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第六話 わたしを食べて

風が吹く。

水面を渡る風の音に混じって、彼の声が届いた。


「僕かい? 僕は水神だよ。愛しい人」


彼の深い水のような瞳は、静かに揺れていた。


「さっき、君が舞台に現れたときは……正直、僕も驚いてしまったよ」


静かで、どこか寂しげな声だった。


(さっき……? わたしには、ずっと前の出来事みたいなのに。

 それに……愛しい人って……)


その言葉になぜだか、胸の奥がきゅっとした。

でも、それよりも、今は聞きたいことがある。


「どうして……わたしは死ねないんですか。

 何度でも、生き返ってしまうのは、なぜなんですか?」


掠れた声だったけれど、彼には届いていた。

ゆっくりと、私を見つめ返してくれる。


「それは、クララ。君が僕が選んだ“本物の聖女”だからだよ。

 “本物の聖女”は死なない。

 他の“仮初の聖女”とは、違うからね」


「わたしが……本物の……聖女?」


彼の瞳は、深い湖の底のようだった。

その中に映る私の顔は、嬉しいのか戸惑っているのか、わからなかった。


その言葉を繰り返しながら、私は彼を見つめた。

きっとそれは、ただの称号でも、儀式の役割でもない。

彼にとって、“わたし”だけがそうなのだと、

言葉よりも、その瞳がそう教えてくれた気がした。


「……水神様が、そう呼んでくださるなら、それでいいわ」


彼は、悲しそうに微笑んだ。


「君との時間は、僕にとって、大切なものだった。

 君だけがいつも僕を畏れず、まるで一人の人間のように愛してくれたんだ。

 だから、僕は君を“本物の聖女”に選んだんだよ」


その言葉とともに、私の中に彼との思い出があふれ出した。

胸が想い出で満たされ、懐かしい光景が次々に蘇った。


湖畔での偶然の出会い。

たわいもない話をして、時に笑って、時に黙って。


ふらりと湖を訪れれば、そこにいる不思議な人。


花冠を作って頭にのせあったり、光る貝殻を集めたり。

夕陽が沈むのを、並んで静かに眺めたり。


そんな逢瀬を何度も重ねるうちに、想いは募っていった。


わたしは、きっと村の誰かと結婚して、

子どもを産んで、老いて死んでいく。

そんな人生なんだろうなって、ずっと思ってた。


でも、あなたに出会ってしまった。


名前も、何をしているのかも知らないのに。

それでも、わたしは――

戻れなくなってしまったんだ。


あなたに、恋をしてしまったから。


そして、あの日。

妹が“聖女”に選ばれ、私が身代わりを申し出た、あの日。


心がどこかに行ったみたいに、ぼんやりと湖畔を訪れた。

彼に、もう一度だけ会いたくて。


すると、彼はそこにいた。

変わらず、静かに、私を待っていた。


私は、ただ会いたかっただけなのに――

彼はふいに、私を抱きしめ、口づけた。


柔らかくて、少しだけ冷たい唇。

胸が跳ねて、どうしていいかわからなくて、でも、なぜか満たされて。


何も言えなかった。

お別れの言葉さえ。


あれが、私の最初で最後の口づけ。

そして、きっと――最初で最後の恋。


――でも、その彼が水神様だったなんて。


そうだ。

私は、あのとき確かに恋をしていた。

たとえ、相手が誰であっても。


思い出すたび、胸の奥がじんわりと痛む。

生まれて初めての、あの淡くて、愛おしい気持ち。


「わたし、あなたにお別れも言えてなかった……」


でも、そこで言葉は止まった。


お別れなんて、言えるだろうか。

だって、彼は水神様で。

わたしは、生贄。


何を言えばいいのか、わからなかった。

それでも、胸の奥は温かくて、そして痛かった。


彼は静かに言った。


「記憶がすべて戻ったんだね。

 君は“本物の聖女”だから、死んでも戻る。

 でも、本来なら、死に戻れば記憶は失われるはずだった。

 きっと――お別れを言いたい、あまりにも強いその想いが、記憶を手繰り寄せたんだ。」


「だから、もしそれを言ったら、君はもう、今の君には戻れなくなる。

 記憶も、痛みも、全てを失くして――次に目覚めても、何も残らない。

 それでも、いいのかい?」


その問いに、私は小さく、けれどはっきりと頷いた。


そうだ。もう、いいんだ。


私は、生きたいと願って、何度も死んで、ここまで来た。

けれど、この人に会えたのなら――それでいい。


胸の奥に、もう答えは浮かんでいた。


それに、もし私が拒めば、次は妹が……。


「一つだけわがままを聞いてくれますか?

 もう、生贄の儀式をやめてください。それが叶うなら……」


答えは決まっていた。


私は、自分の瞳が熱く、潤んでいくのを感じながら、

喉の奥から、かすれた声を絞り出した。


震える唇で、それでも確かに――私はその言葉を口にした。


「――わたしを……食べて」

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