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11.聖女の絶叫と筋肉

翌朝。まだ太陽も昇りきっていない午前四時。アークライト邸の庭に、少女の悲痛な叫び声が響き渡っていた。


「む、無理ですぅ!もう走れません!足が!足が棒のようですぅ!」


 ジャージ(前世の記憶を元に作らせた運動着)に身を包んだニーナが、涙と鼻水を撒き散らしながら走っている。そのペースは遅く、生まれたての子鹿のように足が震えていた。俺は腕を組み、屋敷のテラスからその様子を見下ろしていた。


「甘えるなニーナ!まだ5キロしか走っていないぞ!俺が10歳の時は、その倍は走っていた!」


「ヴェルト様がおかしいんです!私はか弱い見習い聖女なんですよぉ!?」


「か弱いままじゃ死ぬと言っただろう。止まるな、止まると後ろから『教育係』が来るぞ」


 俺が顎で指し示すと、ニーナの背後数メートルの位置に、般若の面(お手製)を被ったマリアが、抜き身の包丁を持って追走していた。


「さあニーナ様。ペースが落ちていますよ?止まると、アキレス腱を少しだけ切っちゃいますからね♡」


「ひぃぃぃぃぃ!悪魔ぁ!ここには悪魔しかいないの!?」


 ニーナが死に物狂いで加速する。素晴らしい。人間、命の危険を感じれば限界を超えられるものだ。俺は満足げに頷いた。今回の育成方針である『撲殺聖女』。その要は、聖女特有の支援魔法バフを自分自身にかけることにある。本来、聖女や僧侶は後衛から前衛の戦士に『筋力上昇パワーアップ』や『防御上昇プロテクト』をかける。だが、それを基礎スペックの高い自分が自分にかければどうなるか。効果時間は永続(かけ直し自由)、上昇率は自己完結するため最高効率。まさに歩く要塞が完成する。


 数時間後。朝のランニングと筋力トレーニング(スクワット500回)を終えたニーナは、芝生の上で屍のように伸びていた。


「うぅ……。お嫁に行けない……。こんな筋肉ダルマになったら、誰もお嫁にもらってくれない……」


「安心しろ。聖女なら引く手あまただ。それに、筋肉は裏切らない」


 俺は倒れているニーナに水筒を投げ渡した。ニーナは震える手でそれを受け取り、一気に飲み干そうとした――その時、ドス黒い影が俺たちの間に割り込んだ。


「ええ、ご安心くださいニーナ様。もし万が一、億が一、未来永劫独り身だったとしても……決してヴェルト様に責任を取らせようなどとは考えないでくださいね?」


「へ……?」


「もしそんな不純な動機でヴェルト様のお側にいようとしたら……その鍛え上げた筋肉ごと『解体』して、裏庭の肥料にさせていただきますから♡」


 マリアが極上の笑顔で、包丁の峰でトントンとニーナの肩を叩く。その目は笑っていないどころか、深淵を覗くような暗黒に染まっていた。


「ひぃっ!?な、なんでそこで包丁を構えるんですかぁ!?変な気なんて起こしませんからぁ!!」


 ニーナが涙目で必死に首を振る。どうやらマリアによる精神的なプレッシャーも、いいスパイスになっているようだ。


「さて、基礎体力作りは順調だ。次は実技だ」


「じ、実技……?まだやるんですか?」


「当たり前だ。お前には聖女の基本スキルに加え、格闘術を叩き込む。セバス!」


 俺が呼ぶと、執事服の袖をまくり上げたセバスチャンが、巨大な丸太を持って現れた。直径50センチはある硬い樫の木だ。


「ニーナ様。まずはこの丸太を、素手で殴ってください」


「は?はい?殴る?杖で叩くとかじゃなくて?」


「素手です。拳です。痛みを知り、硬さを知り、それを粉砕するイメージを持つのです」


 セバスチャンが真顔で言う。元騎士団長の指導はスパルタだ。


「無理です!骨が折れちゃいます!」


「そこで魔法だ。自分に回復魔法ヒールをかけ続けろ。殴る、骨にヒビが入る、治す、また殴る。これを繰り返すことで、骨密度と筋肉繊維は鋼鉄のように硬くなる。『超回復』の理論だ」


 俺の説明に、ニーナが顔面蒼白になる。



「サイコパスの発想だぁ……!」



「さあ、やってみましょう。最初は軽くで構いませんよ」


 セバスチャンに促され、ニーナは恐る恐る丸太の前に立った。涙目で拳を握りしめる。


「うぅ……!もうどうにでもなれぇ!」


 ポスッ。


 へっぴり腰のパンチが丸太に当たる。痛くも痒くもない音だ。


「痛っ……。やっぱり痛いですぅ」


「続けて。日が暮れるまでだ」


 それから一週間。アークライト邸の庭では、毎日異様な光景が繰り広げられた。少女が泣き叫びながら丸太を殴り、マリアに追い回され、セバスチャンに投げ飛ばされる日々。だが、その成果は劇的だった。


 一週間後の朝。


「……ふぅ、ふぅ」


 ニーナが丸太の前に立っている。その立ち姿は、一週間前とは別人のように様になっていた。足は大地をしっかりと踏みしめ、腰が入っている。ジャージの上からでも、手足が引き締まり、無駄な脂肪が削ぎ落とされたのが分かる。


【名前】ニーナ

【職業】見習い聖女

【レベル】18

【HP】150

【MP】110

【筋力】45

【防御】28

【敏捷】35

【知力】42

【運】2

【スキル】<ヒール Lv.3><筋力上昇フィジカル・ブースト Lv.2><格闘術 Lv.1>


 レベルも上がり、筋力は勇者を超えている。さすがは聖女の才能ポテンシャル。成長率が半端じゃない。


「いくぞ、ニーナ。習得した『筋力上昇』を使え」


「は、はい!……主よ、我に力を。『フィジカル・ブースト』!」


 ニーナの体が淡い光に包まれる。彼女の細腕に、魔力による膂力が宿った。


「せぇぇぇぇぇいッ!!」


 気合一閃。ニーナの拳が丸太に突き刺さる。


 バキィッ!!


 乾いた破砕音と共に、硬い樫の丸太の表面が大きく凹み、亀裂が走った。


「あ……」


 ニーナ自身が、自分の拳を見つめて呆然としている。


「わ、割れた……。私が、木を、素手で……?」


「合格だ。いい音だったぞ」


 俺は拍手を送った。見習い聖女が素手で木をへし折る。普通のRPGならバグ映像だが、これこそが俺の求めていた『物理聖女』の第一歩だ。


「う、うわぁぁぁん!強くなりたくなかったぁ!私はか弱い女の子でいたかったのにぃ!」


 ニーナはその場に泣き崩れた。自分の手が凶器に変わってしまった現実に耐えきれないようだ。だが、その涙を拭う動作すら、以前よりキレが増している。


「泣くな。強さは自由だ。これでお前は、自分の身を守れるようになった」


「ヴェルト様……」


「だが、まだ足りない。丸太は殴り返してこないからな」


 俺はニヤリと笑い、次のステップを告げた。


「基礎はできた。次は実戦装備の回収だ。……行くぞ、ニーナ。北のダンジョンへ。『聖女の鉄甲ナックル』を取りにな」


「やっぱり行くんですかぁぁぁ!?」


 ニーナの絶叫がこだまする。だが、彼女はもう逃げられない。その体には、確実に『脳筋』の才能が芽吹いているのだから。マリアが用意した「プロテイン入り特製スープ」を飲み干し、俺たちは次なる戦場――ダンジョンへと向かう準備を始めた。

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