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第4話 共依存プロトコル

 ルカ・ハインツという太陽は、私の曇った日常に容赦なく光を浴びせかけてきた。彼の私に対するアプローチは、日を追うごとに積極性を増し、そしてそれは私の日常の一部となりつつある。


「ミリアさん、おはようございます! 今日はいい天気ですね!」

 

 朝、出勤すれば満面の笑みで出迎えられ、私が少しでも重そうな書類の束を抱えようものなら、どこからともなく現れて「俺が持ちますよ!」とそれを奪い取っていく。昼休みになれば、「今日の食堂のランチ、ミリアさんの好きな魚料理ですよ! 一緒に行きませんか?」と誘われる。



 彼の誘いは、いつも明るく、驚くほど屈託がない。下心や計算が透けて見える他の男たちの誘いとは全く違う、純粋な好意。


 それはまるで雨上がりに見える美しい虹のようで……汚れきった私の目には少しばかり刺激が強すぎた。だからこそ、私はどうしても強く断ることができないでいた。



「ねえミリア。最近、ルカ君と仲良いわね。もしかして、あの子のこと狙ってるとか?」


 隣の席のアンナが、意地の悪い笑みを浮かべて呟く。

 

「え? やめてよ、そんなんじゃないって。ただの教育係なんだから」

「へえ~、そうかしら? でも、あの純粋そうな子を誑かしたら、罰が当たるわよ?」




 冗談めかした言葉が、鋭い棘となって私に突き刺さる。それを曖昧に笑って誤魔化しながら、遠くのデスクからこちらに視線を送ってくるアレクシス課長に気づかないふりをした。彼の視線は、いつも静かだが、見られていると肌がひりつくような錯覚を覚えるのだ。



 そんなある日の午後。私は自分の犯したミスに気づいてしまい、血の気が引くのを感じていた。提出期限の迫った重要な報告書に、計算の間違いを見つけてしまったのだ。


 今から修正するには、あまりにも時間がない。どうしよう……とデスクで頭を抱えていると、そっと影が差した。



「ミリアさん、どうしました? なんだか顔色が悪いですよ」

 

 心配そうに私を覗き込むルカ君の顔がそこにあった。私は咄嗟に書類を隠そうとしたが、彼は私の手元を見て、すぐに状況を察したようだった。

 

「……大丈夫ですよ。俺も手伝いますから」

 

 彼はそう言うと、自分の仕事を脇に置き、私の隣に椅子を持ってきて座った。

 

「ここの数字、前期の資料と比較すれば、すぐに修正できるはずです。俺、資料室から去年の台帳、全部持ってきます!」

 

 そう言って、彼は嵐のように部屋を飛び出していった。彼の行動は迅速で、的確だった。戻ってきた彼は、膨大な台帳の中から必要な箇所を驚くべき速さで見つけ出し、私は彼の指示に従ってひたすら数字を修正していく。



 彼の真剣な横顔を見ながら、私はただただ圧倒されていた。いつもは子犬のように人懐っこい彼。それなのに……今は頼もしい一人の男に見える。私たちは2人で無我夢中で作業を続け、提出期限の時刻に迫る直前、報告書は完璧な形で完成した。



「……ありがとう、ルカ君。本当に、助かったわ」

 

 心からの感謝を口にすると、彼はそれまでの真剣な表情をふっと緩め、照れたように頭を掻いた。

 

「そんな……俺、ミリアさんの役に立てて、嬉しいです!」

 

 顔を真っ赤にして喜ぶ彼の姿に、私の胸の奥が、きゅっと締め付けられるような、今まで感じたことのない温かい感情で満たされていくのを感じた。


  その夜、私はアレクシス課長と会っていた。いつものバー、いつもの席。けれど、空気はいつもと明らかに違っていた。

 なぜだろう。彼は口数が少なく、探るような視線で私をじっと見つめている。



「……今日は、随分と新入りに助けられたらしいな」

 

 濡れたグラスを拭くふりをしながら、彼が静かに言った。その声はいつもよりも低く、私の罪悪感をじわじわと炙り出すようだった。

 

「情報が早いのですね。ええ、彼のおかげで助かりました」


 私は努めて冷静に、事務的な口調で答えた。この動揺を悟られてはいけない。

 

「そうか。彼はずいぶんと君に懐いているようだな。まるで、主を守る忠犬のようだ」

「ええ……私は教育係ですから。部下に慕われるのは、悪いことではないと思いますよ?」

「そうだな。だが、あまり子犬とじゃれすぎていると、思わぬところで噛みつかれるかもしれんぞ?」


 彼の言葉は、静かだったけれど確かな嫉妬の色を帯びていた。その夜、彼の部屋で抱かれた時、いつもよりずっと執拗で、まるで私の体に彼の所有印を刻みつけるかのようだった。彼の独占欲を感じて、私は少しの恐怖と同時に、背徳的な喜びを感じてしまっている自分に気づいた。



(嘘でしょ、私は……)


 アレクシス課長との関係は、「割り切ったもの」のはずだった。それなのに、彼の嫉妬をどこか嬉しく思っている自分がいた。一方で、ルカ君の純粋な好意を無下にはできず、むしろその温かさに心地よささえ感じ始めている自分もいる。


 2つの矛盾した感情に、心は引き裂かれそうだった。



 部屋に一人でいると、前世の記憶が洪水のように押し寄せてくる。

 好きでもない相手に体を許し、本命の男には都合のいい女として扱われ、最後は刺されて死んだ。そんな救いのない過去。


 結局、私は何も変われていないのだ。誰か一人を選ぶこともできず、ただ自分の欲望と寂しさを埋めようと、2人の男性の間をふらふらと揺れ動いている。欲張りで、汚れた女。それが、私の本質なのかもしれない。



 繁忙期が一段落し、私の所属する第二課でささやかな打ち上げが開かれた。その帰り道、少し飲みすぎて火照った顔で夜道を歩いていたが、気がつけばいつの間にかルカ君が隣に並んでいたのだ。


「ミリアさん、大丈夫ですか? 少し、飲みすぎたんじゃ……」

「ん~? 平気よ。これくらい」


 強がってみせたが、足元は少しおぼつかない。視界も少し回っている。

 すると彼が、私の腕をそっと支えてくれた。その手が触れた部分から、ルカ君の体温が伝わってくる。それが妙に心地よかった。



 しばらく無言で歩いた後、彼がふと立ち止まる。

 

「……ミリアさん」

 

 真剣な声だった。私もつられて足を止める。魔力街灯の紫がかった光が、彼の真摯な横顔を照らしていた。


「俺、あなたのことが好きです」


 あまりにも、まっすぐな告白……。

 彼の瞳は、少しの揺らぎもなく、私だけを映していた。



「ミリアさんが時々、すごく悲しい顔をするのを知っています。何か、重いものを背負っているのも、なんとなく分かります。俺みたいな若造じゃ頼りないかもしれないけどッ! あなたのその悲しみも、苦しみも、全部俺が吹き飛ばしたい。だから……」



 ルカ君の言葉は、心の奥底で、ずっと誰かに言ってほしかった言葉そのものだったのかもしれない。そう、前世の頃から……。



 でも私は、彼の言葉にどう答えたらいいかもわからず、ただ彼の熱のこもった瞳を見つめ返したまま、立ち尽くすことしかできなかった。

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