閑話:水神様、疑われる④(終)
(あれ? 生きてる……?)
落ちる、と思った。
そう、滝つぼに落ちて……死……。
その”死”という言葉を思い浮かべた瞬間、ゾッとした。
服も濡れてない。
確かに死ぬ、と思った。
そして、最後にあの人にもう一度だけ会いたいと思って――次の瞬間。
さっきまで滝の前にいたはずの彼が、
いつの間にか、ここで私を抱きかかえている。
まるで、最初からそこにいたように。
まるで――風よりも早く、駆け寄ったように。
抱きかかえられた私は、呆然としたまま、彼を見上げた。
「なっ……なに、い、いつ、そこに……!」
混乱する私をしっかりと抱きとめながら、
彼はやさしく微笑んで私を見つめていた。
「ねえ、君は誰? そして……僕は誰に見える?」
「誰って……
わたしはクララで……あなたは旦那様ですけど……?」
(何言ってるの? あなた……またおかしなことを……)
そして、彼はその水色の瞳でじっと私の目を見つめた。
「よかった……。どうやら、君の記憶はそのままみたいだ」
彼はなぜか、感動したように目を細め、何度も頷いた。
「……?」
「君の僕への想いが……”記憶”の呪縛を断ち切ったのかもしれない」
「~~~!」
だ、旦那様? こんな時に何言ってるの?
私はなんだか真っ赤になって俯いてしまった。
――そしてその瞬間。
滝の水しぶきがふわりと舞い上がり、
ふたりの頭上に、淡い虹が弧を描いた。
空気がひときわ澄んだ気がした。
静かな水音と、虹の揺らめきの中で、
私は、少しだけ気圧されて、言葉を失った。
「……あの時と、一緒だね」
彼が、懐かしむような声音でつぶやいた。
水しぶきに包まれた虹の下。
私を抱えたまま、優しく微笑むその表情には、
どこか切なさがにじんでいた。
「……え?」
私は思わず見上げた。
(今……なんて?)
あの時、と言った。
でも――
(わたし、ここに彼と来るのは……初めてのはずなのに)
虹。
滝の音。
濡れた手を握る温もり。
初めてのはずなのに、
なぜかその情景が、
どこか懐かしくて――愛おしかった。
(まさか……)
一瞬、私の胸に、何かがよぎる。
――前にも、こうして……この人と……?
(……って、違う違う!)
(こんなに胸が騒ぐのは……落ちかけたせい。絶対に、そうに決まってる!)
頭をぶんぶんと振る。
(今はそういう雰囲気に流される場合じゃないの!)
「“メグリ”って……誰よ」
震えるような声で、勇気を振り絞って私は問いかけた。
彼は一瞬、ぽかんとした顔をして――
「……巡りは巡りさ。水の巡りだよ」と、
まるで子どもに説明するような口調で答えた。
それがまた、なんだかズルい。
私は彼の腕の中で唇をとがらせて、ふてくされたようにそっぽを向いた。
私は怒ってるんだ……。
でも、なぜか涙が目に溢れてくる。
「……私のこと、もう飽きたの?」
彼は一拍置いてから、ようやく理解が追いついたように苦笑した。
「ああ、そういうことか」
そして、わたしの涙をそっと指先でぬぐうと、少しだけ照れたように笑って言った。
「いいや。僕の“聖女様”は、クララだけだよ」
(聖女様……?)
そう思った次の瞬間――
彼は、私の腰を引き寄せ、額を重ねるように、優しく口づけた。
滝の水音と虹がふたりを包む中で、
私は小さくつぶやいた。
「……本当?」
「もちろん。今も、過去も、未来もずっと」
「……ずるい」
ふたりは、しばらくそうしていた。
やがて手をつなぎ、滝をあとにして、
静かな山道をゆっくりと下っていく。
木漏れ日が差す中で、ぽつりと聞いてみた。
「……もしかして、さっき滝で呟いてたの……わざとじゃないですよね?」
彼はくすっと笑って、
顔を向けずに、ひとことだけ答えた。
「ふふ、さあね」
山を下るふたりの背中を、
木々の隙間から差し込む光が静かに照らしていた。
手をつなぐその指先には、まだ――
ほんのりと、水の気配が残っていた。
私は、彼の手をきゅっと握った。
滝の水音と虹の下――
この幸せが、ずっと続きますように。
顔を見合わせ、そっと微笑む。
彼がふいに私を、もう一度、やさしく抱きしめた。
そして――言葉を落とす。
「愛しい人。生まれ変わっても、僕は何度だって、君に恋するよ」
小さくそう囁くと、彼は震える私の唇に、そっと唇を重ねた。
永遠のような時間が流れ――
私は、少しだけ声を震わせながら、そっと返した。
「……私も、きっとまた……あなたに恋するわ」
そして、ふたりは再び目を閉じた。
虹が空に溶けていく。
まるで、永遠に続くこの恋の輪廻を――
そっと、見守るように。
……Fin.
※最後までお読みいただき、ありがとうございました。
水神様と聖女様の恋の物語は、これでいったん、おしまいです。
……でも、もしかしたら。
ほんの少しだけ、またふたりが戻ってくるかもしれません。
だって、彼らの恋は――永遠に、巡り続けるのですから。
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物語を届けられたんだな、と感じられて、とても励みになります(=^・^=)