閑話:水神様、疑われる③
「いいわ、確かめてやる!!」
彼がゆっくり振り返るよりも早く、
私は怒りに任せて一歩を踏み出した――
「……あっ」
足元が、滑った。
濡れた苔に足を取られ、バランスを崩す。
踏ん張る間もなく、踵がぐにゃりと折れて、視界がぐるりと回転した。
空。滝。岩肌。緑。水面――
すべてがぐしゃぐしゃに反転し、
私の身体は、宙を舞い、落ちていく。
(やば――い……!)
――どぼん。
激しい水しぶき。
冷たい衝撃。
耳が、きーんと鳴る。
喉から肺へ、一気に水が流れ込んできた。
目を開けても、何も見えない。
濁った水の中で、光が揺れ、滲み、遠ざかっていく。
(え……うそ……やだ、私……死ぬの?)
必死にもがく。
手を伸ばし、足をばたつかせる。
けれど身体は重く、ただ、ずぶずぶと沈んでいく。
(私、なにか……間違えた?
あの人を疑った罰? 水神様の……ばち?)
やっと手に入れた幸せだった。
手をつないで、笑い合って、老いていく未来。
子どもだって、欲しかった。
なのに、どうして――
(こんなの、いや……)
苦しい。
冷たい。
怖い。
――助けて。
脳裏に、あの人の顔が浮かぶ。
(……また、あの音)
水の中なのに、なぜかはっきりと聞こえた。
ぽちゃん――と。
……ああ、まただ。
どうして「また」なのかは、わからない。
でも、私は……知っていた。
(もう一度だけ……あの人に会いたかったな……)
じゃない。
もう一度なんて、足りない。
ずっと。
ずっと、何度でも。
彼と一緒にいたかった。
彼と一緒にいたかった。
「おはよう」「いってきます」「おかえりなさい」――
当たり前の言葉を、毎日もっと交わしたかった。
小さな喧嘩をして、すぐに仲直りして、笑い合って……
もっと、あなたの癖も、声も、眠るときの顔も、知りたかった。
まだ全然足りない。
“これから”だったのに。
すべてが、始まったばかりだったのに。
(お願い……水神様……。
だから――彼に、会わせて。
もう一度、あのぬくもりに触れたいの……
抱きしめてほしいの……!)
(もし、生まれ変われるなら……もう一度彼と……)
意識が、黒く、沈んでいく。
私は、音も光も失われた世界へと、静かに――
水の底へと、堕ちていった。
*
「おかえり、愛しい人」
おかえり?
気がついたとき、私は――
あたたかい腕の中にいた。
※閑話、お読みいただきありがとうございました。
”閑話:水神様、疑われる”は次話が最終話になります。7/27(日)午前に投稿予定です。
お気に召しましたら、評価やブクマをしてお待ち頂けますと、大変励みになります。