ザラ・ブリッツ
アイカは目を覚ました。ザラ・ブリッツの鋭い声が、彼女のぼんやりとした意識を平手打ちのように切り裂いた。
「起きろ、新兵!」ブリッツが怒鳴った。その命令口調は、無機質な壁に反響していた。
アイカは飛び起き、胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。目を何度も瞬かせて、自分の状況を理解しようとする。部屋は簡素で冷たく、まるでここが“家”ではないことを突きつけてくるかのようだった。彼女の柔らかい茶色の目は、ベッドの足元に立つ威圧的な人物を捉えた。
「す、すみません!寝過ごすつもりじゃなかったんです!」アイカは慌てて乱れた銀髪を整えながら謝った。制服の裾をもじもじといじりながら、急いでお辞儀をする。彼女の動きはあまりにも慌てふためいていて、もはや滑稽に見えるほどだった。目に見えないシワを必死に伸ばそうとするその手は、まるで間違いをなかったことにしようとでもしているかのようだった。
ブリッツは床に杖を叩きつけた。その音は金属を打つように鋭く響く。「謝罪ではライオネルの軍勢から身を守れない。ここに来たのは訓練のためであって、寝るためじゃない!」
ライオネルの名が出た瞬間、アイカの動きが止まった。胸が締めつけられ、視界がかすむ。あの日の悪夢のような光景が脳裏によみがえる。街を飲み込む炎、響き渡る悲鳴、そしてすべてを覆うライオネルの影。アイカは拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのも気にせず言い聞かせる。泣いちゃだめ。ここでは。
「も、もっと頑張ります……」彼女はかすれた声で言い、再び頭を下げた。銀髪が前に垂れ、涙に濡れた目を隠した。
ブリッツは少しだけ眉をひそめたが、口調は変わらなかった。「どうした?幽霊でも見たような顔して。お前、本当にやっていけるのか?」
アイカは震える足をふんばり、背筋を伸ばす。声を絞り出すように、でも確かな響きで答えた。「はい。頑張ります。必ず。」
ブリッツは小さく鼻を鳴らした。「まったく…謝ってばかりじゃ意味がない。」くるりと背を向け、ドアの方を指さす。「ついて来い。訓練はもう始まってる。」
アイカは急いでブーツを履き、転びそうになりながらブリッツの後を追った。
彼女たちが入った訓練場は巨大で、壁には淡く光る魔石が埋め込まれ、不気味な光を放っていた。空間にはあらゆる形の魔導具が置かれ、空気はピリピリとした魔力に満ちている。
「お前にはかなりの魔力の素質がある。」ブリッツは部屋の中央に立ち、アイカを振り返って言った。「でも、素質だけじゃ意味がない。聞くぞ――お前を突き動かしてるのは何だ?復讐か?ライオネルに報いを受けさせたいのか?自分を傷つけた者を滅ぼしたいのか?」
その問いは、アイカにとって殴られたような衝撃だった。息が詰まり、言葉が出ない。涙が溢れ、視線を落とす。記憶を押し込めるように強く唇を噛む。
「違います……」最初はかすかな声だったが、アイカは顔を上げ、涙を流しながらもはっきりと言った。「復讐なんて、したくありません。」
両手を胸に当て、彼女は続けた。「私は……友達を守りたいだけです。傷つく姿を見るのが嫌なんです。守れる力があるなら、何だってします。それだけです。大切な人たちを、守れる自分になりたいんです。」
ブリッツはじっと彼女を見つめた。その鋭い目に、一瞬だけ読めない感情が揺れた。
「他の新兵とはちょっと違うな。」彼女はそう呟いたが、口調に甘さはなかった。「でも、それで特別扱いされるわけじゃないぞ。」
アイカは急いで涙を拭いながらうなずいた。「分かってます。だからこそ、全力で頑張ります。」
ブリッツはうっすらと笑みを浮かべ、背後の扉を指さした。「よし。ならまずは、本気の仕事からだ。」
扉を開けると、そこには魔獣たちがうずくまっていた。体のあちこちに傷を負い、苦しそうに唸る者もいる。その光る身体は、痛みと病で弱まり、かすかにしか輝いていなかった。アイカは足を止め、胸が痛むのを感じた。
「朝からこいつらを集めて回ったのよ。」ブリッツは杖に寄りかかりながら言った。「運ぶの、めちゃくちゃ大変だったわ。」鋭い視線をアイカに向ける。「あんたが寝てる間にね。」
アイカの顔が真っ赤になる。「すみません!本当にありがとうございます!」
「まだ礼を言うのは早い。」ブリッツは発光する手袋をアイカに投げた。手袋は手の中で微かに振動していた。「お前の仕事は、こいつら全員を癒すこと。ひとり残らずな。」
アイカは手袋を不安げに見つめながら呟いた。「こんなこと、やったことないのに……」
「難しいことじゃないわ。」ブリッツは腕を組みながら言った。「治った姿をイメージして、その痛みを消すの。あとは魔力を流すだけ。」
アイカは、毛並みがくすみ元気のない狼のような魔獣のそばに膝をついた。そっとその脇腹に手を置き、目を閉じる。治った姿を思い描く――すると、彼女の手から淡い銀色の光が広がり、魔獣の身体を包んだ。やがてその目がゆっくりと開き、ふらつきながらも立ち上がり、アイカの手に鼻をすり寄せた。
「……できた……」アイカは呟いた。驚きと感動で目を見開いたまま。
ブリッツは片眉を上げた。「初めてにしては悪くないわね。」そして部屋全体を指さした。「あと、300体ね。」
「さんびゃく……っ?!」アイカは口をあんぐりと開けて周囲を見渡した。すでに腕が重たく感じる。
「“頑張る”って言ったわよね?」ブリッツは意地悪く笑った。「さっさと始めなさい。終わったら、すぐ戦闘訓練に入るから。」
アイカはため息をついた。疲労がすでに体にのしかかってくる。今日は……寝られそうにないな。
そう思いながらも、彼女は頭を振って気持ちを切り替え、手袋をはめ直して次の魔獣のもとへ膝をついた。
「……よし。やってやる。」彼女は小さく呟いた。震える気持ちを抑え、決意の炎を灯して。
ブリッツは背後で腕を組んだまま、無言でアイカを見つめていた。その眼差しには厳しさが宿っていたが、どこかに微かな期待の色もあった。
アイカは深呼吸し、手を震わせながら次の魔獣に手を伸ばした。それは角の折れた小さな鹿のような生き物で、身体の一部が黒く腐食していた。アイカは恐る恐る手を置き、心を落ち着けて集中する。
「大丈夫……きっと治せる……」彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
また銀色の光がゆっくりと広がる。傷口が閉じ、腐食が消えていく。魔獣の瞳に生気が戻り、アイカをじっと見つめると、軽く頭をこすりつけて感謝の意を示した。
「ふふ……よかった……」アイカは微笑んだ。さっきまでの緊張が少し和らいだ気がした。
しかしブリッツはすぐに冷たい声で言った。「満足してる暇はないわよ。時間内に全員治せなければ意味がない。」
アイカは肩をすくめ、すぐに次の魔獣へと移動した。時間が経つごとに疲れが蓄積していく。手の震えはひどくなり、目の前がかすんでいく。それでも、彼女は止まらなかった。
「あと少し……みんな……私が守るから……」アイカはぼそっと呟いた。
そして何体目かを治癒し終えたとき――
ブリッツの声が飛んだ。「ストップ。」
アイカは反射的に動きを止め、顔を上げる。
「ちょうど時間切れ。ふむ……全部は無理だったけど、思ったよりやるじゃない。」ブリッツは静かに言った。彼女の目に、ほんの僅かだが、満足の色が浮かんでいた。
アイカは床にへたり込みながら、汗だくの顔に笑みを浮かべた。「ありがとうございます……」
ブリッツは杖を肩に担ぎながらくるりと背を向けた。「感謝はまだ早いわ。次は戦闘訓練。体力ゼロでも動けるか、見せてもらうわよ。」
「え……」アイカの顔が青ざめた。
「休憩は三分。走って準備しなさい。」
「三分!?」アイカは叫びそうになったが、すぐに自分を叱咤し、立ち上がる。足は重く、汗で手袋は滑る。それでも、彼女は走り出した。
――まだ終わりじゃない。私には、やるべきことがある。
疲労の奥に、燃えるような意志があった。
そう、彼女はただの少女ではない。誰かのために立ち上がる“力”を持ち始めていた。
そして訓練は、これからが本番だった。