第7話 本音アルゴリズム
書庫に響き渡ったルカ君の絶叫は、私の心臓を鷲掴みにした。彼の瞳は、信じていたものに裏切られた絶望と、燃え盛るような怒りで、渦巻く炎を宿していた。
「仕事の話……!? こんな場所で、あんな風に触れ合いながらするのが、仕事の話なんですかッ!」
彼の声は震えていた。その震えが、彼の心の傷の深さを物語っている。
アレクシス課長は、表情1つ変えずにルカ君を見据えていた。その冷静さが、逆にルカ君の怒りの炎に油を注いでいるのだが……。
「君には関係のないことだ、ハインツ君。これは、私とミリアの問題だ」
「関係なくなんかない! 俺は、ミリアさんのことが……!」
「好きだ」と、そう叫ぼうとしただろう彼の言葉を、私が遮った。
「もうやめて、ルカ君」
か細く、震える声だった。これ以上、彼に喋らせてはいけない。これ以上、彼を惨めな道化にしてはいけない。全ては、私が招いたことなのだから。
「……課長の言う通りよ。これは、あなたには関係のないことなの」
私は、ルカ君の瞳から視線を逸らし、床の一点を見つめながら言った。自分の声が、まるで他人のもののように聞こえる。
「そう、ですか……」
その瞬間、ルカ君の顔から、すっと表情が消えた。怒りも、絶望も、全てが抜け落ちた仮面のような顔。それが、何よりも恐ろしかった。
彼は、私とアレクシス課長を交互に一瞥すると、何も言わずに踵を返し、書庫から走り去っていった。その背中が、完全に私の視界から消えるまで、私は身じろぎ1つさえできなかった。
「まあ、なんとかなったようだな」
アレクシス課長が、静かに呟いた。
「……ええ、よかったです」
よかったはずがない。私は、あの輝く太陽のような青年を、自分の手で深く、深く傷つけてしまったのだ。
その日を境に、ルカ君は私と一切の言葉を交わさなくなった。彼は私を、まるで存在しない人間のように扱った。すれ違っても視線は合わず、業務上の最低限の会話すら、他の職員を介して行われた。
職場に漂う空気は、最悪だった。誰もが、私たち3人の間に起きた出来事に気づいていたのではないかと思われた。好奇と軽蔑の視線が、常に私に突き刺さる。私は、ただひたすらに心を殺し、感情のない機械のように働き続けた。
そんな日々が続く中で、私は自分の心の奥底にある、醜い感情に気づき始めていた。
(もしかしたら……これで、よかったのかもしれない)
ルカ君を傷つけてしまったことへの罪悪感は確かにある。けれど、それと同時に、彼の純粋すぎる好意から解放されたことに、どこか安堵している自分もいたのだ。彼の真っ直ぐな愛情は、あまりにも眩しすぎて、私には重すぎた。
それに比べて、アレクシス課長との関係はどうだろう?
私たちは、互いに傷を舐め合う共犯者だ。彼との関係には、罪悪感も、背徳感もある。けれど、そこには奇妙な「対等さ」があった。彼も私も、完璧な人間ではない。互いに打算があり、弱さがある。だからこそ、楽でいられた。
私は、ルカ君の「本気」の愛から逃げ出したのだ。
そして、アレクシス課長との「打算」に満ちた関係を選ぼうとしていた。
(私は……なんて、汚れた人間なんだろう)
自己嫌悪で、吐き気がした。
前世から、これっぽっち変わっていない。いや、もっと酷くなっているかもしれない。前世では、少なくとも誰かをここまで深く傷つけたことはなかった。
ある日の夜、私は一人、自室で膝を抱えていた。ルカ君の、あの絶望に満ちた瞳が、脳裏に焼き付いて離れないのだ。
その時、不意にドアがノックされた。こんな時間に誰だろうと、恐る恐るドアを開けると、そこに立っていたのは、ルカ君だった。
彼は、とてもひどい顔をしていた。隈が刻まれ、頬はこけ、あの太陽のような輝きはどこにもなかった。そして、彼の体からは、ふわりと酒の匂いが立ち込める。
「ミリアさんと……話が、したいです」
彼の口から出たのは、それだけだった。私は、断ることができず、彼を部屋に招き入れた。
彼は、部屋の中を一度見渡すと、私の目をまっすぐに見つめて言った。
「ミリアさん。俺、やっぱりあなたのことが諦めきれません」
彼の声は必死だった。
「あの男のどこがいいんですか! あの人は、あなたを幸せにはできないんですよ! 奥さんも子供もいるじゃないですか! 俺なら、あなただけを、一生大切にするのに……!」
彼の「本気」が、痛いほど伝わってくる。その純粋な想いを前に、私の心はぐらぐらと揺れた。
(もし、この手を取れば、私は救われるのかもしれない……)
そう思った、瞬間。
私の脳裏をよぎったのは、アレクシス課長の、あの寂しそうな横顔だった。
私には、ルカ君の純粋で美しい愛を受け止める資格などないのだ。私のような薄汚れた女は、打算と嘘にまみれた汚い泥沼の中でしか、生きていけないのだ。
私は、ゆっくりと、首を横に振った。
「ごめんなさい、ルカ君。私……彼のことが、好きなの」
それは、前世でさえついたことのない、初めての嘘だった。