アラリック・ヴェイン.
アーニクが目を覚ましたとき、柔らかな陽光が装飾された窓から差し込んでいた。
目をこすりながら周囲を見回すと、金色の縁取りがされた肖像画たちが、まるで彼を裁く先祖のように睨みつけていた。深紅のカーテンが風に揺れ、シャンデリアはまるで自己主張するかのように煌めいていた。
「……ここは、どこだ?」アーニクは眠そうに呟き、信じられないほどふかふかの毛布にさらに沈み込む。
「いやいや……絶対に来る場所間違えてるだろ、ここ」
その思考が終わるより早く、扉がきしむ音とともに、ひとりのメイドが優雅に入室した。
その完璧すぎるお辞儀に、アーニクは無意識に背筋を正した。
「お待ちしておりました、旦那様」と、彼女は穏やかで洗練された声で言った。「どうぞ、ご案内いたします」
(待たれてた?冗談だろ……)アーニクの脳内は混乱する。
「俺、絶対ここに来る予定じゃなかったはずだよな」と考えながらベッドから足を下ろす。
足元の絨毯さえも、彼の存在を咎めるように柔らかく沈んだ。
渋々ながら彼女の後をついて行こうとしたそのとき――
**ブゥゥゥン……**という低い音が空気を震わせた。
「ん……?」アーニクが言いかけた瞬間、どこからともなくホバーチェアが猛スピードで飛んできて、彼を荷物のように拾い上げた。
「わっっっ!?おい何だこれええええええっ!!」彼は絶叫しながら、必死にアームレストを掴んだ。
椅子は豪奢な廊下を高速で滑走していく。
その横を、まるでこれが当たり前かのように、メイドは優雅な足取りで並んで歩いていた。
そして椅子はぴたりと止まり、巨大なテーブルの前で静止する。
テーブルの木目は磨かれていて、まるで鏡のように光っていた。
アーニクがその豪華な部屋に目を奪われているうちに、メイドは目の前に湯気の立つ皿を置いた。
パンケーキだった。
黄金色に焼かれたパンケーキ。シロップがたっぷりとかかり、上には星型のスプリンクルが散りばめられていた。
「ごゆっくりお召し上がりくださいませ」メイドは丁寧に一礼した。
「当家の主は、まもなくお見えになります」
アーニクは皿を見つめ、腹がぐぅっと鳴った。
星型スプリンクルに眉をひそめつつ、メイドをちらりと見て考える。
(これ……なんかの試験か?)
目を細めながら、彼はフォークを手に取る。
「……ま、食わない方が失礼だよな」
そして――食べた。
最初の一口で彼の世界は変わった。
ふわっふわで、甘くて、何かもう言葉にならないほど美味い。
もはや食べるというよりも――破壊していた。
シロップは口の端から垂れ、彼は皿に戦いを挑むかのように食らいついていた。
メイドは何も言わずに皿を再び満たした。
「なるほど……こういうノリか」とアーニクは納得し、さらに食べた。
三皿目を平らげたとき、彼は椅子に背を預け、満足げに腹をさすった。
(これが試験なら……俺、完璧に合格してるな)
だが、次の一口に手を伸ばそうとしたその瞬間――
廊下に足音が響いた。
それはゆっくりと、威厳に満ちた足取りだった。
当家の主――アラリック・ヴェインが現れた。
ヴェインは、空中に浮かぶ玉座に優雅に座ったまま、廊下を滑るように進んできた。
磨き抜かれた床に反射するその姿は、まるで幻のようだった。
片手には繊細なティーカップを持ち、左目にはモノクルを装着していた。それは柔らかな光を受けて微かに輝き、彼の貴族的な雰囲気を際立たせていた。
完璧に仕立てられたスーツは一切の乱れもなく、彼の一挙手一投足に、圧倒的な気品が宿っていた。
その姿を見た使用人たちは、深々と一礼する。
「御当主様」と、執事が穏やかに言う。
「お好みの献立を、すべてご用意いたしました」
ヴェインは、ティーカップを口元に運びかけたところでふと手を止め、ゆっくりとそれを下ろした。
そして、絹のハンカチで口元を丁寧に拭う。
その仕草一つすら、洗練された芸術のようだった。
「――香りが実に素晴らしい」
その言葉に、部屋の空気までもが静かに染まっていく。誰もがその一言に注目し、彼の存在感に飲まれていく。
アーニクは、まだ口の端にシロップを付けたまま、呆然とその姿を見ていた。
(なにこの人……現実か?)
ヴェインの玉座は、食卓に合わせてふわりと降下し、音もなく完璧な位置に収まった。
彼の姿勢は寸分の狂いもなく、片肘を椅子の肘掛けに添えて優雅に座る。
そして、その冷静で鋭い視線が――アーニクを捉えた。
ヴェインの玉座は、食卓に合わせてふわりと降下し、音もなく完璧な位置に収まった。
彼の姿勢は寸分の狂いもなく、片肘を椅子の肘掛けに添えて優雅に座る。
そして、その冷静で鋭い視線が――アーニクを捉えた。
アーニクは未だに姿勢が崩れたまま、パンケーキの皿に前のめりだった。唇の隅にはまだシロップの輝きが残っている。
静寂。
二人のあいだに流れる重く、張り詰めた空気。
だが、ヴェインのモノクルの奥で、ほんの一瞬だけ、愉快そうな光が揺れた。
「――ほう」ヴェインは低く、滑らかに言った。軽く手を動かしてアーニクの皿を示す。
「パンケーキは……満足いただけたようだな」
アーニクは瞬きをし、ようやく自分の口元を思い出す。慌てて袖でシロップを拭いながら答える。
「えっと……ああ。うまかったです」
口の中にまだ残っていた一口が、返答をもごもごと濁らせる。
ヴェインは眉をほんの少しだけ上げ、口元に薄く笑みを浮かべた。
「……マナーというのは、強制ではない。だが、心の余裕を映す鏡だ」
そのティーカップは、まるで空中から召喚されたかのように現れたソーサーの上に、静かに置かれた。
「君が例の赤タグか」
アーニクは慌てて飲み込んで姿勢を正す。
「えっと……多分、そうです」
ヴェインは静かに頷く。その視線は変わらずまっすぐアーニクを見据えていた。
「私の名は、アラリック・ヴェイン。そして君の名は?」
「アーニク・ハンダーフォールです」
今度は、しっかりとした声で名乗る。視線も逸らさない。
ヴェインの笑みが、ほんの少しだけ深まった。
「ハンダーフォール……」まるで、その名を味わうように口にする。「なるほど」
しばしの沈黙。ヴェインは指を組み、椅子にもたれる。
「では、アーニク・ハンダーフォール。歓迎しよう」
「私のもとについた意味――その重さを、君は理解しているかな?」
アーニクは椅子に座り直しながら、答えを探すように眉を寄せた。
「……そのうち分かると思います」
その言葉に、ヴェインは喉の奥でくすりと笑った。その笑みには、警告にも似た何かがあった。
「そうだな。いずれ、分かるだろう」
ティーカップを再び持ち上げながら、ヴェインの声には妙な余裕と含みが混ざっていた。
「そして、それは――決して忘れることのできない経験になる」
食事は静かに進み、テーブルの上から次々と皿が片付けられていく。召使いたちは影のように動き、一切の無駄を見せなかった。
やがて、アーニクは椅子に軽くもたれながら、満腹感に包まれていた。
だが、心の奥では――次に何が起きるのか、ざわつく不安が渦を巻いていた。
ヴェインは最後の一口を優雅に終え、ナプキンで口元を丁寧に拭った。ナプキンを折りたたみ、きっちりとテーブルに置く。
その動作が終わると同時に――
空気が変わった。
彼の表情から微笑みが消え、指を組み直したその仕草に、凛とした鋭さが宿る。
「さて」ヴェインは静かに口を開く。その声には、重みと集中力が滲んでいた。
「本題に入ろう」
アーニクは無意識に背筋を伸ばした。
ヴェインのモノクルが光を反射し、その視線が鋭く彼に突き刺さる。
「君の――目標は何だ?」
その一言は、まるで試験の問いのように重く、空気を張り詰めさせた。
アーニクの拳が、膝の上で自然と握られる。
「リオネルを止めることです!」彼は答える。「人類のために……もう誰にも傷ついてほしくない。大切な人たちを、守りたいんです」
ヴェインの唇がわずかに動いた。微笑――それは今度、確かに“本物”だった。
「……美しい」彼は静かに言う。その声には、わずかな称賛の響きがあった。
だが次の瞬間、視線が鋭くなる。
「では、聞こう。その目的のために、君は何を差し出すつもりだ?」
その問いに、アーニクは息を呑む。
だが迷いはなかった。
「――手段は問いません。化け物になることさえ厭わない」
その言葉を聞いた瞬間、空気が――変わった。
ヴェインの微笑みがスッと消えた。
その美しい顔に、まるで闇の影が差したかのように、表情が強張る。
彼は、再びナプキンを取り、意味もなく口元を拭った。完全に冷静な動作。しかし、その瞳の奥には、嵐が渦巻いていた。
「……なんと下劣な」
ヴェインは低く呟いた。その言葉には、吐き捨てるような落胆がこもっていた。
アーニクが何かを言おうとしたその瞬間――
ドンッ!
ヴェインの両手がテーブルに叩きつけられた。
その衝撃は、まるで空気を叩き割るような音と圧力を生み出し、部屋全体に緊張の波紋を走らせた。
優雅だった雰囲気が、一瞬で吹き飛んだ。
ドゥン……ドゥン……ッと、見えない圧がアーニクを包み込む。
彼の身体が椅子に押し付けられ、胸が苦しくなる。
ドゥン……ドゥン……ッと、見えない圧がアーニクを包み込む。
彼の身体が椅子に押し付けられ、胸が苦しくなる。
アーニクの心の中に響く。
(な、何だこの……圧力……!)
ヴェインの身体の周囲に、黒い魔力のオーラが走った。それはまるで、目に見えない鎖のようにバチバチと音を立て、空間を軋ませる。
使用人たちは、一秒も迷うことなく退室した。だが、執事だけは微動だにせず、主の隣に立ち続けた。
ヴェインの声が轟く。
「子供じみたッ!!」
その声には、雷鳴のような怒りと威圧がこもっていた。
「上品さの欠片もない!」
アーニクは押し潰されるような重圧に耐えながら、かすれた声を絞り出す。
「な、なんで……?」
「豚のように食い漁り、礼儀も知らず、“人類のため”だなどと口にするくせに――!」
ヴェインの声がさらに強くなり、空気が震える。
「化け物になる覚悟だと?」
彼のモノクルが鈍く光る。表情はもはや怒りの化身そのもの。
「君は正義のつもりかもしれんが、その覚悟は――ただの愚か者だ。」
アーニクの呼吸は浅くなり、胸が押し潰されそうだった。
心臓が高鳴る。冷や汗が背中を伝う。
(……動けない。体が……重い)
だがそのとき――
ヴェインがふっと息を吐いた。
その一呼吸とともに、狂気じみた魔力の圧が一瞬で消えた。
空気が解放され、アーニクは大きく息を吸い込む。
ヴェインは静かに椅子へと腰を下ろし、先ほどと同じ完璧な姿勢で座り直した。
ナプキンをきっちりと畳み、指を組む。
その動作は、再び優雅そのものでありながら――まるで何かを見限った者の静けさだった。
「……助言をしよう」ヴェインの声は、再び落ち着いていた。だが、その言葉には冷ややかな刃が含まれていた。
「道を踏み外した者が戦場に出れば、そこはただの屠殺場になる」
アーニクは、肩で息をしながら、目を見開いていた。まだ状況が掴めず、ただ黙って座っていた。
ヴェインの視線が、再びアーニクに突き刺さる。
「君の“正義”は、空っぽだ。 モンスターになれば勝てると思ったか?」
「……勝ったとして、そこに何が残る?」
その声は冷たくも、どこかに哀しみが滲んでいた。
「道徳を失った戦争は、勝っても意味がない。灰しか残らない」
アーニクは、手を握りしめながら答えた。
「……だけど俺には……それしか思いつかなかったんです」
「人間のままじゃ、あの化け物たちには勝てない……! どうやって……!」
その声には、怒りと悔しさと、迷いがすべて混ざっていた。
ヴェインの唇が、ほんの少しだけ動く。
微笑……とは言い難い。だが、それは確かに理解者の顔だった。
「――やがて分かるようになるだろう」
その声には、ほんのわずかに優しさが含まれていた。
「君がどう生き、どう戦うか」
「それこそが、“本当の強さ”に繋がる」
アーニクは黙ったまま、俯いた。
胸の中で、何かが揺れていた。
怒りでも、反発でもない――問いだった。
(モンスターにならずに、強くなれるのか……?)
(人として……戦えるのか?)
ヴェインは静かに席を立ち、ティーカップを宙へ戻す。
そして、振り返らずに告げる。
「明朝より訓練を開始する。覚悟しておけ」
その声には、威圧も怒りもなかった。ただ、師としての静かな指示だった。
アーニクはゆっくりと立ち上がり、まだ揺れる思考の中でただ一言、絞り出した。
「……はい」
ヴェインは頷き、静かに去っていく。
広間には再び静寂が戻った。
だが、その静寂の中で、アーニクの心には確かに何かが残されていた。
それは恐怖でも、絶望でもない。
始まりの感覚――“何かが変わり始めた”という、確かな予感だった。