12.閑話 マリア
私の値段は、銀貨3枚でした。
それが、貧しい農村で口減らしのために売られた、マリアという少女につけられた価値でした。7歳の時、私は両親に泣いて縋り付きましたが、父は私を見ようともせず、人買いの男から小銭を受け取りました。あの時の、生温かくて絶望的な夕暮れの色を、私は今でも鮮明に覚えています。
連れてこられたのは、アークライト子爵家の屋敷。そこは私にとって『地獄』そのものでした。
最初の悪魔は、領主であるベルン旦那様でした。
「おい、薄汚いガキ!目障りだ、そこをどけ!」
ドガッ!
廊下の隅を歩いていただけの私を、旦那様は汚物でも見るような目で蹴り飛ばしました。彼にとって使用人は、人間ではありません。言葉を話す家具か、あるいは蹴っても壊れない石ころ程度の認識でした。熱い紅茶をかけられ、鞭で打たれるのは日常茶飯事。
そして、その地獄は連鎖しました。
息子のヴェルト様もまた、父親の背中を見て育ち、同じように私を虐げるようになったのです。
「なんだその目は!使用人の分際で!」
親子二代にわたる暴力。逃げ場のない絶望。食事は家畜の残り物。寝床は物置の藁の上。心はとっくに壊れていました。私は感情を殺し、ただ命令に従うだけの人形になりました。
転機が訪れたのは、あの運命の『土下座』から数日後のことでした。
私は、取り返しのつかない過ちを犯しました。
掃除の最中、手が滑り、廊下に飾られていた『蒼星の壺』を割ってしまったのです。それはベルン旦那様が王都のオークションで金貨100枚で競り落としたという、アークライト家の至宝でした。
ガシャンッ……。
砕け散る音と共に、私の世界も終わりました。
「あ、あぁ……」
腰が抜け、その場に崩れ落ちる。これは死刑だ。いや、ただ殺されるだけならまだマシでしょう。あのベルン旦那様のことです。きっと指を一本ずつ折られ、皮を剥がれ、生きたまま嬲り殺しにされる。
足音が聞こえました。ドスドスという重い足音。ヴェルト様です。
終わった。私は震えながら、床に額を擦り付けました。
「も、申し訳ありません……!お許しを、どうかお許しを……!」
「……おい、マリア」
頭上から声が降ってきます。ああ、次は蹴られる。あるいは、この破片を持って父上の元へ行けと命じられるのか。私はギュッと目を瞑りました。
しかし。
グシャリ。
聞こえてきたのは、罵声ではなく、何かを握り潰すような湿った音でした。
「……ッ」
短く息を呑む声。私が恐る恐る顔を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできました。
ヴェルト様が、砕けた壺の鋭利な破片を、その素手で強く、血が滴るほど強く握りしめていたのです。
「ヴェ、ヴェルト様……!?手が、血が!」
「騒ぐな。……いいか、マリア。これは俺がやった」
「え……?」
「俺が癇癪を起こして、この壺を素手で叩き割った。その拍子に手を怪我した。……そういうことにする。父上には俺から手紙を出しておく。まぁ王都で遊んでるから当分は帰ってこないだろうしな」
ヴェルト様の手のひらから、ボタボタと鮮血が溢れ、高価な絨毯を汚していきます。壺の破片は肉に食い込み、見るもおぞましい傷になっていました。
「な、なぜ……。私は、銀貨3枚の奴隷です。旦那様が大切にされているこんな壺より、ずっと価値のないゴミです!なのに、どうして貴方様が傷を!」
混乱して叫ぶ私に、ヴェルト様は痛みに顔を歪めながらも、真っ直ぐに私の目を見て言い放ちました。
「ふざけるな。たかが壺だろ」
「え……」
「金貨100枚だろうが、億だろうが、所詮はモノだ。代わりなんていくらでもある」
彼は血まみれの手で、私の震える頬に触れました。その血の温かさが、冷え切っていた私の心臓に焼き付きました。
「だが、お前は違う。お前はこの世界に一人しかいない。……銀貨3枚?知るかよ。俺にとってお前は、この屋敷のどんな宝よりも価値がある『人間』だ。だから……泣くな」
時が、止まりました。
親に捨てられ、領主に踏みつけられ、ゴミのように扱われてきた私。 そんな私を、この方は。
自らの血を流してまで、「宝よりも価値がある」と言ってくださった。
その瞬間、私の頭の中で何かが焼き切れました。
ああ、この方は神だ。 神様なのだ。
かつての悪魔は死んだ。今ここにいるのは、私の全てを肯定し、血の代償を払って私を救い出してくれた、真の主だ。
私の魂は、この時、完全に書き換わりました。
恐怖は消え、代わりに底なしの、ドロドロとした熱い何かが溢れ出してくる。
(……ああ。私の命は、もう私のものではない)
この方の血一滴は、私の全血液よりも重い。 この方の言葉一つは、世界の法律よりも重い。
私はヴェルト様の血に塗れた手を取り、その傷口に唇を寄せました。鉄の味がしました。それは私にとって、極上の甘露であり、永遠の契約の味でした。
「……捧げます」
私は虚ろな目で、しかし歓喜に震えながら誓いました。
「私の肉、骨、血、魂。その全てを貴方様に。……もし貴方様を害する者がいれば、たとえ神であろうと、この手で八つ裂きにして差し上げます」
ヴェルト様は「大げさだな」と苦笑いされましたが、私は本気でした。
あの日以来、私は変わりました。 厨房で包丁を握るたび、洗濯をするたび、私はシミュレーションを繰り返しています。どうすればヴェルト様の敵を効率よく殺せるか。どうすれば、あの方の視界に入る「害虫」を排除できるか。
私は確かに非力ですが、それを補うための努力は惜しみません。夜な夜な、屋敷の地下で執事のセバスチャン様に頭を下げ、訓練をつけていただいているのです。
「セバスチャン様。私に、人の殺し方を教えてください」
「……ほう。掃除の仕方ではなく?」
「ええ。ゴミ掃除です。ヴェルト様の道を汚す、生きたゴミの始末の仕方を」
「……いい目です。覚悟があるなら、元王宮騎士団の『隠密術』、叩き込んで差し上げましょう」
投げナイフの軌道、人体の急所、音を消して歩く方法。家事の合間を縫って、私は殺人術を学びました。私の華奢な腕力でも、頚動脈や眼球を正確に狙えば、屈強な騎士でも殺せます。全ては、愛するヴェルト様をお守りするために。
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