アイカ 対 ローズ
ドメインが閉じると、カイは訓練場に再び現れた。
体中が痛みで軋むが、かろうじて無事だった。
状況を整える間もなく、ローズの声が空気を裂いた。
「カイ、マジでボロボロじゃん。もしかしてウォーミングアップだった?それとも、それが限界?」
カイは息を吐き、こめかみを押さえた。
「ローズ、今はやめろ。」
彼女は腕を組み、にやりと笑った。
「おいおい、冗談だってば。けどさ、なかなかのショーだったよ?マーカスはあんたを踏みつけるように通り過ぎてったけど、もうちょい見応えある戦いが見たかったな。」
カイは鋭い視線を投げた。
「お前なら、もっと早く終わってた。」
ローズは笑った。
「そう?じゃあ、見せてくれるんだよな?」
アイカが小さなあくびをして、伸びをしながら言った。
「ローズ、からかうのはやめなよ。」
ローズは手をひらひらと振った。
「冗談でしょ?これくらいでヘコたれるなら、本番の戦いなんて無理だって。」
カイはため息をついた。
「終わりか?」
ローズは薄く笑いながらカイの横をすり抜けた。
「まだよ。」
彼女は少し身を寄せ、声を低めて囁いた。
「残念だったね……勝ってたら、キスしてあげたのに。」
カイの体がピクリと硬直し、足がもつれて転びかけた。
「なっ――」
「残念、もうチャンスはないけどね。」
ウィンクをして、ローズは前へ進み、ドメインへと姿を消した。
カイは顔を覆い、ため息をつきながら呟いた。
「ありえない……。」
他のメンバーが見守る中、アイカが落ち着いた表情でローズの後に続き、ドメインへと足を踏み入れた。
次の戦いが始まろうとしていた。
燃えるような砂漠が溶け落ち、黄金の砂丘が深いエメラルドグリーンに変わった。
空高くそびえる木々が枝を絡め、まるで編まれた天蓋のように頭上を覆う。
わずかな日光が濃い葉の間をすり抜け、苔むした地面に揺らめく影を落とした。
湿った土と新鮮な葉の香りが空気に満ち、森の中の静かな自然のざわめきが周囲を包む。
巨大な根が地面から突き出し、古代の蛇のように曲がりくねって地を覆っていた。
枝からはツタが垂れ下がり、幹にきつく絡まるものもあれば、そよ風に揺れているものもある。
遠くからは川のせせらぎが微かに聞こえ、滑らかな石を水が流れる音が響いていた。
アイカはじっと立ち、濃い森林を鋭い視線で見渡した。
反応する間もなく、ローズが動き出した。
――速い。速すぎる。
彼女の姿が霞のように揺れ、枝から枝へと音もなく飛び移る。
葉がわずかにざわめくが、その重みで小枝一本さえ折れない。
まるで影のように、獲物に忍び寄る捕食者のごとく、森を縫うように進む。
アイカの目が細められる。
――予想通りだ。
ローズは一瞬の隙も与える気はない。
アイカは手を上げ、指先に魔力を集めた。
空気が震え、森全体が反応するように鼓動を打つ。
土の下で根がうねり、彼女の呼びかけに応じて地中で蠢き始めた。
ローズは太い枝を蹴り、猛スピードでアイカへと突進した。
その拳がアイカの顔に届く寸前、森が動いた。
大地が軋み、根が地表を破ってうねり上がる。
木々が呻き、枝が不自然にしなり、アイカの沈黙の指令に従うかのように動いた。
太いツタが四方からローズに迫り、捕らえ、絡め取り、締めつけようとする。
ローズの尻尾がピンと立ち、地面を蹴って後方に宙返りし、かろうじてツタの一撃を避ける。
空中でさらに別のツタが迫り、身をひねってかわした。
厚い根の上に着地し、低く構え、耳をピクピクと動かしながらアイカを睨む。
「それ、ズルじゃん!」
アイカは首を傾け、空気に魔力を漂わせながら冷静に答えた。
「ルールなんて、なかったはず。」
ローズは鼻を鳴らし、尻尾を揺らしながら横に飛び、足首に絡みつこうとするツタをギリギリで避ける。
森は完全にアイカの支配下にあり、ローズを飲み込もうとしていた。
だがローズは止まらない。
「森が邪魔なら、それより速く動くだけ。」
笑みが広がり、彼女の体が再び霞のように消える。
ローズがアイカに迫る。
刃が木漏れ日の中で輝き、アイカの目が鋭さを増す。
彼女は両手を上げ、魔力を迸らせた。
「そうはいかない!」
地面が震え、ローズの足元に光るルーンが浮かび上がる。
爆発的なエネルギーが上方に噴き上がり、衝撃波が森全体に響き渡った。
ローズは体をひねり、空中で回転しながらなんとか回避。
その場に残った大地は黒焦げになり、煙が立ち上っていた。
だが、アイカは終わらせない。
「アーケイン・バースト!」
凝縮されたマナの閃光が放たれ、木々を切り裂きながらローズに迫る。
ローズは身を低くし、一発目を避けるが、二発目がすぐに飛んでくる。
地面を転がり、苔むした地面を滑り、太い枝の上に飛び乗る。
アイカが指を差した。
「バインディング・ルーツ!」
樹皮から太いツタが飛び出し、ローズの手足に絡みつく。
ローズの尻尾が逆立ち、体を捻りながら抵抗する。
「ズルすぎるだろ!」
アイカは口元に笑みを浮かべ、手に光を宿したまま言った。
「これが戦略。」
ローズは唸り声をあげ、筋肉に力を込め、一気に拘束を引きちぎった。
木片とツタが飛び散り、地面に着地した彼女の目が炎のように輝く。
再び突進するローズ。
その速度はさらに増し、刃が空気を切り裂き、アイカへと迫る。
アイカの指先で魔力が脈動し、森がそれに応じるように再び動いた。
ローズが切り裂いたばかりのツタが再生し、再び足元を狙う。
ローズの尻尾が逆立つ。
「またか!?ズルだってば!」
彼女は走りながら宙返りし、ツタをかわし、刃で再び切り裂く。
アイカの目が細められ、手が再び持ち上がった。
ローズはその目を見て気づいた。
――何か大きなものが来る。
アイカが杖を掲げ、声が空気を震わせた。
「アーケイン・バ――」
その詠唱が終わる前に、ローズの足がアイカの腹を叩き込んだ。
アイカの詠唱は途切れ、ローズの足が彼女の腹にめり込んだ。
その衝撃でアイカの体は吹き飛び、葉のカーテンを突き破り、大木の幹に叩きつけられた。
「――くっ!」
アイカは短い悲鳴を上げ、地面を転がりながら止まった。
口元の血を拭い、彼女の瞳に危険な光が宿る。
地面が震えた。
ローズが反応する前に、大地が裂け、棘を持つ根が槍のように飛び出した。
鋭い根が一直線にローズを狙う。
ローズの耳が伏せられ、舌打ちが漏れる。
「はぁ!?マジで――」
体を捻り、後方宙返りで回避する。だが、根は止まらず、ローズを追うように地面を這い上がり、空中で彼女を捕えた。
「ぐっ……!」
根が絡みつき、ローズを空中で締め上げ、そのまま地面に叩きつける。
ドゴォンッ!!
地面に小さなクレーターができ、ローズの体が沈む。
ツタが腕と足を絡め取り、締め付け、逃げ場を奪う。
剣は……消えた。
根と土の中に埋もれていた。
尻尾が逆立ち、低い唸り声が漏れる。
「チッ……。」
彼女はためらわず、腰のホルスターに手を伸ばした。
双銃が光を反射し、彼女の手に収まる。
アイカの目が大きく見開かれた。
「まさか……!」
ローズは一瞬も無駄にしなかった。
バンッ!バンッ!バンッ!
銃声が森に響き渡り、弾丸が根を次々と貫き、束縛を粉砕した。
拘束が緩んだ瞬間、彼女は体を捻り、空中で一回転しながら膝を地面につけて着地する。
アイカが反応する前に、ローズは既に動いていた。
足が地面に触れた瞬間、再び引き金を引く。
バンッ!バンッ!バンッ!
銃声が響き、弾丸が空気を裂く。
アイカは咄嗟に両手を掲げ、魔力を盾に変換する。
弾丸が盾に当たり、火花が散り、薄いヒビが広がる。
ローズは攻撃の手を緩めない。
駆け出し、撃ち続け、次々と弾丸を放つ。
その動きは計算され尽くしており、アイカが大きな詠唱を始める隙を与えない。
アイカは歯を食いしばり、攻撃に耐えながらも、地面に魔力を送り込む。
だが、ローズの方が速かった。
宙を舞い、盾を飛び越え、アイカの背後にしゃがみ込むように着地する。
バンッ。
アイカが振り返る間もなく、弾丸が発射される。
慌てて盾を展開するが、弾丸の衝撃で後方へ吹き飛ばされ、ブーツが地面を抉った。
「くっ……!」
ローズが笑みを浮かべる。
「もう疲れた?」
アイカは目を細め、手を上げて再び魔力を集中する。
だが、ローズは次を待たなかった。
一瞬で距離を詰め、アイカの目の前で二丁拳銃を構える。
バンッ!バンッ!バンッ!
一発目がアイカの盾を振動させ、二発目で亀裂が走り、三発目で完全に粉砕した。
アイカは息を呑み、体が木の根元に叩きつけられた。
ローズは片方の銃をカチッと鳴らし、尻尾をピクリと動かす。
アイカは歯を食いしばり、立ち上がろうとするが、体が重くて動かない。
魔力は脈打っているのに、腕が震え、体がついてこない。
さっきの一撃が効いていた。
ローズは容赦しなかった。
アイカが足をわずかに動かしたその瞬間、ローズはもう目の前にいた。
根の間をすり抜け、恐ろしいほどの速さで迫る。
瞬きする間もなく、再び至近距離に迫り、銃口を構える。
バンッ!
アイカは反射的に頭を下げ、弾丸が耳元を掠める。
魔力を放とうと手を振り上げるが、ローズが先手を取った。
尻尾でアイカの足を払う。
アイカの体が地面に叩きつけられる。
起き上がる前に、ローズが上にのしかかり、片膝で腹を押さえつけ、銃口を額に突きつけた。
アイカは固まった。
静寂。
額から汗が一筋流れ落ち、彼女は荒い息をつきながらローズを見上げた。
ローズは耳をピクピクと動かしながら薄笑いを浮かべた。
「私の勝ちだね。」
アイカは息を吐き、地面に力なく崩れた。
「……うん……負けた。」
バンッ。
銃声が一瞬響き渡り、世界が消えた。
高くそびえる木々も、絡み合った根も、湿った土の匂いも、すべてが一瞬で消えた。
森は跡形もなく消え去り、無機質な訓練場の白い壁が広がっていた。
戦いの重さが消え、アイカとローズは元の位置に戻されていた。
アイカはまだ床に仰向けで倒れ、息を荒げながら天井を見上げていた。
胸が上下し、筋肉が痛みで震えていたが、その疲労感は戦いのせいだけではなかった。
負けを突きつけられた、その事実が、胸に重くのしかかっていた。
ローズは肩を回し、にやりと笑いながら体をほぐした。
「はぁー、楽しかったな。」
アイカが薄れかけた意識の中で目をぱちぱちと瞬かせたとき、視界に影が差し込んだ。
――感じた。
この圧力。この熱気。この空気の張り詰めた重さ。
頭を少しだけ傾けて視線を向けた瞬間、息が止まった。
ブリッツ。
腕を組み、眉間に深いしわを刻み、怒りを抑え込んだ表情で立っていた。
その視線は雷鳴のように鋭く、言葉にせずとも何を伝えようとしているのか、痛いほど分かった。
アイカはごくりと唾を飲み込んだ。
――やばい。
ローズはそっと一歩後退し、耳をピクピクと動かしながら小声でつぶやいた。
「……あー、私は関係ないからね。」
アイカがようやく体を起こしかけた瞬間、ビシッと音を立てるようにザラ――ブリッツの声が響いた。
「……追加訓練、決定。」
アイカは体を小さく縮こまりながら顔を引きつらせた。
「え、えっと……」
ブリッツの目が鋭く光り、冷たい声が空気を裂く。
「言い訳は聞かない。」
アイカは小さな声で、ほとんど聞こえないほどの声量で呟いた。
「別に言い訳してないし……。」
「何か言った?」
「い、いえっ!」
アイカは慌てて背筋を伸ばし、引きつった笑顔を作った。
カイがため息をつき、頭を振った。
「それくらい予想できただろ。」
ローズがくすくす笑い、尻尾を揺らした。
「だね、あれは完全に自業自得。」
アイカがローズを睨みつけると、ローズは肩をすくめてにやりと笑った。
「助ける気なんてなかったけど?」
ブリッツがピシャリと振り返り、冷たい声で一喝する。
「静かに。」
その目が次の対戦相手を射抜く。
「……マーカス。ローズ。前へ。」
ローズの笑みがさらに広がり、尻尾が嬉しそうに揺れる。
「やっと私の番ね。」
肩を軽く回し、マーカスの瞳を真っ直ぐに見据える。
「さて、大男……私のスピードについてこれる?」
マーカスは無言で首を鳴らし、手首を回しながら低く短く答えた。
「……さあな。」
張り詰めた空気が二人の間に漂う。
ブリッツが手を軽く振り上げ、冷たく響く声で告げた。
「始めなさい。」
 




