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第七話 さようなら、愛しい人

私の言葉に、彼の目がわずかに見開かれた。

けれど、すぐに静かな色に戻る。


「――君の願いを叶えよう、愛しい人。本当に、いいんだね?」


「うん。もう、いいの。わたし、すべてを思い出したから」


彼の声も、表情も、そしてあのときの口づけも。

それらが確かに、私の中にあると、信じられる。


それだけで、もう十分だった。


「そうか」


彼は、ぽつりと呟いた。

その声には、どこか満たされたような、けれど二度と届かぬものを嘆くような響きがあった。

そして、静かに約束してくれた。


「それなら、僕からも一つ約束しよう。

 君の想いは、僕の中で永遠に生きると」


水神は、少しだけ寂しそうに微笑んで、静かに口を開いた。


「……苦しい思いをさせて済まなかった。

 本当は、最初から君を助けたかった。

 けれど、捧げられた聖女に、僕は直接手を差し伸べることができない。

 それが、この湖と村の契約で……僕の役目だからね」


水神の瞳が、ほんのわずかに悲しみに滲んだ気がした。


「でも、君は何度でも戻ってきた。

 記憶を手繰り寄せて、僕に会いに来てくれた。

 だから、やっと……こうして君の願いを、叶えることができるんだ」


その言葉とともに、彼の姿が揺らめいた。

池の周りを巡るように風が吹き抜け、やがて――


彼は、巨大な龍へと姿を変えた。


水面に浮かぶ、うねる龍の身体。

きらめく鱗。大きな口と、並んだ牙。


けれど、不思議と怖くなかった。


その瞳だけは、あの青年と同じように、優しかったから。


(もう、怖くない。……ひと思いに)


でも、ほんの少しだけ。

もう一度だけ、あの光の中で、父と母と、妹と、笑いたかったな……。


それに――ずっと思っていたけど、言えなかった言葉。


叶わないって、わかってる。

でも、どうしてだろう。なぜだろう。


――つい口をついて言ってしまった。


「わたし、あなたと、たくさんの子供に囲まれて、一緒に年を取る。

 そんな夢を見てたんだよ?」


水神は、そこでふいに動きを止めた。


「……そのような願い、君から聞いたのは……初めてだ」


少しだけ、静かに間を置き、


「……それは、素敵な考えだ。――その願いも、聞き届けよう」


「え……?」


「僕は、約束は守る。だから――」


水神は、寂しそうに、でもどこか嬉しそうな目をして言った。


「――さようなら、愛しい人よ」


私は、静かに瞼を閉じた。

膝をつき、祈るように胸の前で手を組む。


ひと粒の涙が、頬を伝った。

これで報われる。そう思うと、不思議と穏やかな気持ちになった。


死は、もう怖くない。

むしろ、これで終われるなら。

愛する人の手で終われるなら、幸せだとさえ思えた。


最後に浮かんだのは。


湖畔での口づけのあと、はにかんだように微笑んだ、あの人の顔。


そう、それはあなた。

今、大切な約束をしてくれた、大きな、大きな水神様。


あの一瞬は、私にとって――永遠だったの。

だから、私のこと……忘れないでね……。


……忘れるものか――そう彼が言ってくれた気がして。


睫毛が微かに震えて、胸の奥がじんと熱くなる。


愛してる。

こんなにも、あなたが愛しい。


愛してます、私の水神様。


そう、胸の内で何度も繰り返しながら。

私は、静かに、祈るように言葉を紡いだ。


「……さようなら、愛しい人……」


龍の口が、ゆっくりと開かれた。

その巨大な顎が、私を包み込むように近づく。


暗闇が、迫る。

その気配はひんやりと冷たくて、真冬の夜風にさらされるようだった。


でも、不思議と、それは優しい闇だった。

まるで、愛する人の胸の中に沈んでいくように。


身体が、池の水ごと、暗闇に飲み込まれていく。

優しく、けれど、容赦なく。


そして、すべてが、黒に染まった。


***


ぽちゃん。


また、だ。


また?


水に波紋が立つような感覚――

そして、意識が浮かび上がる。


――ふわり、と風が頬を撫でた。


思わず、胸いっぱいに空気を吸い込む。

空気って、こんなにおいしいんだ。


まぶたを開けると、そこには青く澄んだ空が広がっていた。


私は、湖のほとりに横たわっていた。


思い出せないけれど、さっきまで何か、大変な目に遭っていた気がする。

でも、服は乾いていて、冷たさも、痛みも、何もない。


――夢だったのかな?


「お姉ちゃーん、ごはんだよ!」


遠くから、幼い声がした。

草を踏みしめ、小さな女の子が駆けてくる。


「早くしないと冷めちゃうよ!」


私はゆっくりと身体を起こした。

不思議な気持ちだった。


何か、大切なことを忘れてしまった気がする。

でも、それが何なのか思い出せなかった。


「わたし……」


ぽつりと呟く。

そうだ、私は――誰?


「わたしは……誰?」


そう呟いた私に、女の子は目を丸くして、ふふっと笑った。


「なに言ってるの、お姉ちゃん?

 クララお姉ちゃんは、クララお姉ちゃんだよ? 変なお姉ちゃん!」


「……わたしは、クララ……?」


女の子は、私の手を掴んで、ぐいぐいと引っ張る。

その小さな手の温もりが、妙に懐かしかった。


「お姉ちゃん、行くよ! はやくー!」


女の子の声は、どこまでも明るかった。


私もそれに釣られるように、歩きながら笑った。


「うん、わかった。……帰ろう、わたしたちの家へ」


そうして、私は何かを忘れたまま、女の子の手を握って、草の道を進んでいった。


ただ、風が吹くたびに。

胸の奥が、なぜかひんやりと冷たい気がした。


けれど、その理由は、思い出せなかった。

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