猫をかぶった天使と、堕ちた子役女優
教室のドアを開けると、ゆるい空気がスグルを出迎えた。
ざわざわとした声はあるものの、緊張感はほとんどない。
去年とほぼ同じ顔ぶれ。
前のクラスで一緒だった奴らが、いつものように笑って、いつものようにふざけてる。
(……やっぱり、変わり映えしねーな)
スグルは眠気まじりにあくびをひとつ。
窓際の席に歩いていき、カバンを机の上にドサッと投げた。
「……ふぁぁ」
椅子に沈み込んで腕を組み、目を閉じようとした――その時。
「おはよう、スグル」
隣の席から、涼やかな声。
顔を上げると、そこには西園寺ミツル。
去年からずっと同じクラスで、成績優秀・容姿端麗・非の打ち所がない完璧女。
……を、演じている。
「……おはよ」
「ふふ。今日も眠そうね。新学期って眠くなるの、わかるけど」
「新学期とか関係なく眠いわ」
「そっか。三年生って、思ったより忙しくなるから……体調には気をつけてね?」
心配そうな口調。
柔らかい目元。
距離感ゼロの笑顔。
(はいはい、今年も猫かぶる気満々ってわけか)
スグルは心の中でぼやきつつ、口をつぐんだ。
ミツルのことを「本当にいい子だよね」と思ってる奴も多い。
でも、スグルは知ってる。
その完璧な笑顔の下にある、もうひとつの顔を。
「それにしても、また同じクラスになれてよかった。スグルとは何だかんだ縁があるのかもね」
「縁ってより、くじ運の問題だろ」
「ふふ、そうかも」
教室のあちこちでは、笑い声が飛び交ってる。
男子たちは席をくっつけてゲームの話で盛り上がり、女子たちは推しのアイドル談義で盛り上がり、
それぞれの“いつもの位置”に戻っていた。
そんな空気の中でも、ミツルだけはスグルの方をじっと見ていた。
「そういえば……黒川さん、まだ来てないんだね」
「サボりじゃねーの。あいつ、朝弱ぇし」
「ふーん……でも、新学期初日なのに?」
声は優しげだが、言葉の端に棘が混じっているのを、スグルは聞き逃さない。
「まあ……黒川さんらしいといえば、らしいかもね」
「……なんか言いたいことあんのか?」
「ううん、別に。ちょっと気になっただけ」
そう言って、ミツルはにこりと笑った。
その笑顔が、あまりにも自然で。
だからこそ、ゾッとする。
(ほんっと、こいつ……変わってねぇな)
演技のうまさで言えば、元天才子役にも引けを取らない。
むしろ“継続的な猫かぶり力”では上かもしれない。
「ちょっと、先生来る前にお手洗い行ってくるね」
椅子を静かに引き、制服のスカートをきっちり整えながらミツルは席を立った。
その直後――近くの男子の囁き声。
「やべえ、西園寺ってほんと大人っぽいよな……」
「去年より綺麗になってね?」
「てか、スグルと喋ってたのヤバくね? あれ絶対なんかあるだろ」
(めんどくせぇな……)
スグルは頭をガシガシと掻いて、ため息をひとつ。
この教室には――
猫をかぶった天使と、堕ちた子役女優がいる。
そして、その二人の“素顔”を知っているのは、たぶんスグルだけだった。