第八話 エピローグ 私はまた恋をする
そのとき、誰かに呼ばれたような気がして――
ふと振り返った。
湖は穏やかで、空の青をそのまま映していた。
その向こう、湖の中央にぽつんと浮かぶ小さな祠。
その前に、ひとりの不思議な青年が立っていた。
白い服、柔らかな髪。
遠すぎて顔は見えない。
でも、その姿に、なぜか胸がきゅっと痛んだ。
彼は、私に小さく手を振っていた。
まるで、別れのように。
まるで、またね、のように。
「誰……?」
私が呟いたとき、青年の唇が静かに動いた。
「もう、思い出せないだろう?」
そう言った気がした。
でも、聞こえたはずのその声も、次の瞬間には風にさらわれていた。
私の手を引く小さな温もり。
私は前を向き、歩き出す。
何か大切なものを、失った気がする。
でも、もう思い出せない。
たぶん、家路へと続く道を、私は小さな手に引かれて歩いていく。
村の方から誰かの笑い声が聞こえ、鳥たちが羽ばたいていった。
そのとき。
――また、おいで。
そんな、懐かしい気がする声が耳元で響いて、ふと振り返った。
あの不思議な人はもういない。
湖は、相変わらず穏やかだった。
風が水面をさらい、きらきらと光っている。
波紋はすぐに消え、
水の底が、どこまでも静かに、深く広がっていた。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけ、寂しくて。
覚えてはいない。
でも、何度死んでも、また恋したいと思えるような――
そんな人が、きっといた気がする。
自然と唇が動き、言葉がこぼれた。
「わたし、きっと、また恋をするわ」
***
湖の深い底。
ひとつの影が、ゆったりと眠るように伏せていた。
その巨大な影が、ゆっくりとまぶたを開く。
その目は、大きく、深く、優しい光を湛えていた。
(君の記憶を食べて、痛みも、悲しみも、恋焦がれた気持ちも――村の儀式も。
全部無かったことにした。それが、君との約束だったからね)
(そして、もう一つの約束。共に老い、家族に囲まれる夢……。
君が語ってくれたその夢は、僕にはとても新鮮で、素敵に思えた。
僕も、君と共に老いる器を、用意してみよう。
もしかしたら、君の今の人生に、間に合うかもしれないしね)
彼は姿勢を変え、瞼を半分だけ閉じた。
(また出会おう。また恋をしよう。
やがて君が死んで、生まれ変わってもまた、恋をして、記憶を食べて。
何千年でも、何万年でも。
それが、僕が永遠を生きる理由だから)
(だって君は――この僕の、水神の聖女なのだから)
彼は静かに目を閉じた。
満足げな、けれどどこか寂しそうな微笑みをたたえたまま。
***
ある日のこと。
湖のほとりを歩いていたとき、ふと、視線の先に誰かの姿が見えた。
白い服、風に揺れるやわらかな髪、静かに水面を眺める青年。
陽の光に照らされたその横顔を見た瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
なぜかはわからない。
でも、どうしようもなく、目が離せなかった。
彼がこちらに気づき、ゆっくりと振り向いた。
深く、優しい瞳が私をまっすぐ見つめる。
「やあ、クララさんだよね? 君もこの湖が好きなのかい?」
なぜわたしの名前を知っているのか――
そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ、彼のことをずっと待っていた気がして――
私の頬にふと涙が伝った。
「……ええ、きっと、ずっと好きだったの」
でも、初めて会ったはずなのに。
次の一言がまるでプロポーズみたいで、思わず笑ってしまった。
「君を迎えに来たんだ、僕の愛しい人。もう、離さないからね。一緒に年を取ろう」
「ふふ……おかしな人」
私につられて、はにかんで笑う彼の笑顔は不思議と懐かしくて――
でも、理由なんていらなかった。
私の心は、その瞬間に――もう、恋に落ちていた。
*
湖は、今日も静かだ。
でも、波紋がひとつ立つたびに、
きっとどこかで、誰かが恋をしている。
だって、人は、恋の痛みも、焦がれた想いも、
忘れてしまうからこそ――また、恋に落ちるのだから。
――そして、物語は“番外編”へと続く。
※お読みいただきありがとうございました。
本編はこちらで完結ですが、番外編ではふたりの秘めた想いや、その後の活躍や事件が明かされます。
すでに公開中ですので、ぜひそちらも併せてお楽しみいただければ幸いです。
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