第8話 渇望リアライズ
「彼のことが……好きなの」
私の口から滑り落ちたその嘘は、まるで冷たい刃のように、ルカ君の最後の希望を無慈悲に断ち切っってしまった。彼の瞳から、すうっと光が消えていく様を、私は銅像になったように見ていることしかできなかった。
彼は、何かを言おうとした。しかし言葉を見つけられないかのように唇を数回震わせ、やがて力なく笑った。その笑顔は、今まで見たどんな表情よりも悲しく、私の胸を鋭く抉った。
「……そう、ですか。なら、仕方ないですね」
彼は、ふらつく足取りで立ち上がると、一度だけ私を振り返り、「お幸せに」と掠れた声で呟いて、部屋から出ていった。
――バタン。
閉まったドアの音が、まるで私の人生の1つの物語が終わったことを告げる合図のように、静まり返った部屋に響き渡った。
私はその場に崩れ落ちた。でも……涙は出なかった。ただ、心にぽっかりと大きな穴が空いてしまったような、途方もない喪失感と、鈍い痛みが全身を支配していた。
(これで、よかったんだわ……)
自分に何度も、何度も言い聞かせる。呪文のように、その言葉を幾度も繰り返す。
私は、あの太陽のように輝く青年を、これ以上私がまとう闇で汚してはいけない。彼は、もっと清らかな、彼にふさわしい光の中で生きるべきなのだ。そう思うことでしか、私は自分の犯した罪の重さから逃れることができなかった。
翌日、ルカ君は職場に来なかった。そして、その次の日も。
数日後、彼が税務局を依願退職したことを、私はアンナからの事務的な伝言で知った。理由は「一身上の都合」。誰も、本当の理由を口にはしなかったが、その原因が私にあることは、誰の目にも明らかだった。
それから職場での私の立場は、完全な針の筵と化した。有望な若者の未来を奪った悪女。そんな無言のレッテルを背中に貼られ、私はただ息を潜めて日々をやり過ごした。同僚たちの囁き声、好奇と軽蔑が入り混じった視線。その全てが、私をじわじわと追い詰めていく。
そんな私の唯一の支えであり、逃げ場所となったのは、やはりアレクシス課長の存在だった。
ルカ君がいなくなってから、彼は以前にも増して私に優しくなった。まるで、壊れ物を扱うかのように。彼は私を庇うように、あからさまに重要な仕事を回してくれたり、周囲の冷たい視線から守るように、常に私のそばにいてくれた。
「気にするな。人の噂も七十五日だ。時間が経てば、皆すぐに忘れる」
彼の低い声は、荒みきった私の心に、甘い毒のように染み渡った。アレクシス課長は、まるで嵐の海の中で見つけた丸太のようだった。荒波の中、彼の存在だけがこの息苦しい状況を乗り切るための道しるべだった。
ルカ君を切り捨てた罪悪感は、アレクシス課長への倒錯的なまでの依存心へと姿を変え、私の心を深く蝕んでいった。もう、彼なしではいられない。彼さえいれば、他の何もいらない。そんな危険で歪んだ思考に、私は完全に囚われ始めていた。
季節がひとつ、巡った頃。秋風が吹き始め、街路樹の葉が色づき始めたある日の夕暮れ。その日、私はアレクシス課長に呼び出され、初めて彼の家を訪れた。王宮から少し離れた、閑静な貴族街に佇むスタイリッシュな邸宅。しかし、重厚な扉を開けて招き入れられた家の中は、人の生活感が驚くほど希薄で、がらんとしていた。
「あの……奥様は?」
恐る恐る尋ねると、リビングのソファに並んで座った彼は、静かに、しかしはっきりと言った。
「ああ……妻とは、別れた」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「君と出会って、気づいたんだ。私が本当に求めていたものが、何だったのかを。……いや、ずっと前から気づいていたのに、気づかないふりをしていただけなのかもしれない」
彼は、私の手を取り、その指にそっと口づけをした。その唇の感触に、私の体温が上がっていく。
「妻とは、ずっと前からすれ違っていた。もともと互いに、貴族としての体面を保つためだけの冷え切った関係だった。わかるだろう? 家同士が決めた愛のない政略結婚の結末だよ。だが、君といると、私はただの男でいられる。息ができるんだ」
彼の言葉のが、私の乾いてひび割れた心のを潤していく。彼もまた、苦しんでいたのだ。私と同じように、満たされない思いを抱えて生きてきたのだ。その事実が、私に言いようのない安堵と、彼への強い共感をもたらした。
「ミリア……」
アレクシス課長が、私の名前を呼ぶ。その声は、今まで聞いたどんな時よりも真剣で、甘く響いた。
「妻との離婚の手続きは、もうすぐ終わる。そうなれば、私は自由だ。……だから、私と、結婚を前提に付き合ってほしい」
結婚、という言葉。
それは前世からずっと、私が焦がれ……夢見ていた響きだった。
好きな人に選ばれ、その人の唯一の特別な存在になること。それが、私の人生における、最大の目標であり、存在意義だった。
ルカ君を傷つけて多くのものを失い、泥沼の中でもがき苦しんできた。そうして、ようやく手に入れた、本命からの真剣な交際の申し込み。
視界が、喜びで滲んでいく。
長年の夢が、今、この瞬間に叶おうとしている。
「……はい。喜んでお受けします」
私は、涙声で頷いた。これが、私の答えだった。私の全てだった。
アレクシス課長は優しく、だけど力強く私を抱きしめた。私は彼の胸の中で、ようやく手に入れた幸せを噛み締めていた。これで、私の拗らせ続けた人生もようやく終わりを告げる。これからは、彼と二人で、光の差す道を歩いていけるんだ。
そう、信じていた。この時の私は、まだ何も知らなかったのだ。
手に入れたと思った幸せが、実は、これまでで最も残酷で巧妙な悪夢の始まりに過ぎないということを。
そして、彼が私に見せていた苦悩に満ちた顔もまた、彼の数ある打算の1つに過ぎなかったということを。私の知らないところで、物語はまだ、終わってはいなかったのだ。