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48.閑話 英雄になれなかった男

 王都の裏路地。ドブ川の悪臭が漂う暗がりに、一人の男がゴミのようにうずくまっていた。


「……ぐ、ぅ……あぁ……クソッ……」


 聖騎士隊長ゲインズ。


 腫れ上がった顔面を泥水に浸し、彼は嗚咽を漏らしていた。体中の骨が軋む。だが、それ以上に痛むのは、ズタズタに引き裂かれたプライドだった。


 腰にあるのは、へし折られた安物の剣。


 それが、今の自分の全てだった。


       ◆


 ――かつて、ゲインズは物語の主人公を夢見ていた。


 貧しい辺境の村。何もなかったが、隣にはいつも幼馴染の少女、リリィがいた。太陽のような笑顔で笑う、栗色の髪の少女。ゲインズは彼女に誓った。『俺が強くなって、お前を守る騎士になるんだ』と。木の棒を振り回し、将来を夢見ていたあの頃。自分は世界の中心にいて、努力すれば何にでもなれると信じていた。


 だが、現実は残酷なほどあっけなく、その万能感を粉砕した。


 あの日。村に視察に来た領主の馬車。肥え太った貴族が、窓から気まぐれにリリィを指差した。


『ほう。野に咲く花にしては愛らしい。屋敷のメイドにしてやろう』


 それは提案ではなかった。決定事項だった。


 兵士たちがリリィの細い腕を掴み、無理やり引き立てていく。


『いや! ゲインズ、助けて!』


 悲鳴が、少年の脳髄を焼いた。ゲインズは恐怖をねじ伏せ、木の棒を握りしめて飛び出した。物語の主人公なら、ここで覚醒し、悪党を倒してヒロインを救うはずだ。


『やめろォォッ! リリィを離せェェッ!』


 だが、奇跡は起きなかった。


 護衛の騎士が、虫を払うように振るった剣の柄で、ゲインズの顔面を砕いたのだ。


『……汚らわしい。身の程を知れ、農民風情が』


 地面に這いつくばり、泥水を啜った。視界が血で滲む中、遠ざかっていく馬車を見た。リリィが泣き叫びながら、こちらに手を伸ばしていた。


『ゲインズ……! ゲインズぅ……!』


 何もできなかった。


 立ち上がることさえできなかった。


 ただ泥の中で震え、大切な幼馴染が、薄汚い欲望の餌食として連れ去られるのを、指をくわえて見ていることしかできなかった。


 その日、少年の中の「主人公」は死んだ。


       ◆


 あれから、数ヶ月。風の噂が届いた。


 リリィは屋敷で酷い扱いを受け、心が壊れて、どこかの奴隷商に払い下げられたと。生きているのか、死んでいるのかすら分からない。


 その夜、ゲインズは盗んだナイフ一本を握りしめ、雨の中を走った。恐怖はなかった。あるのは、内臓が焼け付くような殺意だけだった。警備の隙を突き、領主の寝室へと忍び込んだ少年は、ふかふかのベッドで高鼾をかいて眠る「仇」の姿を見下ろした。


『……起きろ。リリィはどこだ』


 ナイフを突きつけられ、目を覚ました領主は、あろうことか不機嫌そうに鼻を鳴らした。


『あぁ? 誰だ貴様……。リリィ? 誰のことだ、それは』


 覚えてすらいなかった。


 自分たちにとっての全てを奪っておきながら、この男にとってそれは、昨日の食事のメニューほども記憶に残らない些細な出来事だったのだ。


 プツン、と。ゲインズの中で、人としての最後の一線が切れた。


『思い出させてやるよ……ッ!!』


 振り下ろしたナイフが、肥え太った首筋に吸い込まれた。


 一度では止まらなかった。鮮血が噴き出し、悲鳴が上がるのも構わず、ゲインズは何度も、何度も刃を突き立てた。かつて自分たちを見下したその目が光を失い、ただの肉塊に変わるまで、獣のように咆哮しながら刺し続けた。


 やがて、動かなくなった死体の前で、ゲインズは血まみれの手を見つめ、呆然と立ち尽くした。


 ――何も、変わらなかった。


 悪を殺しても、リリィは帰ってこなかった。屋敷中を探し回っても、彼女の痕跡はどこにもなく、残されていたのは奴隷商への売買契約書と思われる紙切れ一枚だけ。仇を討っても、胸に残ったのは達成感などではなく、底なしの「虚無」と、自分の手が汚れたという事実だけだった。


 ゲインズは故郷を捨てた。正義など信じなかった。綺麗事では何も守れないことを、骨の髄まで理解したからだ。


『力が欲しい。……何をしてでも、どんなに汚れてでも、あいつら(権力者)の上に立つ力が』


 聖騎士団に入った。剣の腕を磨くだけでは足りなかった。上司に媚び、汚れ仕事を引き受け、ライバルを罠に嵌めた。かつての自分が軽蔑していた「悪党」そのものになり果てても、彼は止まらなかった。


 出世すれば、情報が入る。


 権力を握れば、いつかリリィの行方を捜せるかもしれない。人間の屑であることが分かったうえで、枢機卿にも取り入った。使えるものは何でも使った。

 

 もしかしたら、世界のどこかで彼女は生きていて、今の自分なら救い出せるかもしれない。


 その一縷の、縋るような希望だけが、彼を突き動かしていた。鏡を見るたびに映る、薄汚れた大人の顔。自分への失望と嫌悪感。それを酒で誤魔化し、権力という鎧で隠して生きてきた。市場の取り立ても教会で出世するためには必要だ。


 ――そうして手に入れた「隊長」の地位だったのに。



 ヴェルト・フォン・アークライト。



 あの少年が現れて、全てを壊した。


 彼は持っていた。圧倒的な「力」を。


 忠実で強力な「仲間」を。


 そして何より、どんな理不尽もねじ伏せ、自分の大切なものを守り抜く「強さ」を。


 あの少年の瞳には、迷いがなかった。自分がかつて夢見て、挫折し、諦めた「物語の主人公ヒーロー」の輝きが、皮肉にも「悪徳領主」の姿をした少年に宿っていたのだ。


 それが、どうしようもなく羨ましく、妬ましく、許せなかった。


「……あぁぁぁぁぁッ!!」


 ゲインズは裏路地の壁に頭を打ち付けた。血が流れる痛みだけが、彼がまだ生きていることを実感させた。


 枢機卿は捕まった。市場での集金も満足にこなせなかった自分を教会は見捨てるだろう。


 自分の地位も終わりだ。リリィを探すための権力も、金も、人脈も、全て失った。


 結局、自分はあの日の泥まみれの少年のまま、何も変わっていなかったのだ。


「……嫌だ。終わりたくない……!終わる訳にはいかない」


 ゲインズの瞳に、暗く濁った狂気が宿る。彼は懐から、混乱に乗じて盗み出した「鍵」を握りしめた。


「まだだ。……まだ、手はある」


 教会の地下宝物庫。そこに封印されている『禁忌の遺物』。人の身を捨て、怪物へと成り果てる劇薬や魔道具。


「力が……誰も俺を無視できない圧倒的な力が手に入れば……」


 歪んだ論理。だが、今の彼にはそれしか残されていなかった。ヴェルトを殺せば、失った自信が戻る気がした。あいつを踏みにじれば、あの日リリィを守れなかった自分の無力さを、否定できる気がした。


「リリィ……。見ていてくれ。俺は、俺は……!」


 誰に言い訳をするように、彼は虚空に向かって呟いた。


 その目には、涙が溢れていた。


 かつて正義を信じた少年は、今や復讐と自己保身の亡者となり、禁断の扉へと足を向ける。


 自分が「物語の悪役ヴィラン」に成り下がったことすら気づかずに。


「ヴェルトォォォ……ッ!!」


 闇に響く慟哭は、届かぬ夢への葬送曲のように響き渡った。

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