第10話 絶望リフレイン
アレクシスさんとの結婚準備は、順調に進んでいった。ドレスを選び、ささやかな式を挙げる教会の手配をする。その過程の全てが、私が夢見ていた幸せの形そのもののはずだった。それなのに、私の心は日に日に重く、暗い影に覆われていく。
きっかけは、本当に些細なことだった。
ある日、私がアレクシスさんの書斎を掃除していると、机の上に無造作に置かれた一通の手紙が目に入った。差出人の名前は、見覚えのない女性の名前。女性らしい美しい筆跡で書かれた封筒からは、甘い香水の匂いがした。
(これは……見てはいけない!)
頭では分かっていた。人の手紙を盗み見るなど、最低の行為だ。けれど、私の手は、意思とは関係なく、その封筒へと伸びていた。指が、震える。私は意を決して、中の便箋を抜き出した。
そこに綴られていたのは、恋人たちが交わすような、甘く、情熱的な言葉の数々だった。
『愛しいアレクシス様。この間の夜会でお会いできず、寂しゅうございました。次にお会いできる日を、指折り数えておりますわ』
『あなたが、あのような平民の娘と結婚なさるなんて、まだ信じられません。早く、あんな女との茶番を終わらせて、私の元へいらしてくださいね』
頭を、鈍器で殴られたような衝撃。
目の前が、真っ暗になる。力が抜けて、手紙が手から滑り落ちた。
(もしかして……浮気?)
いや違う。これは、浮気などという生易しいものではない。
手紙の内容から察するに、この女性との関係は、私と出会うずっと前から続いているのだ。そして、私との結婚は「茶番」だと、そう書かれていた。
つまり、アレクシスさんは、私とこの女性、2人を同時に天秤にかけていたのだ。
いや、もしかしたら、他にも……。
その時、ふと脳裏をよぎったのは、ルカ君を問い詰めた時の、アレクシスさんの冷たい目だった。
『君には関係のないことだ』
そうだ。彼は、あの時も、こうやって私を自分の都合のいい場所に置いて、事を収めようとしていた。私がルカ君を切り捨てたように、彼もまた、いずれ私を切り捨てるつもりだったのかもしれない。
私が彼の「本命」だと思っていたのは、全て、私の思い上がりだったのだ。
その夜、私は帰宅したアレクシスさんを、手紙を握りしめて待ち構えていた。私のただならぬ様子に、彼は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「どうしたんだい、ミリア。そんな怖い顔をして」
「これは、何ですか?」
私は、震える声で、彼に手紙を突きつけた。
彼は、手紙を一瞥すると、少しだけ眉をひそめ、そして、深いため息をついた。
「ふう……見てしまったのか」
彼のその態度に、私は絶望した。そこには、罪悪感も、焦りも、何一つなかった。ただ、面倒なことが起きた、とでも言いたげな、うんざりとした空気が漂っているだけ。
「説明してくれますよね?」
「説明? 見ての通りだよ。彼女は、私の古くからの友人の一人だ」
「友人……? 友人に、このような手紙を送るのですか!」
「君は、貴族の社交を知らないからな。これくらいの言葉遊びは、日常茶飯事なんだ」
彼は、悪びれる様子もなく、そう言い放った。その瞬間、私の中で、何かがぷつりと切れた。
「言葉遊び……? 茶番……? では、私との結婚も、あなたにとっては、ただの言葉遊びだったというわけですか!?」
私の叫びに、彼は初めて、苛立ったような表情を見せた。
「ミリア、落ち着きなさい。君を愛しているという気持ちに、嘘はない」
「そんなの嘘よッ!」
私は、持っていた手紙を、彼に叩きつけた。
「あなたは、私を愛してなどいない! あなたはただ、あなたの都合のいいように、私を利用していただけじゃない! 私が、ルカ君にしたことと、全く同じように!」
そうだ。これは、因果応報なのだ。
私がルカ君にした仕打ちが、今、全て自分に返ってきている。
人を傷つけた者は、同じように、人から傷つけられる。そういう運命なのだ。
「結局、私は、誰からも本当に愛されなかった……」
前世も、今世も。何も変わらなかった。
私はただ、男からみて都合のいい「セフレ」か「浮気相手」にしかなれない。本気にしてもらえない。そういう星の下に生まれてきたのだ。
涙が、次から次へと溢れてくる。
もう、この人の前で、泣きたくなんてないのに。
私は、彼がプロポーズの言葉と共にくれた指輪を左手の薬指から引き抜いた。そして、それを、彼の足元に投げつけた。
「もう、終わりにしましょう」
それが、私の最後の強がりだった。
私は、彼が何か言う前に、その部屋を飛び出した。行く当てなんてどこにもない。けれど、もう一秒たりとも、この男と同じ空気を吸いたくなかった。
あっけない破局だった。
手に入れたと思った幸せは幻のように、あまりにも脆く、儚く、崩れ去っていった。
繰り返される過ちの結末。
私はまた、1人になった。いや、初めからずっと1人だったのかもしれない。
夜の街を彷徨いながら、私はただ、空っぽになった心で、そう思った。