いるはずのないひと
「製品試験、ですか」
「そう。だから、夏休みの期間をずらして取ってもらうことになるんだけど……」
「……ちゃんと夏休みいただけるなら良いですよ。何か心細いような気もしますけど……いけますかね、私で」
「基本的に休日出勤の時は定時上がりだから、うまいこと実験回す必要がある。とはいえ、十分一人で現場回せてるし問題ないと思うよ」
はぁ、と気の抜けた返事をする女性社員。
入社して三か月ほどだが、品質管理部門である試験を担当していた。
たまたま出来上がってきた材料の検査結果があまりよろしくなく、条件を少し変えて検査をしようということになったのだ。
会社では夏休みが三日間与えられるのだが、水曜から金曜までの三日間。あるいは月曜から水曜までの三日間、という定めがあった。
土日と合体させることで、五連休となるから、という理由ではあるのだが、この女性社員の所属している部門では、水曜から金曜までの三日間、と決まったばかりだったのだが、そこのところの出勤を依頼された、というところだった。
「何かあった時にリーダーに連絡しても問題ないです?」
「うん、連絡取れるようにしておくからそこは安心して」
「分かりました、なら……まぁ、やります。んじゃ私の夏休み日程表書き換えておきますね」
「ありがとう。それと、他の部署のリーダーもいるから、万が一体調不良とかだったらそっちに連絡してね」
「分かりました」
そう言った一週間後、夏休み期間中の彼女の休日出勤が始まったのである。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「帰りはまた声かけに来るから、定時過ぎないように気を付けてね」
「はい」
「あと、有線も今は好きにチャンネル変更して良いからね~」
「あ、はい」
普段はJPOPが流れている有線チャンネルだが、今は何を流そうとも自由。
つまり、アニソンチャンネルに変更しても、怒る人はいないのだ。
「…………有線流してないと、何か怖いな」
一人、というのは何となく恐ろしいものだ。
何せこの日は、外が大雨。雨がやんだとしても風が大変強い。台風の影響だろうが、何もこんな日に休日出勤って……と女性は溜息を吐いて、作業に取り掛かった。
ひたすらに黙々と、試験片を作成し、試験片を試験機にセットし、結果が出れば分析を行う。
この繰り返し。
だが、ちょっとでもやり方を間違えると試験をやり直さなければいけないのだから、気は抜けない。
通常ならば先輩や部署のリーダーがいるから頼れるけど、今はそうではない。だから、覚えていることをしっかりと忠実に。
そうしてコツコツと試験を行い、試験片を作成し、結果を分析すること金曜日。
同じことの繰り返しにはなっているものの、黙々と行う作業自体は嫌いではない。静けさにも慣れてきた。大雨は……まだ少し嫌だなぁ、と思うがこれが終われば土日、続いて月曜から水曜まで休み。
「(後もうちょいで……遅ればせながらの夏休み!)」
喋る人もおらず、ただひたすら黙々と作業をしていた。
たまに他部署のリーダーが様子を見に来てくれるものの、寂しいものは寂しい。
それから解放されるぜ! と喜びながら作業をしていた女性の視界の端っこを、何かがすっと横切った。
「ん?」
あれ、と呟いて顔を上げる。
今横切った人は、実験室の小窓から確認できた。
「女の人だった、よね」
髪の長い、黒髪の女性。
部署内でその人は一人しか心当たりがなかったのだが、ふと違和感がやってくる。
「……いや、いるわけないんだってば」
その人は、実家が県外だから、帰っているはずだ。
もしここに来るとしても、わざわざこんな中途半端な時間にやってくるはずなんか、ない。
「………………誰」
ここで、女性はぞっとした。
もし、この建物に人が入ってくるのであれば、鍵替わりの社員証を使い、オートロックを解除する必要がある。
解除すれば、電子音が聞こえるし『ガチャリ』という解錠音も建物内に居れば聞こえる。
「いや、まって」
試験片を機械にセットして、試験を開始する。
染み付いた動きは、こんな時でも体を動かしてくれるから何て楽なんだ。いやそうではないのだ。
「じゃあ……誰?」
そして、もう一つ。
「ここ……袋小路じゃん」
もし、あの『ひと』がそのままここにやってきた場合、逃げられない。
万が一、人であった場合、ここから逃げるには実験室のドアしか逃げだせるところはないのだ。だがしかし、……いいや、あるはずがないけれど。
「…………あの人、真っ黒、だった」
顔が、分からなかった。
横切った『ひと』の、顔が分からなかったのに、女性であることだけは分かった。髪が長い人だな、と分かったから。
試験機は全て問題なく稼働している。
自分の心臓の音が、なんだかやけに大きく聞こえて、ばくばくとうるさい。手のひらが乾いたような、嫌な感じがして、何となく浅くなった呼吸を、どうにか戻さなければ、と深呼吸をする。
どちらにせよ、ここから出なければ何も出来ない。
「……よし。……すみません誰かいますか!!!!」
大きな声で叫んで実験室の扉を開ければ、誰も、いない。
では、さっきの『ひと』はどこへ行ったのか。自分が見たものは、何だったのだろうか。
「~~~~!!!!」
怖い怖い怖い。
女性は慌てて有線の設置されている場所へと走り、普段よりもボリュームを大きくする。
明るい音楽が、ほんの少しだけ彼女の気持ちを落ち着けてくれてはいるが、視界にとらえてしまったあの『ひと』の姿が目に焼き付いているような感じがした。
本当は良くないけれど、電気も全てつけて残り数時間をどうにかこうにか乗り切ったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「夏休み期間中の出勤、ありがとう。結果も綺麗にまとめてくれてるし、報告書作成してから開発部に提出しに行こうか」
「……はい」
女性が夏休みを終えて出勤してきた日に、リーダーが話しかけつつ雰囲気を見ていて『あれ?』と首を傾げる。
「何かあった? 実験めっちゃやった?」
「いつも通りの数こなしました」
「だよねぇ。……あ、もしかしてさ」
リーダーがあっけらかんとして、笑って言葉を続ける。
「出た?」
「…………え」
「ああ、やっぱり! どんなのだった? 俺はね、女性とか作業着着た人見たことあるんだけどさ!」
「あの」
「もしかして実験室いて取り囲まれた?」
「あの!」
「ん?」
「……出る、んです?」
「うん」
あまりにサラリと告げられた内容に、女性は硬直するがリーダーは平然と続けていく。
「ここさー、出るんだよね。この建物が、とかじゃなくて、会社のあちこちで」
「……はぁ!?」
「まぁつまり、『視ちゃった』んだよね。ご愁傷様!」
あっはっは、と笑うリーダーに急かされて、女性は報告書を作成し始めた。
後日、先輩たち曰く。
「あんたがいた実験室の手前にある分析部屋、ガラス張りでしょ? あそこって前に会議室だったんだけど……ガラス張りのところにべったり人がくっついてたりしたんだよね」
「真夏なのに、冬用の作業着で作業してる人が、監視カメラに写ったりね」
「髪の毛引っ張られたりして、悪戯好きのケースもありますねぇ」
とのこと。
新入社員への洗礼だったのだろうか、とその女性社員はげっそりしつつも、また再び日々の業務に忙殺されていったのだった。