表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/21

12.閑話 マリア

私の値段は、銀貨3枚でした。


 それが、貧しい農村で口減らしのために売られた、マリアという少女につけられた価値でした。7歳の時、私は両親に泣いて縋り付きましたが、父は私を見ようともせず、人買いの男から小銭を受け取りました。あの時の、生温かくて絶望的な夕暮れの色を、私は今でも鮮明に覚えています。


 連れてこられたのは、アークライト子爵家の屋敷。そこは私にとって『地獄』そのものでした。


 最初の悪魔は、領主であるベルン旦那様でした。


「おい、薄汚いガキ!目障りだ、そこをどけ!」


 ドガッ!


 廊下の隅を歩いていただけの私を、旦那様は汚物でも見るような目で蹴り飛ばしました。彼にとって使用人は、人間ではありません。言葉を話す家具か、あるいは蹴っても壊れない石ころ程度の認識でした。熱い紅茶をかけられ、鞭で打たれるのは日常茶飯事。


 そして、その地獄は連鎖しました。


 息子のヴェルト様もまた、父親の背中を見て育ち、同じように私を虐げるようになったのです。


「なんだその目は!使用人の分際で!」


 親子二代にわたる暴力。逃げ場のない絶望。食事は家畜の残り物。寝床は物置の藁の上。心はとっくに壊れていました。私は感情を殺し、ただ命令に従うだけの人形になりました。


 転機が訪れたのは、あの運命の『土下座』から数日後のことでした。


 私は、取り返しのつかない過ちを犯しました。


 掃除の最中、手が滑り、廊下に飾られていた『蒼星の壺』を割ってしまったのです。それはベルン旦那様が王都のオークションで金貨100枚で競り落としたという、アークライト家の至宝でした。


 ガシャンッ……。


 砕け散る音と共に、私の世界も終わりました。


「あ、あぁ……」


 腰が抜け、その場に崩れ落ちる。これは死刑だ。いや、ただ殺されるだけならまだマシでしょう。あのベルン旦那様のことです。きっと指を一本ずつ折られ、皮を剥がれ、生きたまま嬲り殺しにされる。


 足音が聞こえました。ドスドスという重い足音。ヴェルト様です。


 終わった。私は震えながら、床に額を擦り付けました。


「も、申し訳ありません……!お許しを、どうかお許しを……!」


「……おい、マリア」


 頭上から声が降ってきます。ああ、次は蹴られる。あるいは、この破片を持って父上の元へ行けと命じられるのか。私はギュッと目を瞑りました。


 しかし。


 グシャリ。


 聞こえてきたのは、罵声ではなく、何かを握り潰すような湿った音でした。


「……ッ」


 短く息を呑む声。私が恐る恐る顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできました。


 ヴェルト様が、砕けた壺の鋭利な破片を、その素手で強く、血が滴るほど強く握りしめていたのです。


「ヴェ、ヴェルト様……!?手が、血が!」


「騒ぐな。……いいか、マリア。これは俺がやった」


「え……?」


「俺が癇癪を起こして、この壺を素手で叩き割った。その拍子に手を怪我した。……そういうことにする。父上には俺から手紙を出しておく。まぁ王都で遊んでるから当分は帰ってこないだろうしな」


 ヴェルト様の手のひらから、ボタボタと鮮血が溢れ、高価な絨毯を汚していきます。壺の破片は肉に食い込み、見るもおぞましい傷になっていました。


「な、なぜ……。私は、銀貨3枚の奴隷です。旦那様が大切にされているこんな壺より、ずっと価値のないゴミです!なのに、どうして貴方様が傷を!」


 混乱して叫ぶ私に、ヴェルト様は痛みに顔を歪めながらも、真っ直ぐに私の目を見て言い放ちました。


「ふざけるな。たかが壺だろ」


「え……」


「金貨100枚だろうが、億だろうが、所詮はモノだ。代わりなんていくらでもある」


 彼は血まみれの手で、私の震える頬に触れました。その血の温かさが、冷え切っていた私の心臓に焼き付きました。


「だが、お前は違う。お前はこの世界に一人しかいない。……銀貨3枚?知るかよ。俺にとってお前は、この屋敷のどんな宝よりも価値がある『人間』だ。だから……泣くな」


 時が、止まりました。


 親に捨てられ、領主に踏みつけられ、ゴミのように扱われてきた私。 そんな私を、この方は。


 自らの血を流してまで、「宝よりも価値がある」と言ってくださった。


 その瞬間、私の頭の中で何かが焼き切れました。


 ああ、この方は神だ。 神様なのだ。


 かつての悪魔は死んだ。今ここにいるのは、私の全てを肯定し、血の代償を払って私を救い出してくれた、真の主だ。


 私の魂は、この時、完全に書き換わりました。


 恐怖は消え、代わりに底なしの、ドロドロとした熱い何かが溢れ出してくる。


(……ああ。私の命は、もう私のものではない)


 この方の血一滴は、私の全血液よりも重い。 この方の言葉一つは、世界の法律よりも重い。


 私はヴェルト様の血に塗れた手を取り、その傷口に唇を寄せました。鉄の味がしました。それは私にとって、極上の甘露であり、永遠の契約の味でした。


「……捧げます」


 私は虚ろな目で、しかし歓喜に震えながら誓いました。


「私の肉、骨、血、魂。その全てを貴方様に。……もし貴方様を害する者がいれば、たとえ神であろうと、この手で八つ裂きにして差し上げます」


 ヴェルト様は「大げさだな」と苦笑いされましたが、私は本気でした。


 あの日以来、私は変わりました。 厨房で包丁を握るたび、洗濯をするたび、私はシミュレーションを繰り返しています。どうすればヴェルト様の敵を効率よく殺せるか。どうすれば、あの方の視界に入る「害虫」を排除できるか。


私は確かに非力ですが、それを補うための努力は惜しみません。夜な夜な、屋敷の地下で執事のセバスチャン様に頭を下げ、訓練をつけていただいているのです。


「セバスチャン様。私に、人の殺し方を教えてください」


「……ほう。掃除の仕方ではなく?」


「ええ。ゴミ掃除です。ヴェルト様の道を汚す、生きたゴミの始末の仕方を」


「……いい目です。覚悟があるなら、元王宮騎士団の『隠密術』、叩き込んで差し上げましょう」


 投げナイフの軌道、人体の急所、音を消して歩く方法。家事の合間を縫って、私は殺人術を学びました。私の華奢な腕力でも、頚動脈や眼球を正確に狙えば、屈強な騎士でも殺せます。全ては、愛するヴェルト様をお守りするために。

【応援よろしくお願いします!】

 「面白かった! 続きが気になる!」と思ったら

 下にある☆☆☆☆☆から作品への応援お願いいたします。

 面白かったら★5、つまらなかったら★1など正直に感じた気持ちでもちろん大丈夫です!

 ブックマークもいただけると本当にうれしいです。

 執筆を続ける力になりますので、なにとぞお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ