愛してる、のその先
これは、愛のお話です。
ただし、物語に散りばめられた小さな《違和感》に、
あなたは最後まで気づかずにいられるでしょうか。
「やっと君に言葉を届けられる」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなった。
二度と耳にできないはずの声。
私の名前を呼ぶときと同じ柔らかさで、彼は画面の向こうから笑みを向けてくる。
「……私も、ずっと話したかった」
声が震える。涙が頬を伝い、赤茶色のカーペットに落ちて滲んだ。
その色は温かいはずなのに、胸の奥をひりつかせ、息をするのさえ難しくした。
私はあのサービスにすがった。
私と彼のメールや、夜更けに交わした長いチャット、スマホに保存してある写真、誕生日に録った声のメッセージ。
そうした欠片をすべて読み込ませ、死んだ恋人を最新のAIで忠実に再現するという。
世間では死者へ冒涜だとさえ言われるけれど、私にはそれしか残されていなかった。
手元にある専用のタブレットが彼の遺影のようだった。
彼が亡くなってから焚き始めたお香も、いまでは生活の一部になっていた。
甘く淡い煙が部屋に漂うたび、彼の部屋の香りを思い出す。
柔らかな白檀と、少しだけ混ぜたラベンダー。
「泣かないで」
タブレットの中の彼が言う。
その声音は、以前よりもずっと優しく聞こえた。
「……ごめん。あなたの声を聞くと、どうしても」
「謝ることなんてないよ。君の涙まで、僕には宝物だから」
胸が詰まって、気づけば口をついていた。
「ねえ……何か、食べる?」
言った途端、自分でもはっとした。彼が返事をする前に、意味なんてないと分かっていたのに。
画面の向こうにいる彼とは食事を共にすること叶わない。
一つため息をして、視線を逸らす。
流しには包丁が一本、あの日のまま横たわっていた。
洗わなければと思いながらも、手を伸ばせなかった。
あの日から何ひとつ変えられないでいることが、彼とまだ繋がっている証のように思えた。
「僕は大丈夫。君こそ、ちゃんと食べなきゃ」
彼がそう言う。その声にまた涙がにじんだ。
「最近、眠れてる?」
「少しだけ。あなたと話してるときは、眠れなくても平気」
生前と同じ調子で告げられると、時が巻き戻ったようだった。
「君と一緒に食べた朝ごはんのことを、よく思い出すよ」
「……あのとき、焦がしたトーストの?」
「そう。君は気にしてたけど、僕はあれが一番好きだった」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ。君と一緒なら、どんな味でも好きになる」
胸の奥がまた熱くなり、思わず目を伏せた。
彼と過ごした日常の断片が、こうして蘇っていくのが嬉しくて、苦しかった。
少し間を置いて、彼が微笑む。
「覚えてる? 夏休みに、江ノ島の海へ行ったときのこと」
潮潮風の匂い、焼けつくような砂浜、きらめく波──記憶が胸に広がる。
「もちろん。二人でかき氷を食べて、あなたはブルーハワイで舌を真っ青にしてた」
「君はイチゴ味で、口の周りを赤くして笑ってた」
思い出すだけで、胸が少し温かくなる。あれは、確かに二人だけの時間だった。
彼が優しく笑う。
「君の白いビキニ、とても似合ってた」
「……白?」
間を置かずに顔を上げる。
「違うよ。あの日は赤のワンピース。覚えてるよね?」
あれはジルスチュアートの夏の新作だった。
発売日に並んで買った私のお気に入り。
彼に見せたくて、真夏の陽射しの下で胸を張って着ていった。
「そうだね、赤だった。君はいつだって似合ってた」
彼はすぐに柔らかく言い直した。
「間違えないで」
自分でも驚くほど、声が少し尖った。
「ごめん。君の言う通りだよ」
彼がふと声を和らげた。
「それから、あの夜はバーに行ったよね。君がカクテルを頼んで、赤いグラスを手にして――」
「……カクテル?」
私は瞬きをした。
確かに江ノ島の帰りに、彼に誘われて小さなバーに入った。
けれど私がお酒を飲めないことを、彼は知っているはずなのに。
あの夜、私が頼んだのはカクテルなんかじゃない。ただのジンジャーエール。
カウンターの木目、氷が崩れる音、泡が喉をくすぐる感覚まで、いまでもはっきり覚えている。
「違うよ。私はカクテルなんて飲んでない」
声がまた、少し尖った。
「……そうだね。ジンジャーエールだった。君らしいよ」
その笑顔は優しいのに、胸の奥にまたひとつ、小さな棘が刺さる。
しばしの沈黙。タブレットの縁に指先を置く。
冷たいガラス越しに、彼の息づかいだけがこの部屋を満たす。
「またどこかに行こう。君と一緒なら、どこへだって」
彼が穏やかに言った。
胸が詰まって、涙がにじむ。
「……私も。本当に、そうしたかった」
けれど、その言葉があまりに優しすぎて、残酷だった。
だって、もう、行けない。どこへも。
胸の奥がひどく痛んだ。
思い出すのは、彼と過ごした時間ばかり。
波打ち際ではしゃいだ夏の日も、夜の帰り道で指を絡めたあの瞬間も、全部、全部――。
彼は微笑みを深め、続けた。
「それなら、また箱根に行こうか。君と一緒なら、きっと楽しい」
ーー『また』とはどういうことだろう、私は彼と箱根など行ったことはない。
私の中で、また何かがはじけた。
タブレットを掴み、ベッドの上にたたきつける。
一度、跳ねて何かにぶつかり、鈍い音が響いて、画面が一瞬だけ暗くなる。
それでも彼は、割れ目の向こうから変わらぬ声で囁き続けた。
「そうだよ。全部、僕が悪い」
やっぱり……私は悪くない。
ひび割れたタブレットの隣に、
浮気性で他の女と取り違える迂闊な彼氏の死体が、ベッドの上に静かに横たわっていた。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
……さて、真実を知った上で、もしよろしければもう一度だけ最初から読み返してみてください。
流しに置かれたままの包丁。
彼女が焚いていたお香の意味。
そして、AIの『忠実さ』が招いた結末。
全てが違って見えるはずです。
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