25.閑話 メルザ
歓楽都市ゾルダン。その地下深くに存在する『闇闘技場』。欲望と熱狂が渦巻くその場所で、一つの伝説が生まれようとしていた。
「勝者ァァッ! 『紅の戦乙女』、メルザァァァッ!!」
司会者の絶叫と共に、満員の観客席から割れんばかりの歓声が沸き起こる。リングの中央。スポットライトを浴びて立っているのは、燃えるような赤髪をなびかせた長身の美女――メルザだった。足元には、彼女の倍はある大男が白目を剥いて伸びている。
「ふぅ……。つまんないわね。もっと歯ごたえのある奴はいないの?」
メルザは赤髪をかき上げ、汗ばんだ肌に張り付いたサラシを直しながら不敵に笑った。Aランク冒険者にして、格闘家。彼女の拳は岩を砕き、そのステップは風よりも速い。
――控え室に戻ったメルザを待っていたのは、腐った脂の臭いだった。
「ケケケッ。相変わらず強いねぇ、メルザちゃん」
闇金融組織『金喰い虫』の支部長、ゴズが下卑た笑みを浮かべて立っていた。
「……何の用? あんたみたいな悪党に挨拶する義理はないんだけど」
「つれないねぇ。今日はビジネスの話を持ってきたんだよ」
ゴズは分厚い札束をテーブルに放り投げた。
「次の決勝戦。……負けてくれや」
「は?」
「相手はウチが推してる新人だ。オッズはあんたの一本被り。ここであんたが負ければ、俺たちは大儲けできる。……この金は手付金だ。成功すれば、この十倍は出すぜ?」
いわゆる八百長の誘い。メルザの瞳が、軽蔑の色で冷たく光った。
「断るわ」
「あぁん? 孤児院のガキどもに美味いもん食わせてやりたくねぇのか?」
「汚い金で買ったパンなんて、あの子たちは喜ばないわ。……それに」
メルザは札束を掴むと、ゴズの顔面に叩きつけた。
「そもそも、あんた達があの孤児院に違法な借金を背負わせて、それを帳消しにする条件で私はこの闇闘技場にいる。私が優勝したら条件通り冒険者に戻る。その間あんた達は孤児院に手は出さない。これが全てよ、忘れないで貰いたいものね。本来、私の拳は三流の賭け事に使うためのもんじゃないのよ!」
「……へぇ。後悔するぜ?」
ゴズは散らばった札を拾うこともせず、ドス黒い殺気を残して部屋を出て行った。
◆
数日後の決勝戦。メルザは、ゴズの脅しに屈することなく、対戦相手を1ラウンドでKOした。圧倒的な勝利。会場は沸いたが、主催者席の『金喰い虫』たちは、能面のような無表情でそれを見つめていた。
「やったわ! これで優勝……!」
意気揚々と孤児院へ帰ったメルザ。しかし、そこで彼女を待っていたのは、子供たちの笑顔ではなく――静寂と、破壊された部屋だった。
「……院長先生? みんな?」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。奥の部屋から、見覚えのある豚のような男が出てきた。
「おかえり、チャンピオン」
ゴズの手には、血まみれの老婆――孤児院の院長が髪を掴まれて引きずられていた。
「院長先生ッ!!」
「来るなッ!!」
ゴズが老婆の首にナイフを突きつける。
「一歩でも動いてみろ。このババアの喉を切り裂くぞ」
「ひ、卑怯よ! 私との約束はどうなったの!? 孤児院には手を出さないって……!」
「約束? 八百長を断ったアマが何を言ってやがる。……大人しくこっちに来い。そして、この薬を飲め!」
ゴズが足元に放り投げたのは、ドス黒い液体が入った小瓶。違法な強化薬物と、魔力を暴走させる毒薬のカクテルだ。
「それを飲んで、俺たちのペットになれ。そうすりゃ、このババアとガキどもは見逃してやる」
メルザは唇を噛み締め、血が滲むほど拳を握りしめた。今すぐ飛びかかって、この外道の顔面を粉砕したい。だが、その一瞬の間に、院長の命は失われるだろう。
「……分かったわ」
メルザは震える手で小瓶を拾い上げた。
「メルザ、ダメよ! 逃げなさい!」
「ごめんなさい、先生。……みんなを、頼みます」
彼女は一気に薬を煽った。
「飲んだな…ひひひ」
――そこからの記憶は、曖昧だ。
焼けるような激痛。千切れるような筋肉の痙攣。意識が混濁する中、冷たい地下牢へと運ばれ、来る日も来る日も実験が繰り返された。『もっと魔力を流し込め!』 『脳のリミッターを外せ! 人格など不要だ!』脳が溶ける。私が消える。
誇り高かった『紅の戦乙女』は死んだ。
代わりに生まれたのは、痛みと破壊衝動に支配された、醜い赤き獣。
(……殺して……誰か……私を……)
残された最後の理性が、暗闇の底で音もなく叫んだ。そして、鎖が解かれる音が聞こえた。
「……ヒヒッ。腹が減ってるか、メルザ。仕事だ」
「さあ、行け! 俺の命令をき――」バチュンッ。
獣は解き放たれた。目の前にある全てを破壊するために。
それが、かつて自分が守ろうとした世界であったとしても、もう彼女には分からない。
ただ、救いを求めるように、彼女は夜空に向かって絶叫した。
「グルルルルァァァァァァァァッ!!!」
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