マッドマン・マルリク・クラウン
「……何があった……?」
マルクスはかすれた声で呟き、ゆっくりと身体を起こした。目を走らせると、そこには粗い石造りの壁。冷たく湿っており、天井のちらつく明かりが幽かな影を揺らしていた。どう見ても改装とは無縁の場所で、快適さとは程遠い。
「……今度はどこだよ……」
マルクスはこめかみを押さえながらぼそりと呟いた。
床もまた冷たく硬く、歓迎されている気配はない。彼が立ち上がると、ブーツの音が石の床に響いた。体がぐらつき、壁に手をついて体勢を立て直す。まるで船に引きずられたかのような疲労が全身に残っていた。
慎重に一歩踏み出し、部屋を見渡す。使い古された金属の扉がひとつ、今にも崩れそうな椅子がひとつ……それだけ。窓もなければ、音も生命の気配もない。
「……これが合図ってわけか」
マルクスはそう呟きながら扉へと歩み寄る。手をかけると、取っ手は凍えるほど冷たく、老人の背骨のような軋む音を立てて開いた。
その先には、果てしなく続くような薄暗い廊下。マルクスは振り返ったが、後戻りなどできないとでも言うように、またため息をついて前を向いた。
「戻れないってことか……」
そう呟いて一歩踏み出した瞬間、背後の扉が轟音と共に閉まった。
「うわっ!?なんだよ今のは……!」
マルクスは振り向いて取っ手を掴む。力いっぱい引っ張っても開かない。
「ふざけんな……!」
怒りに任せて引っ張るが、無駄だった。
そして、石が擦れるような重い音が響く。彼が振り返ると、そこにはもう扉などなかった。ただの滑らかな壁が広がっているだけ。
マルクスは一歩後ずさりし、髪をかきあげた。
「……終わったな。マジで終わった……」
深く息を吸い込み、マルクスは再び前を向いた。
「大丈夫、マルクス。もっとヤバい状況、あったかもしれない。これは……訓練だ。強くなって、人類を救って……うん、普通、普通だよな」
自分に言い聞かせるように笑ったが、その笑いはどこか震えていた。
廊下の空気は重く、湿っていて、金属のような匂いが漂っていた。彼の足音だけが響く中、マルクスはゆっくりと歩き始めた。
「お願いだから……まともな先生であってくれよ。狂ってないやつ……せめて、風呂に入ってる人で……」
その瞬間――背筋に走る冷たい電流のような感覚。
マルクスは凍りついた。背後に何かいる。振り返るなと本能が警告していたが、好奇心と恐怖が勝ってしまった。
ゆっくりと、彼は振り向いた。
そこには――人間のようで人間じゃない「何か」が立っていた。
マルクスの顔のすぐ前。近すぎる。異常な距離感。
そいつは耳まで裂けそうなほどの笑みを浮かべていた。髪は爆発でもしたかのように四方に逆立ち、重力を無視していた。左右の瞳は色が違い、どちらも得体の知れない光を宿している。
そして、長くボロボロのコートが風もないのにバサバサと揺れ続けていた。まるで彼専用の風が吹いているかのように。
「……呼んだ?」
男が、耳元で囁くように言った。
息が近い。臭い。腐った何かが混ざったような酸っぱい匂いがした。
マルクスは反射的に顔を背けた。
「誰か、狂人って言ったか?」
男はにやにやと笑いながら言った。
マルクスの口から、情けないほど高い悲鳴が漏れた。
「ぎゃあああああっ!?」
彼は飛び退き、胸を押さえながら壁に背中をぶつけた。
「な、なんだよお前っ!?」
男――マルリク・クラウンは腹を抱えて爆笑していた。膝を叩き、肩を震わせながら、完全にツボに入った様子だった。
「ハハハ! 今の顔!最高だったぜ!もう、笑い死ぬかと思った!」
マルクスは顔を真っ赤にしながら睨みつけた。
「お、俺は別にビビってねーし!」
声が裏返っている。動揺を隠しきれない。
「お前の……その匂いがヤバいんだよ!なんだよそれ!ゴミ箱で爆発でもしたのか!? 石鹸って知ってるか!?」
マルリクは涙をぬぐいながらニヤリと笑った。
「潔癖か、可愛いなぁお前。けど安心しな、そんな習慣、すぐぶち壊してやるよ!」
マルクスは一歩後ずさり、腕を組んだ。
「いや、絶対無理だ。これ、すでに悪夢の始まりだわ……」
マルリクは片手を差し出してきた。
その手は汚れていて、まるで病原菌のかたまりのように見えた。
「よろしくな、マルクス・セントリオン。さあ、訓練を始めようか?」
マルクスはその手をまるで毒物でも見るかのように睨みつけた。
「……絶対に無理だ」
するとマルリクの瞳がギラリと輝き、口元が不気味に吊り上がった。
「心配すんなよ。終わるころには、お前は戦場で最強になるか――泣きながら命乞いするかのどっちかだ。どっちにしろ面白いけどなァ!」
マルクスはごくりと唾を飲み込んだ。胃の奥に重い不安が渦巻く。
「俺……一体何に巻き込まれたんだ……」
「さぁて!出発だ!」
マルリクが大げさに両手を広げ、まるで舞台俳優のように叫んだ。
その瞬間だった。
マルクスが瞬きをした次の瞬間、世界が崩れ始めた。
石造りの壁、ちらついていた天井の明かり、冷たい床――すべてが溶けるように消えていく。まるで夢の終わり。
気づけば、彼は広大な草原に立っていた。
黄金色の草が風に揺れ、冷たい空気が肌をなでる。
「……なにこれ……」
マルクスはあ然としながら周囲を見回した。
空は広く、焼けたようなオレンジと深い紫が交差し、遠くには鋭くそびえる崖が見える。まるで別の惑星――いや、別の世界に迷い込んだようだった。
「こっちだこっちー!」
マルリクが陽気に手を振りながら先導していく。まるで観光案内でもしているかのような態度。
半信半疑でマルクスはその後ろを追った。彼の足はまだ震えていたが、好奇心と不安が同時に背中を押していた。
マルリクは軽やかな足取りで進み、崖の縁でぴたりと止まった。
マルクスも立ち止まり、その隣に並んで下を見下ろした瞬間――息を飲んだ。
そこには、広がる巨大な森があった。
木々は不自然なほど鮮やかに輝き、エメラルドやサファイアのような葉が、まるで宇宙のかけらを宿しているかのように光っていた。
「……これが……」
マルクスの口から自然に言葉が漏れる。
「うんうん、いいリアクションだ!」
マルリクは両腕を広げ、満面の笑みを浮かべながら言った。
「さあ見てごらん!この奇跡を!この絶景を!この地獄を!」
「ここは――マーズ・ルナ・フォレストだ!」
マルリクが誇らしげに宣言した。
マルクスは目を見開いたまま、呆然と森を見つめていた。
「こんな場所……見たことない……」
「そうだろう!だけどな、坊や――」
マルリクの声が急に低く、ぞっとするような響きに変わった。
「お前にとっては、“永遠の悪夢と地獄の森”って呼ぶことになるだろうな!」
マルクスは一瞬きょとんとし、それから眉をひそめた。
「は?なんでだよ?」
「この森は誰も住んでいない理由があるのさ」
マルリクが笑みを浮かべたまま、口調だけは不気味に冷たくなる。
「この中にはな、魔力結晶から生まれた魔獣どもがウヨウヨしてる。触れただけで食われるか、消し飛ばされるかだ」
マルクスの胃がきゅっと縮こまる。
「……それなのに、なんで俺をここに連れてきたんだよ……」
「訓練だって言ったろ?」
マルリクは手をパンと打ち鳴らして笑った。
「お前の任務は、この森の端っこまでたどり着くこと!」
マルクスは再び森を見下ろし、永遠に続くような木々を睨んだ。
「……端っこなんて見えないぞ。無限に続いてるだろ……?」
「それは幻覚だ。実際には終わりがある。たぶんな!」
マルクスは拳を握りしめ、表情を険しくした。
「……わかったよ。やってやるよ。俺が強くなれば……あいつらを倒せるなら……もう誰にも、俺と同じ苦しみを味わわせないために……!」
声は怒りで震えていたが、その目には強い覚悟が宿っていた。
マルリクの口元が、にぃ、と歪む。
「いいねぇ。その目だよ、待ってたぜ……」
その直後だった。
マルリクは何の前触れもなく、マルクスの肩を押した。
「じゃ、頑張ってこーい!」
「――え?」
「――うわああああああああああああああっっ!!!」
マルクスの叫び声が空に響いた。
身体が宙に投げ出され、急速に地面が迫ってくる。何が起きたか理解する前に、落下が始まっていた。
風が耳を裂き、草原の匂いが鼻を突く。
「アイツ!完全に狂ってる!!!」
必死に手足をばたつかせながら、マルクスは絶叫した。
「絶対に戻ったらぶん殴ってやるからなあああああああ!!」
崖の上から、マルリクの声がのんびりと追いかけてきた。
「イカれてる?そうとも!完全にイッちゃってるのさ!」
彼は腹を抱えて笑いながら叫んだ。
「生き延びるのに必要なものは、ぜ〜んぶ下にあるから安心しな〜!……たぶん!それじゃ、ばいばーい!」
視界がぶれる。空が回る。
マルクスの思考は混乱し、恐怖と怒りが渦巻く。
そして――
暗転。
意識が、すうっと深い闇に沈んでいった。
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