私たち、風呂を間違えた!
蒸気がタイル張りの壁にゆらゆらと立ち込め、トレーニング後のシャワー室には水音が静かに響いていた。熱気が打ちのめされた体の痛みを和らげ、束の間の安息を与えていた。
アーニクは壁にもたれかかり、打撲だらけの身体に水を浴びせていた。紫色に腫れた痕が肌を覆い、息をするたびに肋骨が軋む。ナックルは腫れ上がり、何度も殴った痛みが鈍く脈打っていた。だが、痛みは歓迎すべきものだった。生きている証。まだ戦っている証だった。
カイはその隣で、硬い姿勢のまま水を浴びていた。精密な魔法を限界まで押し込んだせいで、指は真っ赤に腫れ、わずかに震えていた。爪の一部は今にも剥がれそうにひび割れ、崩れかけている。それでも顔には表情を出さず、強張った顎にわずかな緊張が滲むのみだった。
しばらく、二人の間には沈黙が流れた。水の音だけが響いていた。
口を開いたのはカイだった。
「酷い顔だな、アーニク」
アーニクは乾いた笑いを漏らし、濡れた髪を手でかき上げた。
「だろうな。煉瓦の壁と戦って、毎ラウンド負けた気分だぜ」
カイはわずかに口角を上げた。
「無謀にもほどがある」
「俺のスタイルだろ」
アーニクは片方の口角を吊り上げ、カイの手を顎で指した。
「お前こそ、その手…紙シュレッダーにでも突っ込んだのか?」
カイはゆっくりと指を曲げてみせた。
「精密魔法は…容赦しない」
アーニクは低く口笛を吹いた。
「マジで壊されそうだな」
カイの笑みは消え、声が平坦になった。
「成果のためには安い代償だ」
そして声が一段低くなり、ぼそりと続けた。
「痛みが、まだ生きている証だからな」
アーニクの眉がひそめられた。
「おいおい、それはちょっと暗すぎないか?」
カイは乾いた笑いを漏らした。
「かもな。でも事実だ。痛みも、痣も、傷も…全部、まだここにいる証だ。まだ戦ってる。何かを変えられるかもしれない、ってな」
アーニクはゆっくり頷き、その言葉の重みを感じながら顔を手で拭った。水滴が顎から滴り落ちた。
「…だな。もっと強くならなきゃな、急いで」
カイも頷き、表情は固いが決意が滲んでいた。
「同感だ」
アーニクが少し首を傾げ、目を細める。
「そうだ、マルクスのことは?」
カイの体が強張った。視線はタイルの床に落ち、言葉がそこに沈んでいくようだった。
「マルクスは…」
声は低く、ためらいがちだった。
「地球が落ちた日から、見てないな」
アーニクが続け、空気が重く沈んだ。記憶の重さが二人の肩にのしかかった。
カイの顎が硬く締まり、眼鏡がぼんやりと光を反射する。
「どこかで生きてる。あいつが…そんな簡単に…」
声が途切れ、鋭く息を吐いた。
「きっと現れる。絶対に」
アーニクは頷いたが、瞳の奥にわずかな不安がきらめいた。
「…あいつは簡単にやられるタマじゃないからな」
声は軽く笑っていたが、その奥にある重さは隠しきれなかった。
再び沈黙が流れた。シャワーの音が静かに響き、蒸気が周囲に漂った。重い考えが二人の間に漂い、言葉にならない想いが胸を満たした。
そして――
笑い声が聞こえた。
軽く、くぐもり、だがすぐ近くで。
カイの体が硬直した。
アーニクの腹が冷たく沈んだ。
二人の視線が交わり――雷鳴のように同時に悟った。
「カイ…」
アーニクの声は低く、張り詰めていた。
「アーニク…」
カイも応え、恐怖が声に滲んでいた。
二人の声が重なる。
「――間違った風呂だ!!」
長い沈黙。
そして――
「今、声聞こえなかった?」
女性の声がすぐ近くから。
「うん…たしかに」
カイの息が止まった。
「今すぐ逃げるぞ」
動こうとした瞬間――
ローズとアイカが角を曲がって現れた。
世界が止まった。
蒸気が空気を包み込み、温もりが重くのしかかる。四人の間に沈黙が落ち、時間が凍りついた。
アーニクとカイは背中を壁に押し付け、消えたいかのように硬直していた。
ローズの視線が二人を捉え、困惑、理解、そして――
怒り。
「な――何してんのよあんたたち!!!?」
アイカの瞳が大きく見開かれ、視線が下へと滑り落ちる。
そして、ほとんど聞き取れないほど小さな声で――
「おっきい…」
アイカはそのまま後ろへ倒れ、風呂に落ちて水しぶきをあげた。
「アイカ!!」
ローズが叫び、すぐに飛び込んだ。
――それが、合図だった。
「逃げろ!!」
アーニクが叫び、カイの腕を掴んで出口へと引っ張った。
「待て!引っ張るな!」
カイが悲鳴を上げ、足をもつれさせながら必死で追いつこうとした。
後ろでは水が跳ね、ローズがアイカを風呂の縁へ引き上げていた。濡れた髪が顔に張り付き、その目には地獄のような怒りが燃えていた。
「変態!!バカ!!最低野郎!!」
カイが振り返り、恐る恐る視線を向けた――
間違いだった。
ローズはすでに動き出していた。タオルがかろうじて体にまとわりつき、怒りの嵐が全身から噴き出していた。まるで解き放たれた悪魔のようだった。
カイの胃がひっくり返った。
「殺される!!」
「悪魔だぞあれは!!」
アーニクが半分恐怖、半分信じられないような声で叫んだ。
カイは息を切らしながら叫んだ。
「アーニク、無理だ、もう限界…!」
アーニクは急停止し、カイの腕を掴んで引き起こした。
「仲間を置いてくわけにはいかない!」
「戻って来い!!!」
ローズの怒声が響き、濡れた床を叩く足音が戦太鼓のように迫った。
二人は角を曲がり――
カイが叫んだ。
「そこだ!備品庫!」
二人は駆け込み、ドアを閉めた瞬間、ローズの足音が通り過ぎていった。
「見つけたらただじゃおかないからな!!」
沈黙。
荒い息遣いと鼓動が耳を打つ。
アーニクとカイは背中をドアに押し付け、肩で息をしていた。
ゆっくりとアーニクがカイを見た。
カイもアーニクを見た。
その状況の馬鹿らしさが、二人を一気に突き抜けた。
アーニクは口を手で覆い、肩を震わせた。
カイは声を詰まらせ、目に涙を浮かべた。
そして――
二人は爆笑した。
息も絶え絶えに笑い声を漏らし、肩を揺らしながら笑い転げた。
カイは涙を拭い、声を震わせながら言った。
「……もう終わったな、俺たち」
しばらくして、二人はそっとドアを開け、こっそりと寮へ戻った。
運が良ければ、明日を迎えられるだろう。
運が悪ければ――
せめて笑って死ねるだろう。
.....
アイカはローズのベッドの上であぐらをかき、怒れる猫のように部屋をうろつくローズを眺めていた。ローズの尻尾はぷわっと膨らみ、歩くたびにピンと立っていた。
「最低な変態共!」ローズは声を鋭く張り上げ、まるで鞭のような勢いだった。拳を握りしめ、床をドンと踏み鳴らし、怒りを爆発させた。
「バカ!バカ!バカ!!」
やがて彼女は枕に顔を埋め、ぐったりと倒れ込んで呻いた。
「何も見られてないよ…タオル巻いてたし…」アイカはそっと言った。質問のようでもあり、希望のような響きもあった。
だが、ローズはバッと顔を上げ、目を見開き、瞳を燃やして言った。
「私たちの風呂に入ってたんだよ!」
アイカはそっとローズのピンクの髪を撫で、怒りで逆立つ子猫をなだめるようにした。
「アーニクのことだから…多分、事故だったんだよ」
ローズは再びベッドに仰向けに寝そべり、天井を見つめた。怒りは少しずつ薄れ、代わりに体から力が抜けていくのが感じられた。呼吸は落ち着いたが、頬はまだ赤かった。
思考が漂う。…あのバカ、カイのことが頭をよぎった。あの慌てた表情…広がった目…ぐしゃぐしゃの髪と、今にも落ちそうな眼鏡…
胸の奥がじんわり熱くなった。
天井を見つめたまま、ほとんど聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「…あれくらいなら、見られても別に…」
アイカは瞬きをし、首を傾げた。
「今、何か言った?」
バフッ!
枕がアイカの顔に勢いよく飛んできた。
「もう寝ろ!」ローズは顔を真っ赤にして怒鳴った。
アイカはくすっと笑い、優しい笑顔を浮かべながらベッドに沈み込んだ。ローズは呻き声を上げながら体を丸め、枕を顔に押し付け、真っ赤な頬を隠そうとしたが…無理だった。
楽しいエピソードでしたね!楽しんでもらえたら嬉しいです!




