手だ。彼女の体に触れさえすれば――!


「――『奪取スナッチ』ッ!!」


 俺の指先が、メルフィの肩に触れる。成功を確信した、その瞬間。


「あら、泥棒猫さん?」


 スキルが――発動しない。何も奪えない。何も起きない。まるで、巨岩に指を押し付けたかのような無反応。


「え……?」


「くすっ。残念でした♡」


 メルフィが俺の手首を優しく掴み、小首をかしげた。


「学校で習いませんでしたか?即死や強奪これ系のスキルは、対象との『レベル差』で成功率が補正されるって」


 彼女は俺の耳元に顔を寄せ、残酷な真実ルールを囁いた。


「貴方と私じゃ、次元レベルが違いすぎます。……確率ゼロですよ?無駄なあがきはおよしなさい」


 ドォォンッ!!


 彼女が掴んだ手首を軽く払う。ただそれだけの動作で、俺の体は枯れ葉のように吹き飛び、再び地面を転がった。


「が、はっ……」


 万策尽きた。物理も、情報も、搦め手も。全てがこの理不尽な暴力の前では児戯に等しい。


「あら、まだ遊んでいただけますの?嬉しいですわ。壊れるまで付き合って差し上げ……」


 メルフィが嗜虐的な笑みを深め、一歩踏み出そうとした、その時。



「ヴェルト君ッ!!」



 路地裏から、息を切らせた女性が飛び出してきた。ロザリアだ。


 彼女は地味な外套を翻し、必死の形相で駆け寄ってくる。先ほど裏路地で逃亡する司祭を締め上げ、この事態の「真相」を吐かせてきたのだ。


「あいつの正体がわかったわ!あれは聖騎士団長のゲインズよ!あの大馬鹿が、地下の封印を解いて自ら魔人に……!」


 彼女は走りながら、掴んだばかりの重要な情報を叫んだ。


 だが、その報告が最後まで紡がれることはなかった。


 広場の惨状。物言わぬ肉塊と化したゲインズ。


 そして何より――そのむくろの上で楽しげに笑っている「少女」の姿。


 それを見た瞬間、ロザリアの足が凍りついたように止まった。


「……え?」


 ロザリアの顔から、一瞬で血の気が引いていく。

 その瞳に浮かんでいるのは、驚愕ではない。根源的な『恐怖』だ。


「きょ……局長……?」


 その呟きを、メルフィの耳は逃さなかった。


「おや?」


 メルフィがゆっくりと振り返る。


 ロザリアを見るその目は、今まで俺に向けていた「玩具を見る目」とは違う。所有者が、脱走したペットを見る目だ。


「まあ、まあ!誰かと思えば……行方不明になっていた私の可愛い部下、ロゼちゃんではありませんか!」


 メルフィがパァッと顔を輝かせる。


 だが、ロザリアはガタガタと震え、後ずさりすることすら忘れて硬直している。


「あ……あ、あ……」


「ロザリア!逃げろッ!!」


 俺が叫ぶが、彼女の耳には届いていない。メルフィ・アンスバッハ。異端審問局局長。ロザリアにとって彼女は、かつての上司であり――絶対的な『支配者』なのだ。


「探しましたよぉ?枢機卿の使い走りを頼んだら、そのまま帰ってこないんですもの。……まさか、こんな異教徒と仲良くお散歩していたなんて」


 シュンッ。


 メルフィの姿が掻き消えた。次の瞬間、彼女はロザリアの目の前に立っていた。


「ひッ……!?」


 ロザリアが腰を抜かす。


 メルフィは優しく、慈しむようにロザリアの頬を撫でた。その指先が、彼女の肌に食い込む。


「悪い子ですねぇ。飼い主の手を噛んで逃げ出すなんて。……お仕置き、覚悟できていますよね?」


「ご、ごめんなさ……局長、許し……!」


 歴戦の処刑人であるはずのロザリアが、子供のように泣いて許しを請うている。


 それだけで、メルフィという存在が彼女に植え付けた恐怖の深さが知れようというものだ。


「……てめぇ、その手ェ離せ!!」


 俺は力を振り絞り、二人に向かって駆け出した。


 だが、メルフィはチラリと俺を一瞥し、興味なさそうに鼻を鳴らした。


「……興ざめですわ」


 彼女はロザリアの頬から手を離し、パパンと埃を払った。


「野暮な男に邪魔されては、教育もままなりません。……それに、今日はもう十分『愉しみ』ましたから」


 足元に転がるゲインズの死体。


 彼女にとっては、この悲劇の騎士を処分し、俺たちの絶望顔を見られただけで、今日の「娯楽」は満たされたらしい。


「ロゼちゃん。貴女の処分は保留にしてあげます。……だって、その方が面白いもの」


 メルフィはニッコリと笑い、ロザリアの耳元で囁いた。


「精々、その男に尻尾を振って生き延びなさい。……いつか私が、その『希望』ごと貴女たちを圧し折ってあげるその日まで」


 言い捨てると、彼女の背後に巨大な転移魔法陣が展開された。


「それではごきげんよう、領主様。……次にお会いする時は、もっと素敵な悲鳴を聞かせてくださいね♡」


 甘い毒のような言葉を残し、最悪の聖女は光の中に消えた。


 残されたのは、物言わぬゲインズの骸と、恐怖で動けなくなったロザリア。そして、己の無力さを噛み締める俺だけだった。


「……クソッたれが」


 俺は地面を殴りつけた。完敗だ。


 ゲインズは救えず、メルフィには指一本届かず、ロザリアにはトラウマを植え付けられた。


 これが、俺がこれから挑もうとしている、世界の闇の深淵か。


(……覚えてろよ、メルフィ)


 俺はゲインズの死に顔を見つめ、静かに誓った。


 この借りは、必ず返すと。

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