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14.執事

 ヴェルト様が出立されてから、半日が経過しました。


 あるじのいない屋敷は、火が消えたように静まり返っています。本来なら、この静寂こそが執事にとって安息の時間なのかもしれません。ですが、今の私にとって、ヴェルト様の活気ある(そして少々乱暴な)声が聞こえない時間は、退屈以外の何物でもありません。


 私は執務室の窓を磨きながら、独りごちました。ですが、私には私の戦場があります。ヴェルト様は仰いました。「教会に不審な動きがある」と。あの方の勘は、歴戦の将軍よりも鋭い。ならば、必ず『客』は来るはずです。


 ザッ……。


 窓の外、庭の植え込みから、微かな――常人なら風の音と聞き間違えるほどの、衣擦れの音がしました。


「……おや。噂をすれば、なんとやら。随分とマナーのなっていないお客様ですね」


 私は磨き上げた窓ガラスに満足げに頷くと、愛用のシルバーナイフを懐に忍ばせ、音もなく部屋を出ました。


       ◆


 深夜。屋敷の地下、かつてワインセラーだった場所で、私は一人の男と対峙していました。男は全身を黒い装束で包み、顔には仮面をつけています。勇者アレク様を連れ去った者たちと同じ格好。聖教会の暗部『異端審問官』の実行部隊でしょう。


「……貴様、ただの執事ではないな。その足運び、気配の断ち方」


 男が低い声で問います。その手には、不気味に波打つ短剣が握られていました。


わたくし、この屋敷の執事をしております、セバスチャンと申します。屋敷の汚れには敏感なタチでしてね。特に……貴方のような『泥』が入り込むと、空気が澱むのです」


 男が地面を蹴りました。速い。レベルにして30前後でしょうか。一般の兵士なら、その姿を捉えることすらできずに喉を掻き切られるでしょう。


 カィィィィンッ!


 金属音が響き、男の短剣は、私の指の間に挟んだ一本のシルバーナイフによって受け止められました。鍔迫り合いの最中、男の目が私の剣技を見て見開かれます。


「そのナイフ捌き……そして、その構え。まさか、貴様……!」


「…」


「王宮騎士団、第三部隊長……『剣鬼』セバスチャン・フォン・ルードか!?」


「おや、ご存知でしたか?」


 懐かしい二つ名です。男は距離を取り、忌々しそうに私を睨みつけました。


「教会が裏で手を回し、汚職の罪を着せて王都から追放したはず。まさか、こんな辺境の悪徳領主の下で飼い犬になっていたとはな」


「飼い犬ではありません。誇り高き執事です」


「哀れな男だ。貴様が騎士の地位を捨ててまで守ろうとした、あの『証人の少女』……貴様が追放された後、どうなったか知っているか?」


 私の動きが一瞬、止まりました。3年前、私が告発しようとした大貴族の不正。その唯一の証人だった少女。私は彼女の命と引き換えに、罪を被って騎士団を去ったのです。彼女は遠くへ逃がしたはず。


 男は仮面の下で、下卑た笑い声を上げました。


「あの3日後だよ。とある貴族……バルデル伯爵の手によって、口封じに殺されたさ。手足を切断され、無残な姿でな」


「…………バルデル」


「貴様の犠牲は無駄だったんだよ!正義など、我ら教会の権威の前では無力なんだ!」


 精神的な揺さぶり。熟練の手口です。私の胸の奥で、古傷が疼きました。無力感、絶望、そして怒り。かつての私なら、これで剣が鈍ったかもしれません。


 ですが。


「……そうですか。彼女は、救えなかったのですか」


 私は静かに息を吐き、ナイフを構え直しました。


「ですが、今の私には守るべき主がいます。過去の亡霊ごときで、私の刃は止まりませんよ」


 ヒュンッ!


 私は一瞬で間合いを詰めました。男が反応するよりも速く、その手首、肩、太腿の腱を正確に切り裂きます。


「が、あぁぁぁぁッ!?」


 男が崩れ落ち、床に這いつくばりました。私はその首元にナイフを突きつけ、冷たく見下ろしました。


「終わりです。さあ、答えなさい。連れ去った勇者を、どこへ隠しましたか?」


「はぁ、はぁ……!言うものか……!」


「言わなければ、指を一本ずつ……」


「無駄だ!我々は神の使徒!貴様らごとき異端には屈しない!!」


 男が叫ぶと同時に、奥歯を噛み締めました。仕込んであった毒でしょう。


「神よ、我に栄光あれぇぇぇッ!!」


 ドサッ。


 男は口から泡を吹き、絶命しました。尋問の余地すら与えない、見事なまでの自決。狂信ゆえの行動とはいえ、その覚悟だけは本物でした。


「……敵ながら、あっぱれです」


 私は男の死に顔に、短く敬意を表しました。組織は腐っていても、末端の兵士には矜持があったようです。


 私は遺体を調べ始めました。勇者の居場所を示す地図や手紙はありません。完全に証拠を隠滅しています。


「……おや?」


 男の懐から、小さな石ころが転がり落ちました。一見するとただの石ですが、微かに青白く発光しています。


「これは……『月光石ムーンライト・オア』の原石ですかね?」


 私は記憶の糸を辿りました。この鉱石は、特殊な魔力を帯びており、大陸でも限られた場所でしか採掘できません。確か、王都の北西に位置する険しい山岳地帯、『迷わずの渓谷』の奥深くにある洞窟でのみ産出されるはず。


「勇者の居場所のヒント……かもしれませんね」


 私はその石をハンカチに包み、大切にポケットにしまいました。ヴェルト様が戻られたら、すぐにこれをお渡ししましょう。あの博識な主なら、ここから敵の本拠地を割り出せるはずです。


 私は地下室を出て、廊下を歩きます。過去の傷は痛みます。救えなかった少女のことも、胸に重くのしかかります。ですが、今は感傷に浸っている暇はありません。


 今の私には、守るべき「主」がいるのですから。


「……ヴェルト様。貴方様の覇道、このセバスチャンがお支えいたしますよ」


 静かな屋敷に、私の足音が響きました。それは力強い音色でした。

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