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第11話 運命リブート

 アレクシス・フォン・ベルンハルトという男の元を飛び出してから、2年という歳月が流れた。季節は2度巡り、私の人生もまた静かに、しかし確実にその様相を変えていた。



 私は、王宮の税務局を辞めた。あのきらびやかで、嘘と見栄と虚飾に満ちた世界に、もう私の居場所はなかったからだ。アレクシスさんとの破局は、あっという間に王宮中の噂となった。


 一度は「課長を射止めたしたたかな平民の娘」と持て囃した人々たちは、時が立つにつれて「高望みが過ぎて捨てられた哀れな女」と私を嘲笑った。私はその全てから逃げるように、誰にも告げずに職場を去った。



 幸い、前世から培ってきた事務処理能力だけは私の唯一の武器だった。王都の東区、貴族街とはまるで違う、活気と喧騒に満ちた商業地区の、中規模な織物商会で経理の仕事を見つけることができた。


 そこでは誰も私の過去を知らない。

 私はただの「仕事ができる、少し無愛想なミリアさん」だった。



 アレクシスさんのの住んていた貴族街のオシャレな邸宅とは比べ物にならない、屋根裏の小さなアパートの一室が、今の私の城。窓からは、隣の家の洗濯物と、ごちゃごちゃしたレンガの屋根並みが見えるだけ。もちろん派手なドレスも、美しい宝石もない。けれど、自分の力で稼いだお金で買った硬いパンを頬張り、窓辺に飾った名も知らぬ野の花を眺める。そんな、誰にも脅かされることのない穏やかな日常が、不思議と私のささくれた心を少しずつ癒してくれていた。



 もう、絶対に恋なんてしない。

 そう固く心に誓っていた。



 誰かを愛そうとすれば、どういうわけか私は周りの人間を、そして自分自身を奈落の底へ引きずり込んでしまう。きっと愛される資格など、私にはないのだ。


 そう思うことで、私は自分の周りに分厚い氷の壁を築き、かろうじて心の平穏を保っていた。時折、ふとした瞬間に、アレクシスさんの冷たい瞳や、ルカ君の絶望に満ちた顔が思い出されて、胸が締め付けられるように痛むこともあった。でも、その痛みも日々の忙しさの中に無理やり葬り去っていた。



 そんなある日の午後、私は届け物のため、商会からほど近い中央市場を歩いていた。様々な品物や異国の香辛料の匂いが入り混じり、人々の威勢のいい声が飛び交う。この雑多で、剥き出しの生命力に溢れた場所の空気は、嫌いではなかった。むしろ、息苦しいほどの静寂に満ちた貴族街よりも、ずっと性に合っているとさえ感じていた。



 ――その時だった。

 

 人混みの向こう側で、大きな荷車から手際よく麻袋を降ろしている、たくましい背中がふと目に入った。


 日に焼けた首筋、少し伸びて無造作に革紐で束ねられた栗色の髪。その見慣れたシルエットを見た時。私の以外の時が止まったかのように、心臓がだけが、どくん、と大きく音を立てた。足が……地面に縫い付けられたように動かなくなる。


(うそよね……。まさか?)



 そんなはずはない。彼は、もうこの街にはいないと聞いていた。私が税務局を辞める少し前、彼は実家のある北の街へ帰ったと、アンナが噂話で教えてくれたのだ。



 けれど、私の目線は、その背中から離すことができなかった。彼が荷物を降ろし終え、汗を拭うためにこちらへ振り返る。その横顔は、2年前の面影を残しながらも、すっかり精悍な大人の男のそれになっていた。


「……ルカ、君?」



 思わず漏れた声は、自分でも驚くほどか細く、市場の喧騒にかき消されてしまいそうだった。


 しかし、その声は確かに彼の耳に届いたようだった。彼が、ゆっくりとこちらを振り返える。そして、私の姿を確認すると、彼の深い色の瞳が、驚きに見開かれた。


 全ての時が、止まる。

 周囲の喧騒が、嘘のように遠のいていく。



 彼は一瞬、息を呑んだように立ち尽くし、そして次の瞬間、どうしていいか分からないといったように、気まずそうに視線を彷徨わせた。その仕草は、昔の彼のままで、私の胸を容赦なく突き刺した。


「……ご無沙汰、してます。ミリア、さん」

 

 やっとのことで絞り出したような彼の声は、あの頃よりも……少し低くなっていた。

 

「うん……。元気、だった?」

 

 私もまた、ありきたりな言葉を返すのが精一杯だった。私は最低の女なのだ。

 何を話せばいいのか分からない。彼をあんな形で傷つけ、彼の人生を狂わせてしまった罪悪感が、今さらながら蘇り、喉を締め付けて苦しくなる。



「あなたは……その、お幸せに、なられたのですね」

 

 彼がぽつりと言った。その言葉は、祝福のようでいて、どこか自分に言い聞かせているような、諦めの響きがあった。アレクシスさんと私が婚約したことは、彼の耳にも入っていたのだろうか?


 「……ううん。彼とは別れたの。ずっと前に」

 

 私の答えに、彼は息を呑んだように目を見上げた。その瞳に、隠しようのない驚きと、そして、ほんのわずかな――安堵のような光が宿ったのは、見間違いじゃなかったと思う。


 その光を見てしまった瞬間、私の心の中で、凍りついていた何かが、パキリと音を立ててひび割れたような気がした。



 その時、彼の同僚らしき男が「ルカ、何してるんだ! サボるなよ!」と威勢のいい声をかけた。彼はハッとしたように我に返り、「すみません、すぐ行きます!」と慌てて答えた。


「じゃあ、俺……仕事があるので」

「ええ、引き止めてごめんなさいね」



 彼は、私に一度だけぎこちなく頭を下げると、名残惜しそうに、しかし毅然と踵を返し、足早に仕事へと戻っていった。私はその場に立ち尽くしたまま、彼の背中が雑踏の中に消えていくのを、ただぼんやりと見送ることしかできなかった。



 胸が苦しかった。

 忘れたふりをしていた、鈍い痛みが蘇る。

 閉ざしたはずの心の扉を、無理やりこじ開けられたような、不快でいて……それでいてどこか懐かしい痛み。


(私の気の所為よね……?)



 彼の瞳に浮かんだ、あの安堵の色。

 それは、私の気のせいだったのだろうか。それとも――彼は、まだ。



 2年という長い時間、何事にも動じずに凪いでいたはずの私の心が……久しぶりに大きく、大きく波打つのを感じていた。私は、その正体不明の揺らぎから逃げるように、届け物を強く握りしめ、早足でその場を立ち去った。もう2二度と、ルカ君に会うことはないだろう。それでいいのだ。そう、自分に強く言い聞かせながら。

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