森の中で・後編
マーカスは獣に向かって突進した。紅い瞳は、獣の輝く緑の眼と真っ直ぐにぶつかり合う。
獣は唸り声をあげ、地面すれすれまで身を低くして攻撃の態勢に入った。
その巨大な爪が目にも留まらぬ速さで振るわれ、マーカスの左側を狙う。
「今日じゃない!」
マーカスは叫ぶと同時に身を低く沈め、地面を滑るようにしてかろうじてその一撃をかわした。
獣の巨体の下をすり抜ける瞬間、ナイフを振るってその腹部を切り裂いた。
刃は硬い鱗に阻まれながらも薄く血をにじませたが、致命傷には程遠い。
獣は咆哮を上げて後退し、怒りを爆発させる。その轟音は森全体を震わせ、葉を舞い散らせた。
マーカスはすぐに立ち上がり、かつて獣の体から落ちた槍の一本を手に取った。
そのとき、獣の尾が予兆もなく空を裂いて襲いかかる。
マーカスの耳がピクリと動いた。直感で跳ね、空中で回転しながら地面に打ちつけられる直前にその場を離脱。
土と破片が爆ぜた中、彼は空中で槍を構え、獣の頭めがけて投擲した。
「食らえ!」
槍は正確に命中し、獣の片目の上に深く突き刺さった。獣は再び叫び、顔を掻きむしりながら後退する。
しかし、それはさらなる怒りを呼び起こすだけだった。
獣は大地を揺らしながら突進し、怒りのままに爪を振るい、木々をなぎ倒していく。
マーカスはその攻撃を華麗にかわしながら、脚元に隙が生まれた瞬間にナイフで斬りつける。
だが、浅い傷しか与えられず、決定打にはならない。
獣が低く唸った。筋肉が膨れ上がり、身をかがめた次の瞬間──
マーカスの前にその巨体が跳びかかってきた。大きく開かれた顎が、彼を丸ごと飲み込もうとしていた。
森が一瞬、静寂に包まれた。
マーカスは微動だにしない。大地がヒビを刻むほど、足に力を込めて叫んだ。
「終わらせてやる!」
逃げるのではなく、彼はそのまま獣の口へと飛び込んだ。
顎が閉じるよりも早く、暗闇の中でナイフが閃いた。肉を、筋を、激しく切り裂く。
血が飛び散り、獣の喉奥でマーカスは暴れまわった。
苦しみにのたうつ獣。地面を引き裂きながら必死に暴れた。
マーカスは止まらなかった。
最後の一閃で、彼は獣の首の反対側を切り開き、飛び出した。
地面に叩きつけられながらも体を転がして衝撃を逃す。
血まみれのまま、ナイフを手にした彼の目は獣を捉えていた。
獣はよろめいた。動きが鈍く、不安定になる。
首の裂けた傷から血が滝のように流れ出し、地面に広がっていく。
輝いていた眼光は徐々に陰り、かすれた鳴き声を最後に、獣は崩れ落ちた。
ドン――!
大地が揺れるような音と共に、巨体は沈黙した。
マーカスはその亡骸を見下ろしながら、荒い呼吸を繰り返した。
全身の力が抜け、ナイフが手から滑り落ちそうになる。
「……終わった」
膝から崩れ落ちるようにして後退し、近くの木にもたれかかる。
頭上には、枝の隙間から淡い光が差し込んでいた。
森は今、静寂に包まれていた。風が葉を揺らす音だけが耳に残る。
彼は拳を握りしめ、怒りに満ちた叫び声をあげながら地面を殴った。
乾いた音と共に、土が割れる。
「クソが……!いつになったら、このクソ森から出られるんだよっ!!」
荒い息のまま、しばらくその場に座り込む。怒りが徐々に静まり、彼の目は遠くを見据えた。
――山だ。
遥か彼方に、切り立つ峰がそびえ立っていた。
その中心には狭い裂け目があり、まるで彼を導くかのように道が開けている。
マーカスの目が見開かれる。胸の奥に、久しく感じなかった希望の灯がともった。
「……やっとかよ」
乾いた笑い声が漏れる。最初は小さく、だが徐々に大きくなっていく。
「そうか……そういうことか……」
笑いながら、彼はゆっくりと立ち上がった。
足元はふらついていたが、それでもしっかりと前を向いた。
血を拭い、険しい顔に決意の色を宿す。
「みんなも、どんな地獄をくぐったんだろうな……」
最後に一度、獣の亡骸に視線を投げたあと、彼は山へと目を戻した。
背後の森は沈黙を保っていたが、前には確かな道がある。
マーカスはその場を踏み出した。足元の草が柔らかく沈み、風が頬を撫でた。
――初めて、まともに息ができた気がした。
彼は草の上に倒れ込み、空を仰いだ。
地平線は遥かに伸び、遠くには火星の首都の塔が煌めいていた。
「終わったんだ……」
そう呟く声は、かすれていた。
体の力を抜き、しばらくそのまま空を見つめる。
しかし、心は安らがなかった。
頭の中に浮かぶのは、失った家族の姿――もう戻らない笑顔たちだった。
胸が締め付けられ、彼は歯を食いしばる。
拳を握りしめ、掌に爪が食い込むほど力を込めた。
「心配するな……絶対に……復讐してやる……全員、だ……」
その時、近くの草が揺れた。
マーカスは即座に目を開け、全神経を集中させた。
そこに立っていたのは――マルリク・クラウンだった。
おどけた笑みを浮かべながら、彼は両手を大げさに広げた。
「おめでとう!」
クラウンは叫んだ。「生き延びたな!君ならできると……まあ、多分思ってた!」
マーカスの顔が険しくなる。
即座にナイフを振るい、彼の胸を目がけて斬りかかった。
だが、クラウンの姿は消え、数メートル先にひょっこり現れた。
「まだちょっかいを出す気か?」
マーカスは低く唸るように言った。紅い目が怒りで燃えている。
クラウンは首を傾げ、にやりと笑う。「何のことだい?」
「くたばれ」
マーカスが吐き捨てるように言い、ナイフを強く握りしめた。
「ひどいなぁ、そんなこと言われたら泣いちゃうよ」
クラウンは胸に手を当てて嘘泣きを演じた。「泣く演技って意外と難しいんだぜ?」
マーカスの目つきが鋭さを増す。その様子に気づきながらも、クラウンは軽く笑みを浮かべたまま続けた。
「さて!」
声色が急に変わり、クラウンの雰囲気が真剣なものに切り替わる。
「時間を無駄にするな。で、学んだことは?」
マーカスは歯を食いしばった。「お前は……悪魔だな」
クラウンは指を振りながら言った。「違う違う。俺は情報も食料もほとんど与えず、地獄みたいな環境で“生き残る術”を教えただけだよ。最高の教育だと思わない?」
マーカスは顔をしかめたまま、しばし沈黙した。
「……腹立つが、納得してしまうのがさらにムカつく」
クラウンは満足げに眉を上げた。「それで、次はどうするんだ?」
「やめろって言うのか?」
「まさか」
クラウンは満面の笑みで答えた。「君が続けるのは分かってたよ。森なんかより、戦争のほうがよっぽど地獄だからな」
マーカスの目が細まり、鋭い視線がクラウンを突き刺す。
「お前が一番、それを分かってるんだろう?」
クラウンの表情が、ほんの一瞬だけ和らぐ。だがすぐに、いつもの飄々とした笑顔に戻った。
「ようやく気づいてきたな。じゃあ、一つ忠告しておこう」
クラウンは歩み寄り、囁くような声で続けた。
「もしまだ“道徳”なんてものにすがってるなら──それは君の足枷にしかならない」
マーカスの耳がぴくりと動いた。だが彼は真っ直ぐ立ち、静かな声で言った。
「道徳があるから、俺は強くなれるんだ」
クラウンは盛大に笑い出した。その笑い声は風に乗って野に響く。
「ははっ!昔の俺にそっくりだ!」
マーカスの目が細くなった。「お前がまだ正気だった頃か?」
クラウンは肩をすくめた。「副作用だよ、きっと」
軽く手を振りながら言った。
「でもな、大事なことを教えてやる。敵は君の“強さ”も“正しさ”も気にしない。ただ、自分の目的のためにすべてを壊していくだけだ。なら、君も──獣みたいに全力で、正面からぶつかるしかない」
マーカスは視線を地面に落とした。頭に浮かぶのは、失われた家族の記憶。
――もし、あのときもっと強ければ。準備ができていたなら……
「おい、ボーッとすんな!」
クラウンが指を鳴らすと、マーカスははっと我に返った。
「さて、次は武器訓練だ!」
「武器訓練……?」
クラウンが片手をかざすと、空間に光がきらめき、そこから黒く滑らかなスナイパーライフルが現れた。
その表面には淡く輝く魔法紋様が刻まれている。
「これなんかどうだ?最近はスナイパーが人気なんだぜ?」
クラウンが得意げに言いながら差し出す。
「……いらない」
マーカスは即答した。
クラウンはため息をつき、指をパチンと鳴らす。
ライフルは消え、代わりに剣と拳銃が現れる。どちらも魔力を帯び、光を放っていた。
「こっちはどうだ?」
マーカスは剣の柄に手を添えた。ビリビリと伝わる力の鼓動に、眉がわずかに動く。
視線を拳銃に移し、その精巧な造りと威力を感じ取った。
「いいぞ」
クラウンはにやりと笑った。「全部覚えさせてやるからな!」
「全部……か」
マーカスは眉を上げながらも、剣を強く握った。
「……面白そうだな」
クラウンは一歩後ろに下がり、マーカスを見つめたまま頷いた。
「じゃあ──始めようか」
その声は、鋭く、冷たい武器のように響いた。