宇宙の揺りかご
会議室の空気は、摂氏22度に設定されたまま、氷のように冷え切っていた。
神崎海人は、目の前に座る男たちの顔から一切の表情を読み取ることを諦めた。JAXAの理事、内閣府宇宙開発戦略推進事務局の審議官、そして経産省からの出向者。日本の宇宙を支配する老人たちの目は、彼がこれから語る未来よりも、目の前の茶菓子に注がれているようだった。
「――これが、最新の予測です」
神崎の声だけが、空調の低い唸りに混じって響く。レーザーポインターの赤い光点が、彼の震える指先を映して、グラフの急峻なカーブの上で揺れていた。
彼の脳裏に、五年前の記憶が蘇る。JAXAの管制室。彼が手塩にかけて設計した小型探査機が、打ち上げからわずか三ヶ月後、なんの前触れもなく通信を途絶した。原因は、データベースにすらなかった、数センチのデブリとの衝突。その探査機には、彼の研究室にいた学生、佐伯君の、初めての観測装置が搭載されていた。宇宙飛行士になるのが夢だと語っていた、あの真っ直ぐな瞳。佐伯君は、その一年後、JAXAを去った。
「…ケスラーシンドロームは、もはや理論ではありません。すぐそこにある、未来です」
神崎は、個人的な感情を押し殺し、最後の切り札を提示する。スクリーンに、彼がCEOを務める「エアロダイン・スペーシズ」のロゴと、開発した除去システム『D-Leaper』のコンセプト図が映し出された。
> 【極秘プロジェクト概要】デブリ除去システム『D-Leaper』
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> 1. 計画名称(通称)
> D-Leaper
> Debris-Leaper(デブリを飛び越える者)の略。
> 通称:「タピオカ」または「スペース・キャビア」
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> 2. コンセプト
> 軌道上に存在する中・小型の危険な宇宙ゴミ(スペースデブリ)を、非接触で安全かつ効率的に除去する、次世代の能動的デブリ除去(ADR)システム。
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> 不規則に回転し、ロボットアームでの捕獲が困難なデブリを主なターゲットとする。「宇宙の掃除屋」の中でも、トリッキーな獲物を専門とする「罠猟師」に位置づけられる。
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> 3. コア技術:高機能ダイラタンシーカプセル
> このシステムの心臓部。通称「タピオカ」の正体。以下の三層構造を持つ、直径数ミリの微小な球体カプセル。フェイルセーフ機能として24時間後に光分解する。
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> 外膜:宇宙環境に耐え、衝突時に確実に破壊される特殊合成レジン。
> 中間層(バリア層): 水分の蒸発を防ぐ特殊**オイル。
> 核:特殊デンプン様粒子**と、凍らないイオン液体。
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> 4. 捕獲プロセス
> 1. 放出(Deployment): 除去衛星「リーパー」が、デブリの予測軌道上にカプセルの**「見えない壁」を形成する。
> 2. 突入(Impact):デブリが時速28,000kmで雲に突入する。
> 3. 連鎖硬化(Cascade Solidification):衝突の衝撃でカプセルが破壊され、ダイラタンシー現象で個体化する。
> 4. 減速(Deceleration): 運動エネルギーを吸収し、デブリを減速させる。減速したデブリは軌道を下げ、大気圏に再突入して燃え尽きる。
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> 5. 運用インフラ
> 除去衛星「リーパー(The Reaper)」: カプセルを放出するだけのシンプルな「銃」。再利用可能。
> カートリッジ:交換可能な「弾倉」。
> 軌道上倉庫「デポ(The Depot)」: カートリッジと燃料を保管する無人宇宙ステーション。
> サービス衛星「シェパード(The Shepherd)」:補給・メンテナンスを行うサービス衛星。
神崎の熱のこもった説明が終わると、長い沈黙が会議室を支配した。
やがて、JAXAの理事が、重々しく口を開いた。かつての神崎の上司だった男だ。
「神崎君。君が類まれな天才であることは、私が一番よく知っている。だが、その天才性は、時として傲慢さと同義になる」
理事は、厳しい目で神崎を射抜いた。
「君の計画は、机上の空論だ。フェイルセーフが100%機能する保証はどこにある? 我々JAXAは、100回の成功より、たった1回の失敗がもたらす破局を恐れる。君は、佐伯君の衛星の失敗から、何も学ばなかったようだな」
その言葉が、神崎の心の最後の壁を打ち砕いた。
会議は、その一言で終わった。
その数日後。神崎は、最後の望みをかけて丸の内のベンチャーキャピタルを訪れたが、そこでも同じだった。「日本のやり方ではない」。その言葉が、彼と社会との間に、分厚い壁を作っていた。
全ての表の扉が、完全に閉ざされた。
会社のラボに戻るタクシーの中で、彼はスマートフォンの暗号化ブラウザを立ち上げ、深層Webのフォーラムに、あの禁断のメッセージを投稿した。
『当方、軌道上デブリ除去に関する独自技術を保有。打ち上げ手段と資金提供を求む』
送信ボタンを押す指先に、もう迷いはなかった。
川崎の工業地帯に夜の帳が下りる頃、神崎海人は「エアロダイン・スペーシズ」の鉄の扉を開けた。古い鉄工所の油の匂いに混じって、サーバーの熱と、微かに3Dプリンターがレジンを焼く甘い香りがした。
「…おかえりなさい、ボス」
CTOの相田由紀と、親友の長谷川健太が駆け寄ってくる。神崎の表情だけで、全てを察していた。
「完敗だ。フロンティア・キャピタルにも断られた」
三人は、ラボの中央にあるテーブルを囲んだ。そこには、創業当時に三人で書いた、一枚の設計図が今も飾られている。「日本の宇宙開発を、俺たちの手で変えよう」。学生時代のように笑い合った、あの夜の誓い。しかし、現実は非情だった。
「…来月の給料を払ったら、もう何も残らない」と長谷川が告げる。
「…ボスは、どうしたいんですか? 私たちは、ボスが決めたことなら、どこまででも付き合います」由紀の言葉が、神崎の胸を締め付けた。
「…少し、考えさせてくれ」
彼は、仲間たちに嘘をついた。もう、考える時間など残されていないことも、そして、禁断の扉を叩いてしまったことも。
三日後、彼のスマートフォンに、送信元『V』からのメッセージが届く。
「あなたの『槍』に興味がある。一度、マカオで話をしないか」
羽田空港、国際線ターミナル。
神崎は、フードを深く被り、誰とも視線を合わせないようにしながら、出国審査のゲートを通過する。もう、後戻りはできない。この一歩で、彼は日本の秩序から、完全に逸脱するのだ。
搭乗ゲート前の待合室で、彼はガラス窓の向こうに広がる滑走路を、ただぼんやりと眺めていた。朝日が、駐機している飛行機の翼を、黄金色に染めている。彼が捨てた光。そして、彼がこれから向かう、深い闇。その境界線を、彼は今、自らの意志で越えようとしていた。
その頃、香港、西九龍。
地上118階建ての超高層ビルの最上階。一人の少年が、空中に浮かぶ無数のウィンドウを、まるでオーケストラの指揮者のように操っていた。
黎 子聰。ハンドルネーム、Orphan。
一つのウィンドウには、スイスのプライベートバンクの複雑な金の流れが表示されている。今まさに、日本の「エアロダイン・スペーシズ」という小さな会社の口座に、天文学的な額の資金が流れ込んでいるところだった。
「…哀れな人」
彼は、別のウィンドウに映し出された神崎海人の経歴書を見ながら、少年のようなぶっきらぼうな口調で、誰にともなく呟いた。
「…正しいことをしようとしているのに、世界から拒絶される。僕と同じだ」
彼は、神崎のファイルから意識を切り替えると、自分の「本業」に取り掛かった。画面に、全世界の通信を支える、基幹ネットワークの構造図が映し出される。
「…うるさいんだよな、最近のインターネットは。雑草だらけになってしまった。少し、手入れをするよ」
彼の指先が、しなやかに動く。
彼が標的にしたのは、全世界の5G通信網の基地局で使われている、アメリカ製の汎用タイミングチップの、誰も知らない脆弱性。彼は、起動するまで誰にも見つけられない、完璧なステルス性を持つウイルスを書き上げ、全世界へと解き放った。世界中の通信インフラが、静かに、そして確実に、彼の「種」に感染していく。
全てが完了するのに、10分もかからなかった。あとは、「引き金」を引くだけ。
神崎が打ち上げるあの衛星が、自分の「声」を届けるための、最高の放送塔になる。そして、世界が自分の声を聞く時、この光だらけの世界は、終わりを告げるのだ。
マカオの超高級ホテルの最上階にある、会員制のシガーバー。分厚い防音扉の向こうには、窓の外に広がるカジノのけばけばしい光景とは対照的な、静寂が広がっていた。
革張りのソファに深く腰掛け、葉巻を燻らせている男が一人。神崎の姿を認めると、彼はゆっくりと立ち上がった。上質なシルクのスーツに身を包んだ、銀髪の西洋人。歳は50代だろうか。
「ミスター・カンザキ。お待ちしていました」
彼の発音する日本語は、完璧に近かった。
「私が『V』…サイラス・ヴァンスです」
その男、サイラスは、まるで神崎のすべてを見透かすような、穏やかで、しかし底の知れない目で彼を見つめていた。
「…あなたが、メッセージを」
「ええ。あなたの『槍』…D-Leaper計画の概要を拝見しました。実に野心的で、実にエレガントだ。そして、実に…日本の役人たちが嫌いそうな計画だ」
サイラスはくつくつと喉の奥で笑った。神崎は、自分が丸裸にされているような居心地の悪さを感じながら、ソファに腰を下ろす。
「単刀直入に言いましょう」とサイラスは切り出した。「私のクライアント…我々は彼を『クジラ』と呼んでいますが、そのクジラが、あなたの計画に個人的な興味を抱いている。彼は、あなたの計画が頓挫した経緯も、エアロダイン・スペーシズ社の現在の財政状況も、すべてご存知です」
「…目的はなんだ」
「目的、ですか」サイラスは少し考えるそぶりを見せた。「こう考えてはいかがでしょう。退屈しているのですよ、彼は。この世界のありふれたビジネスにも、国家間の退屈な競争にも。彼は、世界を変える可能性のある『本物のゲーム』にしか金を払わない。あなたの計画は、その資格がある、と」
サイラスは、テーブルの上に置かれたタブレットを、神崎の前に滑らせた。画面には、信じがたい金額の数字が表示されていた。D-Leaper計画を完遂させ、さらに会社の10年分の運転資金を賄っても、まだ余りあるほどの金額だった。
「…これが、クジラからの提示額です。見返りは求めない。計画の成功を祈る、とだけ」
神崎は息を呑んだ。話がうますぎる。罠だ。頭の中で警報が鳴り響く。
「…ただし」
サイラスは、人差し指を一本立てた。
「条件が、一つだけあります」
「……聞こう」
「次に打ち上げる予定の、あなたの軌道上倉庫『デポ』。その衛星に、我々が用意する、ある特殊な通信中継器を一つだけ、追加で搭載していただきたい」
神崎の眉が、わずかに動いた。通信中継器? デブリ除去という計画の本筋とは、何の関係もない部品だ。
「…それは、いったい何のための中継器だ?」
「さあ。私にも分かりません」サイラスは、心底楽しそうに微笑んだ。「クジラのやることは、我々凡人には理解できないことばかりでしてね。ただの、気まぐれなアクセサリーかもしれませんよ?」
神崎は、目の前の男と、その向こうにいる正体不明の投資家「クジラ」の巨大な影を見た。これは、悪魔との契約だ。一度サインすれば、もう後戻りはできない。
しかし、彼の脳裏には、川崎のラボで待つ、由紀と健太の顔が浮かんでいた。そして、破滅に向かって突き進む、青い地球の姿も。
神崎は、ゆっくりと顔を上げた。
「…その契約書は、どこだ」
神崎がタブレットに電子サインを書き込むと、サイラスは満足げに頷いた。
「賢明なご判断です。これで、資金の問題は解決した。次は、打ち上げ手段ですね」
「ああ」神崎は答えた。「JAXAもNASAも、欧州宇宙機関も、俺の計画には乗らないだろう。残るは…」
「ロシア、ですね」とサイラスが引き継いだ。「ロスコスモス。彼らは今、ウクライナでの戦争と経済制裁で、喉から手が出るほど『外貨』が欲しい。君のような客は、大歓迎でしょう。ただし…」
サイラスは、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「足元を見られますよ。交渉は、私が?」
「…頼めるか」
「もちろんです。それこそが、私の仕事ですから」
サイラスは、その場で衛星電話を取り出し、神崎には全く聞き取れない、流暢なロシア語で数分間、誰かと話した。時折、鋭い単語が飛び交う。電話を切ると、彼は何事もなかったかのように、神崎に向き直った。
「話はつきました。彼らは君の『槍』を、喜んで宇宙へ運んでくれるそうです。ただし、お値段は少々張りますがね」
サイラスがタブレットに提示した打ち上げ費用は、神崎が当初想定していた額の、三倍近い数字だった。
「…無茶苦茶だ」
「ええ。ですが、我々には選択肢がない。そして、クジラは…金の心配はするな、と」
神崎は、もはや自分が巨大な駒でしかないことを悟った。資金も、打ち上げ手段も、全てが自分の手の届かない場所で決められていく。彼に残されたのは、ただ最高の「槍」を作り上げることだけだった。
「…分かった。全て、君に任せる」
「賢明です」サイラスは再び微笑んだ。「あなたは、ラボで最高の仕事だけをしてください、博士。汚れる仕事は、全て私が引き受けます」
こうして、神崎の夢は、正体不明の投資家の金と、顔も見えないフィクサーが手配したロシアのロケットによって、宇宙へと向かうことになった。その契約の裏で、どんな取引があったのか、彼は知る由もなかった。
バイコヌール宇宙基地の空は、突き抜けるように青かった。
神崎は、ロスコスモスの管制室の隅のオブザーバー席で、その空を切り裂いていく白銀の槍…ソユーズロケットの軌跡を、瞬きもせずに見つめていた。自分の傲慢。自分の理想。自分の罪。その全てを乗せた衛星「デポ・ワン」が、今、人類の未来を賭けて宇宙へと昇っていく。
数週間後。川崎の「エアロダイン・スペーシズ」のラボは、かつてない緊張と興奮に包まれていた。衛星は安定軌道に乗り、いよいよD-Leaperシステムの実証実験が始まろうとしていた。
「ターゲットデブリ捕捉。軌道予測、誤差なし!」
長谷川健太の声が、管制室に響き渡る。
「カートリッジ放出シークエンス、スタンバイ!」
相田由紀の声が続く。彼女の頬は興奮で赤らんでいた。
神崎は、CEO席のコンソールから、全てのデータが完璧な緑色を示しているのを確認していた。いける。俺は、間違っていなかったんだ。
「カートリッジ、放出準備よし。最終承認を、ボス」
由紀が、期待に満ちた目で神崎を見る。
神崎は、ゆっくりと頷いた。そして、マイクに向かって、震える声で告げた。
「D-Leaper、ミッション開始。カートリッジを、放出せよ」
『了解。カートリッジ、リリース』
長谷川がコマンドを打ち込む。
その瞬間、全ての悪夢が現実になった。
『警告! カートリッジの姿勢制御に異常! 磁気トルカに予測不能なエラー!』
長谷川の絶叫が響く。ターゲットが持つ、予測できなかったわずかな帯電が、カートリッジの精密な姿勢制御を狂わせたのだ。
「回避! 回避しろ、健太!」
「だめだ! もう間に合わない!」
スクリーンの中で、カートリッジはターゲットデブリと激突した。
音のない世界で、しかし管制室の全員の頭の中では、甲高い金属の断末魔が響き渡ったかのような、暴力的な閃光が弾けた。
カートリッジとデブリは粉々に砕け散る。そして、その中から、本来なら雲のように柔らかく広がるはずだった何十億というマイクロカプセルの群れが、悪夢のような弾幕となって、時速28,000kmの速度で軌道上に解き放たれてしまった。
それは、連鎖の始まりだった。
神崎がモニターに表示させた軌道予測シミュレーションは、数秒で、美しい青色から、絶望的な赤色に染め上がっていく。彼が防ごうとしていた「ケスラーシンドローム」が、まさに彼自身の衛星を引き金として、人類史上最悪の規模で発生してしまったのだ。
その日、世界から「空」が失われた。
夜空には無数の流れ星がひっきりなしに流れ、数日後には世界中の衛星インフラが沈黙した。神崎海人は、「軌道環境を著しく損壊させた史上最悪の犯罪者」として、全世界に指名手配された。
新宿の安ビジネスホテルで、彼はテレビに映る自分の顔を、まるで知らない誰かのことのように眺めていた。JAXAのかつての上司が、彼を「科学者の傲慢が生んだ人災だ」と断罪している。
その時、使い捨てのスマートフォンに、『V』からのメッセージが届いた。
「モスクワへ来い。まだ、ゲームは終わっていない」
神崎は、自嘲気味にメッセージを打ち返した。
『不可能だ。私は指名手配されている』
返信は、すぐに来た。
『プロを一人、東京へ送った。彼の名は「カロン」。ギリシャ神話の、死の川の渡し守だ。彼が君を、こちら岸まで運んでくれる』
数日後。深夜の横浜港、本牧ふ頭。
神崎は、メッセージの指示通り、古い倉庫の影で息を潜めていた。
闇の中から、音もなく一人の男が現れる。年齢も国籍も分からない、特徴のない顔。彼が「カロン」だった。
「…時間だ」
カロンは、それだけ言うと、神崎を手招きした。二人は、巨大なガントリークレーンが立ち並ぶ、コンテナヤードの迷路の中を進んでいく。警備員の巡回ルート、監視カメラの死角。全てが計算され尽くしていた。
やがて、停泊している一隻の巨大なコンテナ船の前にたどり着く。船籍はパナマ。目的地はシンガポール経由、地中海行き。
カロンは、船員用の狭いタラップを指差した。
「船倉に、あなたのための『客室』を用意してある。モスクワまでの長い旅になる。幸運を、神崎博士」
そう言って、カロンは闇の中に消えた。彼は、神崎を船に乗せるためだけに、地球の裏側からやってきたのだ。サイラス・ヴァンスという男の、底知れない影響力を思い知らされた。
神崎は、一度だけ、自分が生まれ育った国の、薄汚れた港の夜景を振り返った。そして、迷いを振り払うように、船のタラップを駆け上がった。
彼は、この日、日本人「神崎海人」として死んだ。
そして、ロシアの傀儡「ボリス・パヴロフ」として、地獄の海へと漕ぎ出すことになる。
数週間に及ぶ、貨物船での息の詰まるような潜伏生活の果てに、神崎海人はモスクワの地に降り立った。彼を出迎えたのは、ロスコスモスの腕章をつけた寡黙な男たちだった。神崎は「ボリス・パヴロフ」という新しい名を与えられ、シベリアのタイガに隠された、地図にない研究都市へと送られた。
そこは、矛盾に満ちた場所だった。
彼に与えられた研究室は、JAXAのどの施設よりも先進的で、潤沢な資金が約束された。しかし、その窓の外には常に小銃を構えた兵士が立ち、高いフェンスが森との境界線を引いていた。それは牢獄だった。世界で最も豪華な、金色の鳥かご。
彼の監視官であるヴォルコフ将軍は、日に一度、必ず彼の研究室を訪れた。
「博士。君のD-Leaperを、我が国の『盾』として完成させろ」
将軍は、アメリカの軍事偵察衛星の軌道図を指差しながら、抑揚のない声で繰り返した。神崎の技術を、軌道上の敵を掃除するための兵器に作り変えること。それが、彼が生かされている唯一の理由だった。
神崎は、非協力的な態度で時間を稼ぎながら、水面下で脱出の機会を窺っていた。彼が唯一、外部との接触を期待していたフィクサー、サイラス・ヴァンスからの連絡は、完全に途絶えていた。
その頃、マカオ。
サイラス・ヴァンスは、自らのヨットの船上で、一杯のウイスキーを味わっていた。神崎のプロジェクトから得た莫大な成功報酬。その金の流れを、彼はいつものように、完璧に洗浄していた。
彼は、ロシアが神崎を手に入れた今、自分の価値がなくなったことをまだ知らなかった。彼のような、裏社会の人間を知りすぎているフィクサーは、「後始末」される運命にあることを。
その時、船のセキュリティシステムに、ほんのわずかな異常信号が表示された。プロの勘が、彼に危険を告げる。サイラスが緊急通信用の端
末に手を伸ばした、その瞬間。
音もなく、船室の暗闇から複数の影が躍り出た。抵抗する暇もなかった。
数時間後、マカオの港で、豪華なプレジャーボートがガス漏れによる、悲惨な爆発事故を起こした。所有者であるアメリカ人投資家、サイラス・ヴァンスは、遺体も見つからなかった。
ニュースは小さく報じられたが、その死の真相を知る者は、誰もいなかった。シベリアの神崎も、そして、彼に資金を提供した「クジラ」さえも…。
D-Leaperによる大災害から一ヶ月後。
JAXAの筑波宇宙センターと、NASAのジョンソン宇宙センターを繋ぐ、緊急のテレビ会議が行われていた。画面には、世界トップクラスの宇宙科学者や政府高官たちの、憔悴しきった顔が並んでいる。
JAXAの理事が、重々しく口を開いた。
「…現状を報告する。低軌道上のデブリ密度は、我々の最悪の予測を300%上回る速度で増加している。稼働中の衛星のうち、実に7割が既に通信を途絶。これは…もはや災害ではない。戦争だ」
NASA側の責任者が、厳しい表情で応える。
「我々の分析でも同様の結果だ。問題は、犯人である神崎海人の行方だ。彼は完全に姿をくらませた」
会議の議題は、たった一つ。「どうすれば、この地獄を終わらせられるか」。
「…方法は、ない」
NASAの老齢の軌道力学の権威が、死刑宣告のように言った。「我々にできるのは、この嵐が過ぎ去るのを…何十年、いや、何百年と待つことだけだ」
会議室は、深い、深い絶望に包まれた。誰もが、空を見上げることをやめた。
しかし、その時、世界の誰も知らなかった。
この地獄を作り出した張本人、神崎海人が、シベリアの雪原の奥深くで、たった一人、この絶望に立ち向かうための、最後の計算を始めようとしていることを。そして、その彼の背中を、香港の摩天楼の頂から、もう一人の孤独な天才が見つめていることを。
絶望の淵にいた神崎のコンソールに、ある日の深夜、ありえないはずのチャットウィンドウが開いた。送信元は『Orphan』。
『Are you okay?』
神崎は、この正体不明のハッカーに最大限の警戒をしながら、対話を始めた。Orphanは、神崎の置かれた状況を、まるで全て見てきたかのように正確に把握していた。神崎は、長年の疑問を投げかける。
『君は、いったい何者なんだ? なぜ、僕の計画にこれほど詳しい』
『I've been watching you for a long time. Your paper on dilatant fluids was... interesting.』
(ずっと君を見ていた。君のダイラタンシー流体に関する論文は…面白かった)
Orphanは、神崎がJAXA時代に発表した、誰にも評価されなかった論文のことまで知っていた。そして、神崎が最も知りたかったことを尋ねる。
神崎は、最後の繋がりであるフィクサーの安否を確認しようと、試すように尋ねた。
『Can you contact Silas Vance for me? In Macau.』
数秒の沈黙。そして、返ってきた答えに、神崎は絶句した。
『Silas Vance is dead. He was killed a month ago.』
チャットウィンドウに、あのマカオでの爆発事故を報じる、地方新聞の小さな記事のリンクが添付されていた。
その瞬間、神崎の中で、全ての点と線が繋がった。
サイラス・ヴァンスの存在を知っていること。彼を通じて自分に資金提供があったこと。そして、世界中の諜報機関ですら掴んでいないであろう、サイラスの死の真相を知っていること。
この三つの事実を満たす存在は、世界に一人しかいない。
『…It was you. The investor.(君だったのか。あの投資家は)』
『I invested in your dream, not their weapon.(僕は君の夢に投資した。彼らの兵器にじゃない)』
神崎は、ようやく理解した。
自分をこの鳥かごに閉じ込めたのは、自分をロシアに売り渡し、そして用済みとしてサイラスを消した、ヴォルコフ将軍とその背後にいるロシア政府だ。サイラスは、その駒でしかなかったのかもしれない。
そして、目の前にいるこのデジタルの幽霊「Orphan」は、その全てを知りながら、今まで沈黙していた。いや、彼もまた、サイラスという唯一の接点を失い、自分に直接接触する方法を探していたのかもしれない。
『なぜ君は、そんなに莫大な資金を持っているのか。僕の会社に投資できるほどの』
『My grandfather was one of the founders of blockchain.』
(僕の祖父は、ブロックチェーンの創設者の一人だからね)
『ああ…暗号通貨というやつか?』
『Yeah. Don't you use it in Japan?』
(そう。君の国ではあまり使わない?)
その答えは、神崎の疑問をさらに深めただけだった。ブロックチェーンの創設者。聞いたこともない。だが、その資金力は本物だ。そして、その正体不明の資金が、自分をこの地獄に導いた。
どちらにせよ、今や自分たちの「共通の敵」は、この研究都市を支配するロシアだ。
神崎は、初めて自分以外の誰かが、自分と同じ敵を持っていることに、奇妙な高揚感を覚えた。彼は味方だ。そう直感した。
二人の孤独な天才の間で、秘密の対話が始まった。ある日、Orphanは神崎に、超高精細なアスキーアートの自画像を送信する。そこに描かれていたのは、黒いキャミソールを着た、華奢で、大きな瞳を持つ、美しい少女の姿だった。
『…君は、女の子なのか!?』
音声通信で、少女は少年のような口調でくすくすと笑う。
「あ、この服のこと? 君の国では流行ってるだろ? 僕は男だよ」
神崎は混乱した。そして、彼は告げる。
「僕の準備は、もうすぐ終わる。インターネットを、僕が生まれた頃の自由だった時代に戻す準備がね。僕のやりたいことは、もう終わったから、ここを出るのを手伝ってあげるよ」
神崎とOrphanの秘密の対話が続き、二人の間に奇妙な信頼が芽生え始めた頃。
国際宇宙機関からの緊急警報が、その静寂を破った。
『国際気象観測衛星「イザナミ」、軌道上のデブリ帯に接近。72時間以内に衝突の可能性。回避不能』
シベリアの管制室のスクリーンに、絶望的なコースをたどる「イザナミ」の軌道が表示される。ヴォルコフ将軍は、忌々しげに舌打ちをした。
「…終わったな。これで、西側の気候予測モデルは完全に崩壊する」
彼にとって、それは敵国の損失でしかなかった。
しかし、神崎は違った。彼は、イザナミが人類に残された最後の「目」であることを知っていた。そして、その目に突き刺さろうとしている「槍」が、まさに自分が撒き散らしたデブリであることを。
「…俺がやる」
神崎は、その夜、Orphanに告げた。
『I can save it. But I'm trapped. I need a way out. NOW.』
(僕が救える。だが、閉じ込められている。今すぐ、ここから出る方法が必要だ)
Orphanからの返信は、いつもより少しだけ、間があった。そして、表示された言葉に、神崎は息を呑んだ。
『I was waiting for you to say that.』
(君がそう言うのを、待っていた)
『What do you mean?(どういう意味だ)』
『My preparations are complete. To rewind the world. But I needed a reason. A justification that everyone would understand. This crisis… Izanami… is the perfect excuse.』
(僕の準備は終わった。世界を巻き戻すためのね。だが、僕には理由が必要だった。誰もが納得する、大義名分が。この危機…イザナミは、完璧な口実だ)
Orphanは、この瞬間のために、神崎の脱出計画を準備していたのだ。
『Get ready. I'm about to make a lot of noise. It will be chaos, but it will be your only chance.』
(準備して。これから、盛大なノイズを立てる。混沌になるだろうが、それが君の唯一のチャンスだ)
次の瞬間、神崎の目の前で、世界の景色が変わり始めた。
Orphanの「グレート・リワインド」が発動されたのだ。
ロンドンの金融街で、超高速取引システムが沈黙した。ニューヨークのタイムズスクエアの巨大な広告スクリーンが、一斉に砂嵐へと変わった。全世界のインターネットの「時間」と「住所」が狂い始め、現代文明の神経系が、麻痺を起こしていく。
そして、その混沌は、シベリアの閉鎖研究都市にも等しく降り注いだ。
「なんだこれは!? 外部ネットワークからの攻撃か!?」
「いえ、違います! 外部は遮断されている! システムが、内部から…まるで、老化するように崩壊していきます!」
ヴォルコフの怒号が飛び交う中、研究都市の誇る鉄壁のセキュリティシステムは、90年代レベルまで退化していた。AI監視カメラは低解像度の映像しか送れなくなり、電子ロックは次々とエラーを起こし、緊急用の物理キーモードへと切り替わっていく。
神崎のコンソールに、Orphanからの最後のメッセージが表示された。
『The door is open. Go.』
(扉は開いた。行け)
警報が鳴り響き、混乱に陥る都市の中を、神崎はOrphanが示した「システムの死角」を縫うように、闇の中を進む。古い物資搬入用のゲートで、彼は一人の若い警備兵に静かに見送られ、シベリアの凍てつく風の中へと脱出した。
彼は自由になった。
そして、彼の後ろでは、Orphanが作り出したデジタルの混沌が、静かに世界を覆い尽くしていく。たった一人、全てを捨てて雪原を走る神崎だけが、これから自分が何をすべきなのかを知っていた。
タイムリミットは、72時間。彼は、世界を救うために、走り続けた。
アメリカ、アリゾナ州の砂漠地帯に隠されたセーフハウス。その地下に広がるサーバー室は、冷却ファンの低い唸りと、壁一面を埋め尽くすモニターの光だけが支配する、神崎海人の最後の戦場だった。
スクリーンの中央には、72時間という非情なカウントダウンが、赤いデジタルフォントで時を刻んでいる。その隣では、観測衛星「イザナミ」を示す緑色の光点が、刻一刻と、神崎自身が作り出した絶望的なデブリ帯…真っ赤に染まった脅威エリアへと近づいていた。
「…本当にやるのか、神崎」
暗号化された通信回線の向こうから、JAXAのかつての同僚、長谷川の声が聞こえる。彼は、この非公式な作戦に、自らのキャリアを賭けて協力してくれていた。
「これは賭けだ。失敗すれば、イザナミは確実に失われる。成功しても…何が起こるか、完全には予測できない」
「分かっている」神崎は答えた。乾いた唇を舐める。「だが、やらなければ100%の確率で世界は終わる。俺は、0.1%でも可能性があるなら、それに賭ける」
そこからの72時間は、神崎にとって、人生で最も濃密な時間だった。
彼は、Orphanがロシアの研究都市から盗み出したD-Leaperの全システムログと、JAXAとNASAがリアルタイムで更新する最新のデブリ軌道データを統合し、最後の計算を始めた。
彼は、一睡もせずにキーボードを叩き続けた。思考の速度が、肉体の限界を超えていく。時折、Orphanのチャットウィンドウが静かに開き、ロシアや中国からのサイバー攻撃を探知し、無力化したことを、短い文章で告げてきた。彼は、一人ではなかった。
【イザナミ、衝突まで、残り1分】
全ての計算が終わった。
コンソールには、D-Leaper衛星に送信される、最後のコマンドシーケンスが表示されている。それは、彼がこれまでの人生で書き上げた、最も美しく、そして最も危険な方程式だった。
「健太、聞こえるか」
「ああ。こっちも準備できてる。世界中の天文台とレーダーサイトが、あんたの奇跡を見届けるために固唾をのんでるぞ。」
親友の声に、神崎はかすかに頷いた。
彼は、コンソールの実行(Enter)キーの上に、指を置いた。
脳裏に、佐伯君の顔が浮かんだ。JAXAを去る日、彼は神崎に何も言わなかった。ただ、静かに頭を下げただけだった。あの時の、彼の背中。
これは、贖罪だ。
彼は、静かにキーを押し込んだ。
その瞬間、シベリア上空に静止していたD-Leaper衛星から、目には見えない強力なマイクロ波が、地球の低軌道全域に向かって照射された。
そして、奇跡が起こる。
ケスラーシンドロームによって、絶望的なゴミの川と化していた軌道。そこに漂う、神崎が生み出した何十億ものマイクロカプセルの残骸が、一斉に、マイクロ波に呼応したのだ。
それは、まるでオーロラだった。
JAXAやNASAの管制室のモニターが、それまで黒い宇宙に赤い点でしか表示されていなかったデブリ帯が、一斉に淡い青色の光を放ち始めるのを映し出した。軌道全体が、巨大な生命体のように、脈動を始めたのだ。
カプセル群は、微弱な磁性を帯び、周囲の微小デブリを吸着し始める。小さな塊が生まれ、その塊がまた別の塊と引き合い、結合していく。
まるで、濁った水に投じられた凝集剤のように。あるいは、神が粘土をこねて、最初の星を作るように。
軌道上の無数のゴミは、ゆっくりと、しかし確実に、より大きな「雪だるま」へと姿を変え、その軌道を下げていく。
観測衛星「イザナミ」の目前に広がっていたはずの、死の弾幕が、まるでモーゼの海割りのように、静かに左右へと開かれていった。
「…信じられない…」
JAXAの管制室で、理事はスクリーンに映る光景に言葉を失った。「…デブリが…デブリを掃除している…」
イザナミは、その青く輝く回廊の中を、何事もなかったかのように、静かに通過していった。
イザナミの危機が去った数日後。JAXAとNASAの緊急合同会議は、以前の絶望とは全く異なる、困惑と畏怖に満ちた空気で満たされていた。
「…結論から言おう。軌道上のデブリは、現在、自己浄化作用とでも言うべき現象によって、驚異的な速度で減少し続けている」
JAXAの理事が、震える声で報告した。「原因は、神崎海人のD-Leaperから放出された、あのマイクロカプセルだ。我々の分析では、あれが何らかの外的要因によって磁性を帯び、凝集剤として機能しているとしか考えられない」
会議室は、深い、深い沈黙に包まれた。自分たちの理解を遥かに超えた現象を前に、誰もが呆然とするしかなかった。世界を救ったのは、自分たちではない。自分たちが断罪した、一人の犯罪者だ。いや、彼一人でさえもない、何か巨大で、目に見えない意志が働いているかのようだった。
その頃、アリゾナのセーフハウスで、神崎は静かに回復の時を過ごしていた。彼の元に、Orphanからチャットが届く。
『Your work is done. You are free.』
(君の仕事は終わった。君は、自由だ)
『Free? The whole world is looking for me.』
(自由? 全世界が僕を探している)
『No. Nobody is looking for "Kanzaki Kaito" anymore.』
(いや。もう誰も「神崎海人」を探してはいない)
Orphanは、一つのリンクを送ってきた。それは、数週間前の日本の地方新聞の、小さな死亡記事だった。
『身元不明の男性、多摩川で発見』
記事には、失踪した元JAXAの技術者、神崎海人の可能性がDNA鑑定で浮上したが、断定には至らなかった、と書かれていた。
『…What have you done?(何をした?)』
『I erased you. Your birth record, school records, work history, and your criminal record. All of it. Kanzaki Kaito is now a ghost. A dead man.』
(君を消した。出生記録、学歴、職歴、そして指名手配のデータも。全部だ。神崎海人は、もう幽霊だ。死んだ男だよ)
Orphanは、ただ彼を物理的に逃しただけではなかった。彼の過去、彼の罪、「神崎海人」という存在そのものを、デジタルの世界から完全に抹消したのだ。
イザナミの危機が去り、軌道上が奇跡的な浄化を始めた直後、その「声」は訪れた。
それは、ある日の午後、世界時15時00分。何の前触れもなかった。
ニューヨークのタイムズスクエア。巨大な広告スクリーンが、一斉に、砂嵐の映像に切り替わった。東京、渋谷のスクランブル交差点でも、同じ現象が起きていた。ロンドンのピカデリーサーカス、モスクワの赤の広場。世界中の電子ディスプレイが、その支配下に置かれた。
飛行中の旅客機の機内アナウンス。パリの地下鉄の構内放送。ケニアの村で、子供たちが囲んでいた小さなラジオ。全てのスピーカーから、あらゆる言語の音声が途切れ、ただ一つの声が響き渡った。
それは、少年とも少女ともつかない、変声期前の、透き通るような声だった。
神崎が生んだ軌道上の残響によって、何重にもエコーがかかり、まるで大勢の子供たちが合唱しているかのように聞こえた。
そして、世界は聞いた。神の最初の言葉を。
「……テスト。……マイクテスト……」
「……聞こえる?」
「……今年のDEF CON、終わったみたいだね。CTFの最終問題、面白かった。世界最高のハッカーたちが、三日もかけて解いてたやつ」
「……僕なら、5分かな……」
たったそれだけだった。
それは演説でも、声明でもない。まるで、自分の趣味について、誰にともなく語りかけるような、あまりにも傲慢で、あまりにも純粋な「感想」。
しかし、その独り言が、地球上の全てのスピーカーから同時に流れたという事実が、世界を震撼させた。
ケスラーシンドロームの恐怖とは全く異なる、静かで、しかし、より根源的な恐怖。人類は、自分たちの文明の神経系を、完全に、得体の知れない何者かに掌握されているのだと、理解した。
これが、後に「ファースト・モノローグ」と呼ばれる事件だった。
最初の数日間、世界はパニックに陥った。
「これは、デブリを操った『何か』からの、宣戦布告ではないか?」
「謎のテロリスト集団による、世界同時ハッキングだ」
「地球外知的生命体からの、ファーストコンタクトだ」
様々な憶測が飛び交い、国連は緊急安全保障理事会を招集した。
しかし、誰にもその声の主も、目的も、技術も、何も分からなかった。ただ、それがD-Leaper衛星から発信されていること以外は。
攻撃性のない、しかし誰にも止められない、謎の放送。
いつしか、欧米のメディアが、その子供たちの合唱のようにも聞こえる不思議な響きを、聖書の子守唄になぞらえて「揺りかごの歌(Cradle Song)」と呼び始めた。その呼び名は、急速に世界へと広まっていった。
毎日決まった時間に流れる、空からの不思議な独り言。それは、もはや恐怖の対象ではなかった。人々は、その日の「歌」の内容を、天気予報のように語り合った。「今日の声は、少し楽しそうだ」「昨日は、少し寂しそうだった」。
Orphanの存在は、理解できないものとして、しかし無害なものとして、世界に受け入れられた。彼は、時折、空から気まぐれに世界を眺めている、孤独な神様のような存在になったのだ。
一年後のアリゾナ。
「カイト・カンザキ」という名の非常勤講師が、学生たちに宇宙論を教えていた。Orphanの手引きで、彼の過去は世界中のデータベースから抹消されていたのだ。
彼が引き起こしたケスラーシンドロームの脅威は、彼自身の贖罪によって去った。
そして、世界を支配したOrphanの声は、この一年間の混乱と、受容の末に、「揺りかごの歌」として地球の環境音の一部となり、人々はそれと共に生きる新しい日常を受け入れていた。
講義を終えた神崎が、埃っぽい道を歩いて帰る。彼のスマートフォンのニュースアプリが、世界の奇妙な変容を伝えていた。『…原因不明の通信速度低下「グレート・リワインド」現象により、大手SNSのX社、メタ社が相次いでサービスの大幅縮小を発表…』
カフェのテラス席に座り、コーヒーを一口飲む。店内に設置されたスピーカーからは、他の客が気にも留めない様子で、あの「歌」が静かに流れていた。
それは、ほとんどの人間には意味のない、美しい環境音にしか聞こえない、子供たちの合唱のような声。
しかし、神崎は、その幾重にも重なったコーラスの奥の奥に、たった一つの、聞き覚えのある響きを捉える。
それは、ノイズだらけの音声データに埋もれた、14歳の天才の、かすかな声。
「……今週の『キャプテン・アトム』は、良かった。彼はいつも一人で、全てを背負っている。誰も、彼の本当の力も、孤独も知らない……」
「……僕みたいだ……」
神崎は、ふっと息を吐くと、静かに微笑んだ。
世界は、一人の孤独な少年の「暇つぶし」によって、かろうじて平和を保っている。そして自分は、その神様の機嫌を損ねないように、空に耳を澄ますだけの、しがない神官だ。
悪くない。彼はそう思った。
空を見上げると、一筋の飛行機雲が、どこまでも青いアリゾナの空を横切っていった。
彼は、もう空を見ても、罪の意識を感じることはなかった。
空は、ただそこにある。
自分と同じように、一つの大きな仕事を終えて、静かに次の夜を待っている。
神崎は、本当に久しぶりに、穏やかな笑みを浮かべた。
彼の新しい人生は、空から響く、あの不思議な「揺りかかごの歌」と共に、静かに始まろうとしていた。